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満月に狂う君と  作者: 川端睦月
今宵の月は
4/61

3



 ねえ、糸原くん、と眼鏡の下に穏やかな笑みを浮かべ、部長が言う。


 はい、なんですか、と弁当を突つく手を止め、糸原は応じる。


「由佳ちゃんは、元気にしてる?」


 猫背気味の背中をさらに丸め、両手でコーヒーカップを包み込みながら、部長が尋ねた。


「由佳ちゃんって……。他人の奥さんを馴れ馴れしく『ちゃん』づけするのは、どうなんですかね」


 突然の妻の話題に、軽く顔をしかめる。しかし、部長は悪びれる様子もなく、続けた。


「だって、由佳ちゃんは、僕にとって妹みたいなものだから」

「それはそうでしょうけど」


 そうなのだ。由佳と部長は、糸原より付き合いが長い。なにせ、由佳の小学生の頃の初恋相手が、部長なのだから。


 糸原は、白髪の交じった、人の良さそうな部長の顔を複雑な表情で見つめた。


「……元気ですよ」


 素っ気なく答えて、卵焼きを頬張った。


 ふんふん、と頷いて彼は続ける。


「それって、愛妻弁当だよね」

「……まぁ、そうですね」

「いいよね、新婚さんは」

「何言ってるんですか。部長だって毎日手作りの弁当じゃないですか」

「いや、僕のはね、子供の弁当のついでだから」

「それでも作ってくれるんだから、立派な愛妻弁当ですよ」


 そう言うと、部長は満面の笑みを浮かべ、「あ、やっぱり、そう思う?」と嬉々として尋ねてくる。単に惚気たいだけなのだ。


「……そういえば、君んとこ、そろそろ結婚記念日だよね」

「よく他人の家の結婚記念日を覚えてますね」


 半ば呆れ気味に言う。


「そりゃ、由佳ちゃんは、僕の妹みたいなものだから」


 お決まりの台詞を言って、はははっ、と豪快に笑った。その大きな声に、食堂の視線が一気に二人へと集中する。


「部長、静かにしてください」

「ああ、ごめん、ごめん」


 周囲に軽く会釈をして、部長は糸原に向き直った。


「確か、結婚して三年目になるんだっけ?」


 本当によく覚えている、と糸原は感心した。


「そうですね」


 そうかそうか、と部長は頷く。


「それじゃ、そろそろ子どものことも考えているの?」

「それ、今のご時世だと、セクハラですよ。人事部に言いつけますよ」


 少しやり込めてやろうと、冗談めかしていう。またまた、と部長は笑った。


「相変わらず、糸原くんはドSなんだから。由佳ちゃんにも、そうなの?」

「! ……そんなことっ……」


 思わず、大声とともに立ち上がってしまい、周囲の視線を集める。糸原は、軽く会釈をして、椅子に座り直した。


 部長は、ニヤニヤと糸原を見つめた。


 まったく、と糸原は眼前の男を見返す。


 臨床研修の時、一番最初に配属されたのが小児科で、その時の指導医が笹本部長だった(役職はまだ主任だったが)。それ以来の付き合いだから、そろそろ十年近くになる。


 部長は、一見すると、物腰の柔らかい、ただの人の良さそうなおじさんなのだが、実は底意地の悪さも合わせ持っている。研修医時代も彼の冗談まじりの指導には、散々踊らされたものだった。


 かと言って、笹本自身、出来損ないの医者というわけではない。部長職についているくらいなのだから、小児科医としての実力は、相当なものだ。


 糸原が小児科医を目指したのは、子ども好きというのもあるが、部長の人間性に魅せられて、一緒に働きたいというのもあった。


 なんだかんだで憧れの存在なのである。言うと揶揄われるので、絶対に言わないが。


「……一応、考えてはいますが、こればかりは授かり物なので」

「そうだよねぇ」

「はい」

「──由佳ちゃんのこと、よろしく頼むね」

「なんですか、急に……」

「いやいや、心配してるの。兄だから」


 お決まりの兄貴風を吹かせて、続ける。しかし、今度はさっきまでのおふざけではなく、真剣な面持ちだ。


「由佳ちゃん、強がりだから、辛いことがあっても隠すでしょ」


 さすが長い付き合いだけあって、よく知っている。それはそれで、癪に障るというものだ。


「彼女のこと、守ってあげてね」と言う部長の言葉に、「言われるまでもないです」と、買い言葉気味の台詞を返し、不敵に微笑んで見せる。


 うん、と笹本は満足そうに頷いた。


「頼んだよ。……僕は家族のことで手いっぱいだからさ」


 そう言った部長の顔が寂しげに見えた。


 *


 ──あれは、どういう意味だったのだろう?


 あの時の部長を思い出し、今さらながらその意味を考える。


 なぜ、急に由佳を話題に出したのだろう? 家族で手いっぱいとは、何かトラブルがあったのだろうか?

 

 いろいろと考えを巡らせているうちに、糸原は目的地に着いた。


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