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満月に狂う君と  作者: 川端睦月
夜明け前の病棟
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 それは、街灯と、病棟の所々についた灯りに照らされ、ぼんやりと輪郭を現した。


 ──西城中央病院。


 昔は総合病院などとも呼ばれていたが、現在は地域医療支援病院というものに分類される。専門外来があり、入院患者の受け入れと二十四時間体制での救急医療の提供などを行なっている、地域医療の中核を担う病院だ。

 近くには、商業施設が立ち並ぶ繁華街を擁し、交通の便も良く、近隣都市からやって来る患者も多い。しかし、日中は賑わっているこの辺りも、夜ともなれば繁華街の裏通りということもあり、人通りもなく、暗闇に包まれる。


 糸原は、唯一、煌々と明るい光を放つ、救急医療センター近くの職員駐車場に車を止めた。


 救急医療センターの前には、救急車が一台止まっていた。おそらく部長を乗せて来た車両だろう。隊員二人が、言葉を交わしながら、書類を記入していた。


 それを横目にやり過ごし、中へと入る。


 受付を通り過ぎたところで、小柄で細身の白衣を着た男が目についた。ニノ方だ。


「ニノ方っ」


 呼びかけると、ニノ方は蒼白な顔をゆっくりとこちらに向けた。


「糸原さん……」

「大丈夫か?」


 小走りに近寄り、尋ねる。ニノ方は首を横に振り、「……部長でした」と力なく答えた。彼のダラーンと伸びた両腕の先の握りこぶしが小刻みに震える。


「先ほどまで、蘇生措置を行っていたのですが……」


 ニノ方は、声を絞り出して続ける。


「つい今しがた、死亡宣告がありました──」


 震える声が、嗚咽へと変わった。


「……そうか」


 かける言葉を失って、糸原は黙ってニノ方の肩に手を置いた。途端にニノ方の目から涙が零れ落ち、床を濡らした。ニノ方はそれを腕で乱暴に拭う。


 彼は今年の春、臨床研修を終え、小児科の専攻医として配属されてきた。


 赤茶けた天然パーマのナチュラルショートヘアと学生っぽさの残るあどけない容姿が、女性看護師の間で、「ポメラ二アンみたい」と密かな人気を呼んでいる。さらに、人懐っこくて明るい性格も相まって、癒し系の地位を不動のものとした。


 そんな若いニノ方は、親しい人の死際に立ち会った経験がまだないのだろう。人目も憚らず、自分の感情を素直に表すことができる彼を、糸原は羨ましいと思った。


 ──部長とは長い付き合いだ。ニノ方よりもずっと。


 しかし、彼のように素直に感情を出すことはできない。人前で涙を流すという行為を恥じてしまう。親しい人の死に直面してもなお、自分の体裁を気にしてしまう。そんな自分を嫌な大人になってしまったな、と思うことは多々ある。


 それでも、それが自分なんだと思う。時折、ニノ方のような青さが、眩しく映ることがあるというだけだ。


 糸原はリュックの中からハンカチを取り出し、ニノ方に渡した。


 ありがとうございます、とニノ方は受け取り、ハンカチで顔を覆い隠す。糸原は、彼の気持ちが落ち着くのを黙って待った。


 上下に激しく揺れていた肩が、次第にゆっくりとなっていく。嗚咽も治まってきた。


 ──少し落ち着いたようだな。


 糸原は、ニノ方の顔を覗き込み、「座らないか」と背後の椅子を指差した。ニノ方はコクリと頷いた。


「すみません、お騒がせしてしまって」


 椅子に座るなり、開口一番に言う。泣き腫らして、目が真っ赤に充血していた。


「気にするな」と糸原はマグボトルのコーヒーをカップに注ぎ、ニノ方に勧めた。


「ありがとうございます」


 ニノ方はそれを両手で受け取り、ゆっくりと口に含む。


「……美味しいっ」


 途端に、キラキラと目が輝き、顔にも生気が戻ってきた。いつものポメラニアン然とした表情が姿を表す。


 その様子に安堵して、糸原はマグボトルのコーヒーを啜った。


 静寂を取り戻した待合室に、二人のコーヒーを啜る音だけが、時折響く。糸原は目の前の診察室を眺めた。


 診察中のライトが点灯している。ということは、まだ部長は中にいるのだろうか?


 経緯を知っているニノ方に色々聞きたいところではあったが、ようやく落ち着いてきた彼に、再び辛いことを思い出させるのも忍びない。


 ちらりと様子を窺うと、まだ顔色が悪い。相当なダメージを受けたことは、容易に想像がついた。


「ニノ方」

「はい」

「このあとの当直は俺が担当する」


 ニノ方のメンタルを考慮しての判断だった。


「えっ?」

「お前は、帰って休んだ方がいい」


 しかし、ニノ方は首を横に振った。


「いえ、大丈夫です」


 きつく唇を噛みしめ、断固とした拒否の姿勢を見せる。


「大丈夫かどうかは、俺が判断する。気持ちは立派だが、それだけでは何かあった時に対処ができない」


「──それはそうですが……」とニノ方は俯いた。

 

 自分の無力さを責めているのがありありと見て取れた。


「……でも、いやなんです。──さっきだって部長が危険な状態だっていうのに、医者なのに全然何もできなくて。……黙って見てるしかできなくて。挙句の果てに、死亡宣告を受けるだなんて。何のために医者になったのかって……」

「……ニノ方」


 ニノ方の気持ちはよく分かる。それは糸原も同じだ。


 小児医療に関してはそれなりの経験を積んでいる糸原も、救急医療には手も足も出ない。研修の時ききかじった程度で素人も同然なのだ。

 

 ──それがどんなにもどかしい事か。


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