27
夕食を食べ終えて、糸原は瑞樹と由佳を伴い、霊安室へと向かった。
瑞樹はベッドから起き上がることは出来たが、体力の消耗は明らかで、数歩歩くのがやっとだった。自力で歩行するのは難しそうだったので、車椅子を使って移動することにした。
初めて乗る車椅子に、瑞樹ははしゃぎ、霊安室までの道のりは、賑やかに過ごした。
しかし、いざ霊安室の前に辿り着くと、顔を強張らせる。無理に明るく振る舞っていたのが見て取れて、辛い。
「大丈夫かい?」
糸原は瑞樹の顔を覗き込んで尋ねた。
「無理に会う必要はないよ」
しかし、瑞樹は力強く首を横に振った。「大丈夫」と口を真一文字に固く結ぶ。
どうやら意思は堅そうだ。
「わかった」と糸原は車椅子を押した。
「こんばんは」
先程まで寝ていた霊安室前の警官がこちらに気づき、ペコリとお辞儀をする。
糸原も「こんばんは。お疲れ様です」とお辞儀を返した。
「今から面会は可能ですか?」
「ええ、大丈夫ですよ」と警官は頷いた。それから、車椅子の瑞樹に目を向け、「彼は……」と糸原に問う。
「笹本さんのご子息です」
「ああ、この中の……」と警官は不憫そうな表情を浮かべた。そして、「僕、頑張るんだぞ」と瑞樹の頭を軽く撫でた。
コクリと瑞樹が頷き、霊安室の扉を真っ直ぐ見つめる。その扉を、警官がゆっくりと開けた。
途端に、扉の先から広がる、線香の匂いと煙が顔を覆った。
霊安室では、枕花や焼香台の置かれた仮祭壇が先ず目に付いた。そして、その影に隠れて、布団の敷かれた安置台が配置されていた。
「ごゆっくり」と三人が霊安室に収まるのを確認して、警官が扉を閉めた。
同時に、「お父さんっ」と瑞樹は車椅子から勢いよく立ち上がった。
安置台の上に笹本の姿を認めたのだ。
唐突に立ち上がったので、軽い貧血を起こして、ふらつく。その腕を取り、糸原は瑞樹の身体を支えた。
「大丈夫?」
糸原の問いに、瑞樹は小さく頷く。そして、体勢を整えると、糸原の手を振り払い、覚束ない足取りでゆっくりと歩き出した。
狭い霊安室である。笹本の元へは数歩で辿り着いた。瑞樹は横に跪き、父の顔を覗き込む。
瞬間、瑞樹の顔に戸惑いが現れた。
「……お父さん」と小さい手を恐る恐る笹本の頬へと伸ばす。その伸ばした指先が、笹本に触れた途端、「冷たいっ」と手を引く。それから再び父の様子を窺った。
無理もない、と糸原は思った。
刑事の葛西から父が亡くなったことは知らされているが、今、眼前に眠る笹本は、顔色が悪いことを除けば、生前と変わりない姿である。
糸原でさえ、本当はただ眠っているだけなのでは、と思うくらいなのだから、幼い瑞樹が混乱するのも当然だ。
「お父さん……」と瑞樹は笹本の身体を揺さぶった。
笹本の身体は、瑞樹にされるがまま、軽く揺れるだけで、なんの反応も返ってこない。
「お父さん……」
キュッと瑞樹は口の端を固く結んだ。
「……僕」と眉間に皺を寄せ、言葉を絞り出す。
「僕、ひとりぼっちだ」
呟やいた瑞樹の声は、虚無感に満ちていた。
「……お母さんも、お兄ちゃんも、皆んないなくなっちゃた──」
大きく見開かれた目から、一筋、涙がこぼれ落ちる。
それを合図に、瑞樹の目からは次から次へと嗚咽と共に、涙が流れ落ちていく。
「──そんなことない」
堪らず、由佳が瑞樹の元に駆け寄り、そっと彼を抱きしめた。穏やかではあるが、しっかりとした芯のある声で言い聞かせる。
「瑞樹くんはひとりぼっちじゃない。……私や晴人さんもいるし、菜緒子さんだって、瑞樹くんのことを大事に思うから、遠くから駆けつけたの」
瑞樹を抱きしめる腕に力が籠った。
「今は、ひとりぼっちだって感じてしまうのは仕方ないけど……。でも、私たちがいるって事は、忘れないで──」
「由佳ちゃん……」
瑞樹は由佳の顔を見上げた。静かに微笑み、優しい眼差しを向ける由佳に、すっかり安心したようだ。
由佳ちゃん、と由佳の胸に顔を埋め、子供らしい泣き声を上げた。
*
どれほど泣いていたのだろう。瑞樹の泣き声がだんだんと弱々しくなり、やがてそれは、健やかな寝息へと変わった。
すっかり泣き疲れてしまったようだ。
糸原は、由佳にしがみついたままの瑞樹を預かり、車椅子へと乗せた。
由佳は笹本への焼香を済ませると、短く手を合わせ、一礼をして糸原の隣に立つ。そして、「そろそろ戻りましょう」と糸原を促した。
「もう、いいの?」
兄と慕う笹本との別れの挨拶の割には、あっさりとしている。
「ええ。……もう充分」と答えた由佳の顔は、少し青ざめていた。
病室に戻り、車椅子の瑞樹を抱き上げて、ベッドへと寝かせる。瑞樹は泥のように眠ったまま、目を覚さない。
「瑞樹くん、相当疲れてるみたいだな」
糸原の投げかけた言葉に、そうね、と布団を整える手を止め、由佳は相槌を打った。
「今日一日で、色々な事があったから。──大人でも大変なのに、子供ならもっと……」
「そうだな、無理もないか」
糸原は頷き、チラリと由佳の様子を窺った。
「……由佳は?」
「え?」
まだ少し顔色の悪い由佳は、目を大きく見開き糸原を見上げた。
「由佳は、平気?」
「私……?」と首を傾げる。
「由佳も辛いんじゃないの? ……顔色も悪いし、さっきから上の空だ」
「私は……」
由佳は目を伏せ、糸原から視線を逸らした。気持ちが揺らいでいるのが分かった。何かを言おうとして、口を紡ぐ。
しばらくの沈黙の後、由佳は小さく頭を振り、「私は、平気」と微笑んだ。
それはいつもと変わらない、美しい微笑みなのだけれど。
糸原はやるせなさと共に由佳を眺めた。
糸原にとっては、見えないバリケードを張られたように思えた。これ以上は詮索して欲しくない、と。
暗黙の了解で、いつもならそれ以上踏み込むことはしないのだが──。
そうか、と呟き、後ろから由佳に覆い被さった。
瞬間、由佳の動きが固まる。
糸原は、更に腕に力を込め、由佳を抱き竦めた。




