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ガラスが割れる音を、夢の中で聞いた。次いで、耳をつんざく激しい警報音に、現実へと引き戻される。
糸原はソファから跳ね起きた。傍らに置かれたフロアライトが、ボンヤリと部屋の中を照らし出す。
瑞樹が家にやって来てから、糸原はリビングのソファをベット代わり使っていた。
寝室では、ベットを瑞樹が、フローリングに布団を敷き由佳が、それぞれ眠っている。
その寝室から警報音は鳴り響く。
警報音に紛れて、キャアッという短い悲鳴が聞こえた。
糸原はまだ寝ぼけた体を無理やり動かし、寝室へと向かう。
「由佳っ」
ドアを開け、目を凝らす。常夜灯だけが照らす暗闇では、部屋の様子が確認できない。糸原は壁にあるはずの照明のスイッチを指先で探り当て、それを押し込んだ。
一瞬にして、オレンジがかった灯りが点り、ベットの上の瑞樹と、瑞樹を抱き寄せる由佳の姿が浮かび上がる。
二人はじっと窓の方を見つめたまま動かない。──いや、動けないでいた。
カーテンが閉じた窓から外の様子は分からない。しかし、一定のリズムで聞こえるガラスの砕け散る音と、ベッドを揺らす激しい振動が、恐怖を誘い、二人は身体を固まらせていた。
糸原は由佳の傍に駆け寄り、彼女の背中を摩る。
「リビングへ」との声で、由佳はようやく呪縛から解き放たれたように、身体を動かした。
青ざめた顔で立ち上がり、瑞樹の手を引いてリビングへと移動する。
糸原は二人がリビングに避難したのを確認してから、窓の方へと向き直った。
激しい振動はまだ続いているが、今のところ、侵入してくる気配はない。防犯用に取り付けた室内格子が役に立っているようだ。
突然押しかけてきた葛西には驚いたが、今は感謝しかない。
糸原の脳裏に、今朝の出来事が蘇った。
*
朝早く、来客を報せるインターホンが鳴った。休日の糸原は、リビングのソファーで惰眠を貪っていたが、由佳に揺さぶられて目を覚ました。
由佳と瑞樹は身支度を済ませ、朝食を取っているところだった。
「晴人さん、葛西さんと藤田さんがお見えです」
柔らかな声で告げる。
「葛西さん……?」
糸原は寝ぼけた頭を必死に働かせ、状況を把握しようとした。が、まったく理解できない。
ゆっくりとソファから起き上がり、顔を両手で擦りながら、インターホンを覗き込んだ。
確認用のディスプレイには、葛西の和かな顔が画面いっぱいに映し出されていた。まるで胡散臭いセールスマンのようだ。
「はい、糸原です」
応答ボタンを押して答えた。
「おはようございます」と葛西はますます和かさを増した顔で、挨拶をした。
「……あの、何か、約束していましたか?」
糸原はボリボリと頭を掻いて尋ねる。葛西と藤田が朝一で訪ねてくる理由に心当たりがなかった。
「いえ、約束はしていません」
葛西はあっさりと否定し、「お届けものがあるので、中に入れてもらえませんか?」と訴えた。
「お届けもの?」
糸原は首を捻った。
テーブルでトーストをかじりながら、会話を聞いていた瑞樹は、「葛西のおじちゃんに会えるの?」と嬉しそうな顔をする。
そうね、と由佳の了承が出たので、仕方なく受け入れることにした。
数分もすると、葛西たちは大きな荷物を抱え、玄関に現れた。二人はいつものスーツとは違う、カジュアルな出立ちだった。
「葛西のおじちゃん、会いたかった」
玄関先で葛西の姿を久しぶりに見た瑞樹は、嬉しそうに笑い、しゃがみ込んだ葛西とハイタッチを交わす。
「元気そうで何よりです」
葛西も嬉しそうに瑞樹の頭を撫でた。
微笑ましい光景ではあるが、糸原は葛西たちの抱える荷物が気になって、それどころではない。
「何ですか、これは?」と眉をひそめた。
「防犯設備です」
「防犯設備?」
首を傾げたのは由佳だった。それに、葛西は和かな視線を向けた。
「近頃、物騒な事件が続いてますから。糸原家の安全に一役買おうと思いまして」
冗談めかして笑った。
「それはありがたいですが……」と糸原は葛西たちが持つ荷物を眺めた。無駄に大きいその荷物が、凄く気になる。
「一体、何をするつもりですか?」
「この家の窓に、防犯用格子を取り付けます」
糸原の問いに、葛西は明瞭に答えた。
「格子?」
由佳が不安そうな声を上げる。その声を汲み取り、ご心配なく、と葛西が言った。
「今は、室内にぴったりの、お洒落な防犯用格子がありますから」
微妙にズレた答えを返す。糸原は頭を抱えた。
「それから、防犯ブザーも」
「防犯ブザー?」
「ええ。今時の防犯ブザーは優秀なのですよ。振動に反応して、警報を発し、なおかつスマホにもお知らせが届くのですから」
熱心に説明をする。はぁ、と糸原は呆れて返事をし、溜息を漏らした。
「ちょっといいですか」と葛西の腕を取り、玄関の外へと連れ出す。
「どういうことですか」
扉を閉め、開口一番、葛西に尋ねた。
「ですから、防犯設備を……」
「それはわかりました。でも、どうして?」
葛西を問い詰める。彼は神妙な顔で、心配だからです、と答えた。
「心配? 本当にそれだけですか?」
何か裏があるのでは、と疑う糸原に、葛西は「例の事件……」と鋭い視線を向けた。
「次のターゲットは、確実に、瑞樹くんです」
静かに告げた。
「それも、今までの事件の発生頻度を考えると、今日か明日、起こってもおかしくありません」
その言葉に、糸原は眉根を寄せた。
確かに、拉致事件は、前の被害者が発見されてから、一週間以内に次の事件が起こっている。葛西の言う通り、今日にも起こり得る可能性がある。
それに、と葛西が言葉を継ぐ。彼にしては珍しく、躊躇いが見えた。
「なんですか?」
糸原は不審に思い、先を促す。
葛西は改めて糸原を見つめると、「──私は、今回の事件の誘拐犯は、廉くんだと思っています」と言った。
「そんなわけ……」
「本当は、糸原さんもお気づきなのではないでしょうか?」
非難の声を上げようとした糸原を遮って、葛西は尋ねる。
「──瑞樹くんの病室への侵入方法と、拉致事件の侵入方法が一緒だということに……」




