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「西城大学の場合、この臨床研究を行う前に、『臨床研究審査委員会』の承認を得なければなりません」
「なるほど、対馬教授は、その委員会の承認を得ていない、ということなのですね」
すっかり溶けたバニラアイスをスプーンでかき混ぜながら、葛西が言った。糸原は無言で頷いた。
「対馬教授は誠実な方です。自分の研究のために、むやみに人の命を危険に晒すことはしません。委員会の承認を得てからでもよければ、そうしたでしょう」
「では、なぜそんな暴挙に出たのでしょう? 何か急がなければならない理由でもあったのでしょうか?」
葛西の問いに、糸原は少し躊躇い、「──由佳です」と答えた。
「由佳さん?」
「由佳が中学生になって、すぐに、心臓は最悪の状態になりました。移植するほかに治療方法がなかったんです」
「心臓移植ですか……」
「しかし、適合する心臓が見つかるまでには時間もかかりますし、何より当時は子供からの臓器提供もありませんでした」
なるほど、と葛西は頷いた。
「だから、MA1ウィルスを使用したと。つまり、MA1ウィルスというのは、心臓に効果のあるものなのですね?」
葛西の問いに、糸原は、いいえ、と首を振った。
「MA1ウィルスは、万能薬です」
「万能薬?」
いまいちピンときてない顔で、葛西が糸原を見つめた。藤田も同様である。
「お二人は、iPS細胞をご存知ですか?」
糸原の問いに、藤田は「名前だけなら」と答えた。
「確か、人体のあらゆるものに変化できる細胞ですよね」
葛西は記憶を探るように視線を彷徨わせて言った。
「大体、当ってます」と糸原は小さく笑い、少し考えをまとめる。
「──例えば、皮膚や筋肉を構成する細胞は、『体細胞』と呼ばれます。体細胞は、皮膚から筋肉になるといった変化、正しくは『分化』というのですが、これができません」
そこまで説明して、糸原は二人の様子を窺った。話を理解したようで、うんうんと頷いている。
「一方で、様々な組織や臓器に分化できる細胞を『多能性幹細胞』と言います。多能性幹細胞は人の体の中にも存在しますが、人工的に作り出したものを『iPS細胞』と呼んでいるのです」
ここまで、理解できましたか、と二人を見ると、藤田は微妙な顔をした。対して、葛西は、ええ、と事もなげに頷いた。とりあえず、葛西が理解しているようなので、話を進める。
「このiPS細胞は『再生医療』、つまり、欠損部位や病変のある臓器の代替を新たに作りだせないかと、近年研究が勧められています」
糸原の説明に、葛西は、なるほど、と相槌を打った。
「iPS細胞の話は理解できました。しかし、それと対馬教授の実験がどう結びつくのでしょう?」
もっともな疑問を投げてくる。
「MA1ウィルスは、感染することによって、それ自体がiPS細胞のような役割を果たすことが分かっています」
「それ自体が、iPS細胞の役割を果たすとは?」
「簡単に言えば、感染することで、再生能力が身につく、ということです」
「再生能力……。随分と話が飛躍しましたね」
葛西は面食らったように笑う。
「まぁ、にわかには、信じらない話ですよね」と糸原はコーヒーを啜り、間を置いた。
「しかし、事実なのです。──対馬教授の実験では、マウスのちぎれた尻尾が、翌日には生えてきた、となっています」
「それは、素晴らしいですね」
葛西が大袈裟に感心して見せた。
それから、すぐに真顔に戻り、「ですが、どのような素晴らしいウィルスでも、事件の原因となってしまっては、よろしくありません」と苦言を吐いた。
「まったくその通りです」
人を救うはずの医療が、命を奪う原因となってしまったのでは、本末転倒だ、と糸原も思う。
対馬は娘のことを愛するあまり、医者としてはあるまじき行為をしてしまった。反面、糸原には、その気持ちが分からなくもない。
もし、由佳が命の危機に陥ったとしたら、自分も対馬と同じことをするだろう。
──実際、今だってそうだ。
由佳の気持ちを重んじるあまり、葛西に相談しなかったことが、三件もの事件を招いてしまった。
結局、自分も医者失格だな、と糸原は心の中で自分を嘲た。
糸原さん、と葛西が穏やかな声で呼びかける。葛西はいつも通りの和かな顔のまま、「大変貴重な情報をご提供頂き、ありがとうございます」と綽々と頭を下げた。
「……いえ、もっと早く、葛西さんに相談していれば、未然に防げる事件があったかもしれません」と糸原は唇を噛んだ。
「それは無理です」
糸原の後悔を、葛西はあっさりと否定した。
「拉致変死事件と実験日誌の内容が結びつくなど、誰も思いつきません。糸原さんが気付いたのも、単なる偶然にすぎません」
悔やむ糸原に、葛西は淡々と告げる。
「ですから、あまりご自分を責めないでください。──身内の罪を暴くことは、簡単に出来ることではありません。しかし、糸原さんは包み隠さず話してくれました」
それだけで充分です、と葛西は笑った。
「ただ、糸原さんからお聞きしたお話は、ここだけの話に留めておくつもりですが、万が一の場合は……」
わかりますよね、と鋭い視線を糸原に向けた。
「それは、覚悟しています」とキッパリと言い切った糸原に、葛西は満足そうに頷いた。
「では、対馬教授の実験について、もう少し詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか?」
葛西が改めて尋ねる。どうぞ、と糸原はまな板の鯉のような気持ちで、葛西の質問を待った。




