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その質問が、避けては通れないものだと、糸原は理解していた。が、答えるには抵抗がある。
なぜなら、対馬の実験は、正当な手順を踏まずに行われたものだからだ。
新しい医療技術の有効性や安全性を、実際に人の体で試してみることを『臨床研究』という。
臨床研究には、製薬会社が主体となって行う『治験』と、医師が主体となって行う『自主臨床研究』があり、対馬の研究は後者にあたる。
その場合、所属する団体によって手順は異なるが、西城大学の場合は、研究の正当性を審査するための委員会『臨床研究審査委員会』に申請を行い、承認を受けなければならない。
しかし、対馬はこの承認を受けないまま、実験を行っていたのだ。
正規の手順を無視し、人体実験を行っていたことが公の知るところとなったら。ましてや、今回の事件の発端になっているとしたら──。
対馬が非難の的となることは、手に取るように想像できた。彼が積み上げてきた数々の功績さえもなかったことにされてしまう可能性だってある。
そうなったら、父を慕い、誇りに思っている由佳を傷つけることになるだろう。それは極力避けたかった。
だからといって、もう既に三人もの犠牲者が出ている現状では、知らぬ存ぜぬで通すわけにもいかない。
今回の事件に、対馬の実験が深く関わっているのは、紛れもない事実なのだから。
糸原は、激しいジレンマに襲われていた。
「糸原さん?」
急に黙り込んだ糸原に、葛西が声を掛けた。糸原は瞬時に現実に引き戻され、葛西の顔をぼんやりと眺めた。葛西にしては珍しく、心配そうな顔をしている。
「すみません、ボーとしてました」
糸原はコーヒーを含み、渇いた口の中を湿らせた。それから姿勢を正し、「葛西さん、藤田さん」と目の前の刑事を正視した。
「お願いがあります」
糸原の真剣な面持ちに、葛西と藤田も居住まいを正し、糸原を見返した。
「これから話すことは、できる限り、内密にして頂きたいのですが……」
その申し出に、葛西は「善処します」と答えた。二つ返事で引き受けないのが、葛西らしく、逆に誠実さを感じさせる。
糸原は苦笑いを浮かべた。
「──対馬教授が実験していたのは、『MA1ウィルス』による効能について、です」
「MA1ウィルス? 聞いたことがありませんね……」
葛西は顎に手を当て、首を捻った。
「それはそうです。他の研究者には発見もされていないウィルスですし、対馬教授も発表する前に亡くなっていますから」
「つまり、未知のウィルスということですか?」
「まぁ、そうなりますね」
なるほど、と葛西は頷いた。
「──しかし、そのようなウィルスで、人体実験を行ってよろしいのでしょうか?」
「きちんとした手順さえ踏んでいれば、問題ありません」
そう答えた糸原の表情が陰るのを、葛西は見逃さなかった。
「では、対馬教授は、きちんとした手順に則り、人体実験を行っていた、ということですか?」
葛西は核心をつく質問を投げてくる。糸原は言葉を詰まらせ、俯いた。
──きっと葛西はわかっていて質問を、している。
糸原は唇を固く結んだ。膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめ、しばらく逡巡する。やがて、糸原は意を決し、顔を上げた。
「……対馬教授は、然るべき手続きをせずに、実験を行っていました」
糸原の告白に、藤田は驚いたが、葛西は、やはり、というように目を細めた。
「それが、糸原さんが内密にして欲しい理由ですね?」と尋ねる。
「その通りです」と糸原は応じた。
「しかし、なぜ教授は、正式な手続きを踏まなかったのでしょう? 手続きさえしていれば、問題にならないのですよね?」
葛西の質問に、それは、と糸原は頭を掻いた。
「焦っていたのだと思います」
「焦っていた?」
「葛西さんは、手続きと簡単に言いますが、その手続きも口で言うほど楽なものではないんです」
「そうなのですか?」
ええ、と糸原は頷いた。
「まず、その医療技術が本当に安全で有効なものなのか、確証を得なければなりません。そのために、充分な期間、動物実験を行います。通常、三〜五年ほどでしょうか」
「そんなにですか?」
「当然です。人へ使用するのですから。そして、動物実験を行った後、『臨床研究』と呼ばれる人での実験に移行するわけですが……」
糸原はそこで一息入れてコーヒーを啜った。つられて、葛西と藤田も飲み物を口に運ぶ。
糸原はカップをソーサーに戻し、続けた。




