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「俺、頼りない?」
「えっ?」
ピクリと由佳の肩が動いた。
「俺じゃあ、由佳を支えるには、力不足なのかな……」
情けない質問をしている、と自分でも自覚していた。大事な兄代わりの人を亡くした彼女にかけるべき言葉ではないことも。
案の定、由佳は困惑する。表情は見えないが、肌を伝ってそれは感じる。
けれど、どうしても聞かずにはいられない。
大事な人を亡くしても、弱音も泣き言も言われない自分は、そんなに頼りないものなのか、と。
糸原は力なく由佳のうなじに顔を埋めた。その頭を由佳が優しく撫で、ごめんなさい、と呟いた。
「晴人さんにそんな風に思わせてしまっていたなんて……」
私、駄目ね、と苦笑する。
「俺の方こそ、ごめん。今、由佳に言うことじゃなかった……」
「ううん。私が言葉足らずだった」
由佳は小さく首を振り、きっぱりと言い切った。
「私、晴人さんのことは、誰よりも頼りにしている」
清々しいほど真っ直ぐに言葉を放つ。
「……でも、晴人さんは忙しそうだし、私のことで負担をかけたくなかったの」
だから、つい、平気なふりしちゃった、と肩を竦めた。
「そんなこと……」
──そんな風に思われていたなんて。
糸原は、由佳から身体を離し、正面から向き合った。
「由佳のことが負担になることなんてない」
由佳の瞳を見つめ、諭すように言う。
「だから、心配させて欲しい。俺たち、夫婦なんだから」
由佳は目を伏せ、「そうね、ごめんなさい」と微笑んだ。そして、糸原の胸に顔を埋める。
「……私ね、本当はすごく悲しい」
「うん」
「笹本さんを見た時も、生き返るんじゃないかって思った」
「うん」
由佳は堰を切ったように話し出す。
笹本が亡くなったことへの思い。瑞樹への思い。薫や廉の失踪に、これからのこと。
ソファーに凭れ、由佳を抱きしめながら、糸原は一つ一つ相槌を打つ。
やがて、由佳は満足したのか、話し疲れたのか、すやすやと寝息を立てる。
糸原は静かにソファーから立ち上がり、備え付けの毛布を由佳に掛けた。それから、彼女の額に軽く口を当てる。
「おやすみ」
そう言って、糸原は病室を後にした。
*
ナースステーションに顔を出すと、特に用事はないとのことだったので、当直室へと向かった。
ようやく一息つけるな、と当直室のドアを開けた途端、ベッドで眠るニノ方を見つけた。
「ニノ方っ」
驚いて声を上げると、ニノ方は寝ぼけまなこで糸原を見た。
「なんでここに? 帰ったんじゃないのか?」
「そうなんですが、結局、帰ったところで眠れないだろうなぁと思って。それなら、ここにいて糸原さんのサポートをしようかなぁ、なんて……」
いや、今、思いっきり寝てたから、とツッコミそうになる。
しかし、今日は本当に世話になった手前、無下にもできない。
糸原はそうか、と答えた。
それに、実のところ、ニノ方の申し出はとてもありがたかった。
「仕事に差し支えるから、無理はするなよ」と言って、糸原はデスクの椅子に腰を下ろした。
「糸原さんもですよ」
その背中に、ニノ方が呟いた。
当直業務の書類やらカルテやらに目を通して、一段落すると、午後十一時を過ぎていた。
ベッドの上のニノ方は心地良さそうな寝息を立てている。
糸原はデスクから立ち上がると、ニノ方の肌けた布団を直した。それから、ソファーの上のリュックに手を伸ばす。
さっきは、ほんの少ししか見ることが出来なかった茶封筒を取り出す。
由佳の父の名前を見つけた時、まるで過去からの亡霊に会ったような気がした。
今、このタイミングで、由佳の父の名前に出合う意味を考えた。
葛西の言う通り、今回の事件も、由佳の父の事件も繋がっているのではないかと思えてくる。
──だが、どんなふうに?
その鍵を握るのは、笹本から託されたこの封書なのかもしれない。
糸原は、水色の紙ファイルをもう一度捲った。
インデックスページには、『MA1ウィルスの採取』や『MA1ウィルスの培養』といったタイトルが並ぶ。どうやら『MA1ウィルス』についての研究を記録したものらしい。
──MA1ウィルスとは、何を指しているのだろう?
糸原は首を傾げた。
対馬はウィルス学の研究において、そこそこ名の知れた人物であった。発表した論文も数知れずあり、書籍として残っているものもある。
だが、『MA1ウィルス』の名を冠した論文については、記憶を探っても思い浮かばなかった。
──これから発表するつもりだったのか?
ページを捲ると、本題である実験の詳細を記したものが現れる。
一番上にタイトルが書かれ、日付や目的・材料・方法などが、几帳面な文字で記されている。時折、殴り書きの文字も踊っているが、その部分は実験中に記録したのだろう。
実験を記した最初の日付は、二十年前の六月十二日になっていた。二十年前といえば、糸原は中学生、由佳は小学生の頃だろうか。
随分と昔からの研究である。その分、資料の量も多く、実験の内容を読み解くには、少し時間がかかりそうだった。
糸原は一旦ファイルを閉じ、ピンクの紙ファイルに手を伸ばした。
こちらは、実験の経緯や考察、感想などが綴られている。実験日誌にあたるものだろう。記入者の名前はないが、水色の紙ファイルと筆跡が似ているので、対馬のものと推察される。
日誌の最初の日付は、水色の紙ファイルのものより古い。先にこちらを読んだ方が話の通りがいいだろう。
糸原はペラペラと流し読みしていた手を止め、最初のページを開き直した。
*
六月十二日
飼育ケースで多頭飼いしているマウスの中に、雄同士のファイティングにより傷ついたマウスを見つけた。
尻尾はちぎれ、体中のあちこちに傷を負っていた。
ひどく衰弱していたので、手当を行い、別の飼育ケースへと移した。回復するかはどうかは微妙なところであった。
六月十三日
別の飼育ケースに移したマウスの体の傷は癒えていた。ちぎれた尻尾も、完全ではないが生えていた。
驚くべき回復能力だ。
いや、しかし、トカゲの尻尾ではないのだから、ちぎれた尻尾が再び生えてくることありえない。もしかしたら、再生能力を持ったマウスなのかもしれない。
しばらく、このマウスの観察を続けようと思う。
観察するにあたって、名前があった方がいいだろう。
笹本くんと相談して、『MA1』と名付けた。
*
MA1ウィルスの『MA1』は、マウスの名前か、と糸原は合点がいった。
それから、笹本の名前が出てきたことにも少し驚く。由佳から対馬教授の教え子だったという話は聞いていたので、当然と言えば当然なのだが。
──それにしても……。
部長は相変わらずネーミングセンスの欠片もない、と苦笑する。
部長のことだから、マウスの『MA』に一匹の『1』を取っての『MA1』なのだろう。英語表記の『mouse』からの名付けでないところも、彼らしい。
瑞樹くんが生まれた時も、名前のことで奥さんと揉めたんだ、と愚痴っていたことを思い出した。
ふと蘇った懐かしい思い出に、顔が綻ぶ。