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「藤田くん。焦らさなくていいですから、早く続きを言って下さい」
葛西が冷ややかに急かす。藤田は慌てて、「三人とも担当医師が大道さんでした」と早口で告げ、手帳を閉じた。
「大道?」と糸原は片眉を上げた。
「何かおかしいですか?」
訝しむ糸原に、葛西が尋ねた。
「ええ。大道は研究医ですから」
「研究医だと何がおかしいのでしょう?」
「研究医は名前の通り、研究を専門に行っているので、患者の診察にはほとんど関与しません。……なのに、担当医なんて」
糸原は首を捻った。
「当然、研究対象の患者に診察を行うこともありますが……。それでも大道は、ウィルス学専門なので、流石に睡眠障害の患者は診ないと思うんです」
「では、睡眠障害と偽って、MA1ウィルスの調査をしていたのでしょうね」
葛西はそう結論づけた。
おそらくは、と糸原も同意する。
「MA1ウィルスの話を堂々とすることは出来ませんから。不眠症という名目で、子供たちを定期的に観察していた可能性はあります」
「そのことを親御さんはご存知なのでしょうか?」
「どうでしょう?」と糸原は首を傾げた。
「もちろん、MA1ウィルスについては知っていますが……」
「MA1ウィルスはご存知なのですか?」
葛西が意外そうな声を上げた。
「ええ。教授は被験者にはきちんと説明をし、同意の上でウィルスを投与しています。なので、MA1ウィルスについては、被験者も知っています」
そうなのですか、と葛西は気の抜けた返事をした。対馬が無断でウィルスを投与したと思っていたのだろう。
「教授は、自分の名声のためにウィルスの研究をしていたわけではありませんから。──由佳と同じ病気に苦しむ人を救いたいと、手段の一つとして、提案をしていました」
なるほど、と葛西が頷く。
「結果、移植しか道がない数名が、未承認と知りながら、MA1ウィルスの投与を受けました」
ただ、と糸原は目を伏せた。
「彼らは自分の受けた治療法は知っていても、子供に与えた影響は知らないはずです」
「子供に与えた影響?」
途端に葛西が鋭い視線で糸原を捉え、「どういうことですか?」と問い詰める。
その前に、と糸原は片手で葛西を制した。
「先に、残りの被験者の名前をお知らせします」
「残りの被験者?」と葛西は目を細める。
糸原の意図を見極めるように鋭い視線を向ける。
糸原は居心地の悪さを吹き飛ばすように咳払いをし、ゆっくりと口を開いた。
「残りの三人の被験者は、山内幹子さん、村上忠夫さん、それから──」と最後の人物の名前に少し躊躇う。その躊躇いを飲み込み、糸原は「笹本和之」と告げた。
「笹本和之?」
葛西が口の中で呟いた。
「笹本和之って、あの、笹本……部長ですか?」
藤田が確認する。
「そうです。つい先日亡くなった、笹本部長です」と糸原は頷いた。
「ということは、笹本さんも由佳さんと同じ病気だったんですか?」
藤田が目を丸くして尋ねた。
「いえ、部長は病気ではありません」
糸原はゆっくりと首を振った。
「では、なぜ被験者になったのでしょう?」
葛西が疑問の声を上げた。
「事故です」
「事故?」
「部長は、十八年前に、命に関わる大きな事故に遭いました。一時は危篤状態に陥ったようです」
「危篤ですか……」と葛西は眉をひそめた。
「教授にとって、部長は、教え子の中でも特別な存在でした。MA1ウィルスという秘密を共有し研究をする、戦友のような」
「秘密は、良くも悪くも、絆を深めるものですからね」と葛西が言う。実際、糸原と葛西たちがそうであるように。糸原は小さく頷いた。
「その部長が、死に直面している状況を目の当たりにし、教授は葛藤したようです。──MA1ウィルスを使えば助けられるという自信と、それは医者の倫理からは許されないという罪悪感に」
そこまで言って、糸原は深い溜息をついた。
「結局、教授は誘惑に勝てず、MA1ウィルスを部長に使用しました」
ということは、と葛西が糸原に尋ねる。
「教授は、笹本さんには実験の了承を得ていないのでは?」
そうですね、と糸原は頷いた。
「緊急を要したので、同意は得ていません。……結局、それが、二人の仲に亀裂を生むことになりました」
「亀裂?」
「部長は、教授の性急過ぎる実験の進め方を危惧していました。ことを急いでは、いずれ過ちを犯すと」
正に笹本の予想通り、対馬は医者として取り返しのつかない重大な過ちを犯してしまったことになる。
「そして、部長の事故でそれが顕在化した。規則を守らない教授のやり方は、部長には合わなかった。だから、部長は訣別を決めたのです」
「なるほど。笹本さんが対馬教授の元を離れたのには、そういう事情がありましたか」
糸原は頷き、陰鬱な表情を浮かべた。
「部長がいなくなり、歯止めが効かなくなった教授は、実験を加速させていきます」
糸原は気怠そうに話を続ける。
「本来、亡くなってもおかしくなかった部長が、短期間で後遺症もなく回復していく。加えて、副作用も見られない。その成果を目の当たりにし、教授は自分の娘にウィルスを試してみようと思うようになりました」
糸原の表情はいよいよ暗然としていった。
「部長の事故から一年後、由佳の容態が急変したのを機に、教授はMA1ウィルスの投与を実行します。──実際、それ以外に彼女を救う手立てはなかったでしょう」
糸原は暗い目で眼前の二人を見つめた。重苦しい空気が場を支配する。
「結果、彼女の心臓は健康な人と変わらない状態まで回復することができました」
少しの沈黙の後、糸原は息を吐き出すように告げた。
「健康な人と変わらないというのは、どの程度の状態なのでしょう?」
葛西が尋ねた。
「病気そのものがなくなったと考えてもらって構いません」
糸原の言葉に、ほぉ、と葛西は目を細めた。
「移植が必要な方の心臓が、ウィルスの投与だけで、そこまで良くなるのでしょうか?」
疑わしげな目を向ける。それに、糸原は皮肉な笑みを浮かべ、続けた。
「MA1ウィルスの最も優れた特性が、病変や病巣を正常化し、欠損箇所を補って再生する、というものなんです」
「つまり、それはどういう?」
葛西が更に説明を求める。
「分かりやすくいうと、病気や怪我を完治させる、ということです」