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マンションの駐車場からは、いつもより大きくて赤い月が見えた。ちょうど真円を描いている。
「そうか、今日は満月か」
月の光を見つめ、つぶやいた。
──満月の夜は犯罪が多いというけれど……。
そんな迷信もあながち嘘ではないのかもしれないと思えるほど、今宵の月は怪しく冷たい光を放っている。惑わされてしまう人間も多いことだろう。
糸原は視線を車へと戻し、キーレスエントリーのボタンを押した。ピピッという音とともに、ハザードランプが点滅する。
その点滅に合わせて、浮かび上がる人影が見えた。
人影は、一回目の点滅時にはマンションを仰ぎ見、二回目の点滅時には、糸原に焦点を合わせてきた。
「誰だ?」
糸原は、身構えると同時に目を凝らした。身長は車より少し高いくらい、ヒョロヒョロとした細い輪郭で頼りなげである。もし襲いかかってきたとしても反撃は可能だろう。ただ、その人影の目が異質で、糸原は恐怖を感じた。
──目が赤い……。
暗がりの中でその目は赤く光っていた。人相は確認できない。
──……人間、なのか?
姿かたちは、確かに人間のそれである。しかし、目が赤く光る人間なんて聞いたこともない。
人影は糸原の姿に気づくと、一歩、足をこちらに向けて踏み出した。それから、一歩、また一歩と、足を引きずり、ゆっくり近づいてくる。その動きが、苦しげに、助けを求めているように、糸原には見えた。
人影が近づくにつれ、それが何かの言葉を発しているのもわかった。
「……っい……さ……」
はっきりとは聞き取れないが、人間の発する言葉のように聞こえる。しかし、人影は、あと数歩、糸原に手が届こうかというところで、ピタリと動きを止めた。
そして、宙を仰ぎ、辺りを見回した。やがて或る一点を見つめ、思い直したように踵を返した。それから、二メートルはある駐車場のフェンスをひとっ飛びで超えて、暗闇に消えていった。
「何だったんだ、あれは?」
人影を呆然と見送り、糸原は、独りごちた。今起きたことが、現実なのか、幻覚でも見ていたのか、判別ができなかった。
糸原は真偽を確かめる為、人影が立っていた場所に移動した。
まず、人影がそうしていたように、マンションを仰ぎ見る。
糸原の部屋は駐車場に面しているので、もしや自分たちの部屋を見ていたのか、とも考えた。しかし、夜の闇ではマンションの外観をかろうじて確認することはできても、十二階の部屋を探し当てるのは難しい。それに、何よりあれの目的が、自分だったという確証もない。
──考えすぎか……。
部長の件で、少し神経が過敏になっているのかもしれない。糸原は、軽く息を吐き、足元へと視線を落とした。
よく見ると、自分の周りのアスファルトだけ、色が濃い黒になっている。
──……雨?
いや、雨は降っていなかった。なのに、地面が濡れている。それは、さっきの人影の足取りと重なって点々と続く。
──それにこの匂い……。
夏の湿った暖かい夜風に乗って、鉄の交じった生臭い匂いを感じた。
──血液の匂いだ。
仕事がら、それは容易に判別できた。
──あの人影か?
あれは、怪我をしていたのか?
血液の量を考えるに、かなりの深傷だと判断できる。
しかし、立ち去る時の動きは俊敏で、到底怪我をしているようには思えなかった。
──わからないことだらけだ。
まんじりとその場に立ち尽くす。やがて、深い溜息とともに、糸原は首を横に振った。
あれの目的は分からないが、こちらに危害を加えるつもりなら、さっき出来たのは確かだ。しかし、あれはこの場を立ち去った。──つまり、こちらに危害を加えるつもりはないということだ。
で、あればだ。
今、優先すべきは部長のことだ。
糸原はそう結論づけ、病院へと向かうことにした。
車のドアを開け、助手席にリュックとマグボトルを放り投げる。それから、運転席に滑り込み、ドアを閉めた。スターターボタンを押すと、夜のしじまを破り、エンジン音が辺りへと響き渡る。
糸原は、ヘッドライトを点け、ゆっくりと車道へハンドルを切った。へッドライトに照らされて大正浪漫づくりの喫茶店が浮かび上がる。
ここ、西城市は、江戸時代には城下町として栄えていたため、古い建造物が数多く残されていた。
現在は、国立大学を有する学園都市となったが、城下町特有の複雑で細い道路はあちらこちらに張り巡らされていて、袋小路や一方通行の道も多い。地元の人間でも迷うほどだという。
大学進学で引っ越してきた糸原も、車の運転に慣れるまでは、かなりの時間がかかった。
病院までの道のりは、交通標識を無視すれば五分ほどで着く距離である。しかし、その距離でも廻り道をしなければならない。どんなに急いでも十分はかかってしまう。いつもなら気にならない時間も、今日は苛立ちを覚える長さだ。
ふと、信号待ちをしている脳裏に、先日の部長との遣り取りが蘇った。