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ねえ、糸原くん、と眼鏡の下に穏やかな笑みを浮かべ、部長が言う。
はい、なんですか、と弁当を突つく手を止め、糸原は応じる。
「由佳ちゃんは、元気にしてる?」
猫背気味の背中をさらに丸め、両手でコーヒーカップを包み込みながら、部長が尋ねた。
「由佳ちゃんって……。他人の奥さんを馴れ馴れしく『ちゃん』づけするのは、どうなんですかね」
突然の妻の話題に、軽く顔をしかめる。しかし、部長は悪びれる様子もなく、続けた。
「だって、由佳ちゃんは、僕にとって妹みたいなものだから」
「それはそうでしょうけど」
そうなのだ。由佳と部長は、糸原より付き合いが長い。なにせ、由佳の小学生の頃の初恋相手が、部長なのだから。
糸原は、白髪の交じった、人の良さそうな部長の顔を複雑な表情で見つめた。
「……元気ですよ」
素っ気なく答えて、卵焼きを頬張った。
ふんふん、と頷いて彼は続ける。
「それって、愛妻弁当だよね」
「……まぁ、そうですね」
「いいよね、新婚さんは」
「何言ってるんですか。部長だって毎日手作りの弁当じゃないですか」
「いや、僕のはね、子供の弁当のついでだから」
「それでも作ってくれるんだから、立派な愛妻弁当ですよ」
そう言うと、部長は満面の笑みを浮かべ、「あ、やっぱり、そう思う?」と嬉々として尋ねてくる。単に惚気たいだけなのだ。
「……そういえば、君んとこ、そろそろ結婚記念日だよね」
「よく他人の家の結婚記念日を覚えてますね」
半ば呆れ気味に言う。
「そりゃ、由佳ちゃんは、僕の妹みたいなものだから」
お決まりの台詞を言って、はははっ、と豪快に笑った。その大きな声に、食堂の視線が一気に二人へと集中する。
「部長、静かにしてください」
「ああ、ごめん、ごめん」
周囲に軽く会釈をして、部長は糸原に向き直った。
「確か、結婚して三年目になるんだっけ?」
本当によく覚えている、と糸原は感心した。
「そうですね」
そうかそうか、と部長は頷く。
「それじゃ、そろそろ子どものことも考えているの?」
「それ、今のご時世だと、セクハラですよ。人事部に言いつけますよ」
少しやり込めてやろうと、冗談めかしていう。またまた、と部長は笑った。
「相変わらず、糸原くんはドSなんだから。由佳ちゃんにも、そうなの?」
「! ……そんなことっ……」
思わず、大声とともに立ち上がってしまい、周囲の視線を集める。糸原は、軽く会釈をして、椅子に座り直した。
部長は、ニヤニヤと糸原を見つめた。
まったく、と糸原は眼前の男を見返す。
臨床研修の時、一番最初に配属されたのが小児科で、その時の指導医が笹本部長だった(役職はまだ主任だったが)。それ以来の付き合いだから、そろそろ十年近くになる。
部長は、一見すると、物腰の柔らかい、ただの人の良さそうなおじさんなのだが、実は底意地の悪さも合わせ持っている。研修医時代も彼の冗談まじりの指導には、散々踊らされたものだった。
かと言って、笹本自身、出来損ないの医者というわけではない。部長職についているくらいなのだから、小児科医としての実力は、相当なものだ。
糸原が小児科医を目指したのは、子ども好きというのもあるが、部長の人間性に魅せられて、一緒に働きたいというのもあった。
なんだかんだで憧れの存在なのである。言うと揶揄われるので、絶対に言わないが。
「……一応、考えてはいますが、こればかりは授かり物なので」
「そうだよねぇ」
「はい」
「──由佳ちゃんのこと、よろしく頼むね」
「なんですか、急に……」
「いやいや、心配してるの。兄だから」
お決まりの兄貴風を吹かせて、続ける。しかし、今度はさっきまでのおふざけではなく、真剣な面持ちだ。
「由佳ちゃん、強がりだから、辛いことがあっても隠すでしょ」
さすが長い付き合いだけあって、よく知っている。それはそれで、癪に障るというものだ。
「彼女のこと、守ってあげてね」と言う部長の言葉に、「言われるまでもないです」と、買い言葉気味の台詞を返し、不敵に微笑んで見せる。
うん、と笹本は満足そうに頷いた。
「頼んだよ。……僕は家族のことで手いっぱいだからさ」
そう言った部長の顔が寂しげに見えた。
*
──あれは、どういう意味だったのだろう?
あの時の部長を思い出し、今さらながらその意味を考える。
なぜ、急に由佳を話題に出したのだろう? 家族で手いっぱいとは、何かトラブルがあったのだろうか?
いろいろと考えを巡らせているうちに、糸原は目的地に着いた。