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その声に顔を上げると、フロントガラスの向こうに、公園から右折してきた白いミニバンが見えた。糸原たちの数十メートル先をゆっくりと走り去っていく。アプリの中の瑞樹も、ミニバンと同じ動きを辿る。
瑞樹があの白いミニバンに乗っているのは間違いなさそうだ。
「どうしますか?」
糸原は葛西の横顔を見て、尋ねた。
「廉くんはどういう状況でしょう?」
それに、葛西が尋ね返す。
「まだ、公園から動いていません」
「位置はどうですか?」
「変わらず、です」
葛西の顔が曇った。
「まず、廉くんを確保しましょう」
葛西は公園へとハンドルをきった。
駐車場の入り口を塞ぐように、葛西は車を停めた。ヘッドライトに照らされた範囲に廉の姿は見当たらない。
エンジンとヘッドライトを点けたまま、葛西は車を降りた。糸原もそれに倣う。
深夜の公園だ。処どころにともる街灯以外に光はない。ヘッドライトの光も限定的で、公園全体を照らすには不充分だ。
葛西はダッシュボードから、懐中電灯を取り出し、公園の奥を照らした。それから、折り畳み式の警棒を大きく振り下ろし、先を伸ばす。
急に吹いた強い風が、ザワザワと回りの木々を揺らし、止んだ。
「廉くんは、どの辺りにいますか?」
葛西が糸原を振り返って尋ねた。
「真っ直ぐ、五十メートルほど先ですね」
画面を見て答える。それに、葛西は懐中電灯を左右に動かし、先を探った。が、何も見当たらない。そのまま、葛西は歩き出した。
もしかしたら、気づかれたのかもしれない。
糸原は、葛西の後ろを歩きながら思った。
廉は腕時計に気づいて、公園に投げ捨てて去ったのかも。あるいは、ポケットから転がり落ちたのかもしれない。
糸原の憂慮をよそに、葛西は懐中電灯で辺りを探りながら、迷いなく歩みを進める。
──瑞樹くんを追いかけるべきだったのでは。
糸原がそう思ったとき、葛西の照らす懐中電灯の光の先に、人影が現れた。
人影はうつ伏せに倒れていて、顔が見えない。が、服装や体型から、廉だということは分かった。
「廉くんっ」
葛西は小走りに廉へと近づいた。
「大丈夫ですか?」と横に膝をつき、肩を揺さぶる。
少しの間があって、ピクリと、廉の指先が動いた。言葉にならない呻き声を発する。
さっきまでとは明らかに違う様子に、糸原も駆け寄った。首筋に指を当て、脈を取る。弱々しく拍動する脈に、糸原は廉の顔を覗き込んだ。
目は相変わらず赤く光っているが、眉間には皺を寄せ、息も絶え絶えだ。この短時間の間に何があったのだろうか?
──もしかして……。
糸原は、一つの可能性に思い当たり、廉の手をスマートフォンのライトで照らした。
その手を確認し、ゴクリと唾を飲み込む。
人差し指の爪の辺りが、黒く変色していた。そこを起点に黒、暗褐色、赤色と緩やかなグラデーションが続く。
──壊疽だ。
連続拉致事件の被害者たちと同じ、壊疽の症状が廉にも現れていた。
それにしても、こんなに早く進行するとは。
廉が公園に到着してから、糸原たちが発見するまで、十分ほどだろうか。その十分足らずの時間で、ここまで壊疽が進行するとは──。
進行具合を考えると、彼を助けることは、不可能に思えた。
「……いと、さん……」
不意に廉が言葉を発した。
「……みず、きが、つれさ……ら、れた」
辿々しく告げる。
「た、すけ……てあげ、て」
廉は赤い目に懇願の色を浮かべ、糸原を見つめた。
マンションであった、瑞樹のことなど微塵も気にかけていなかった廉とは違う。目の前の彼は、見た目こそ違っても、糸原が記憶している家族想いの在りし日の廉だった。
廉の壊疽の状態を鑑みても、相当な痛みがあることは想像できた。なのに、その痛みを訴えるのではなく、彼は瑞樹を案じている。
「廉……」
病院での襲撃以降、廉に募った恐怖や憎しみが糸原の中で一気に溶けていった。
分かった、と糸原は答えた。
「一緒に助けに行こう」
廉が今の状態のまま、どこまで持ち堪えられるかは不明だ。しかし、瑞樹の無事な姿を見せて、安心させてやりたい。
糸原は廉の腕を取り、自分の肩へと回した。
「立てるか、廉?」
廉はコクリと頷き、糸原に寄りかかりながら、何とか立ち上がった。その脇を、そっと葛西が支える。
「葛西さん……」
きっと葛西はこの状況を想像していたのかもしれない。でなければ、瑞樹の安全を第一に考え、ミニバンを追っていたはずだ。
そうなったら、廉はこの暗い誰もいない公園で、一人寂しく最後を迎えたかもしれない。糸原も、廉のことを許せないまま、別れたかもしれない。
そう思うと、葛西には感謝しかなかった。
「瑞樹くんを、絶対に、助けましょう」
葛西は力強い声で、廉を励ました。