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「つい先日、和之さんから預かったものです」
「部長から預かった?」
糸原は眉を顰めた。
「ええ。お盆で帰省してきた時に、『僕に何かあったら、糸原くんに渡してくれ』って」
「何かあったら……」
まるで何かあることを予見していたようだ。
「縁起でもないし、糸原さんになら、和之さんが直接渡すといいじゃない、と言ったのですが……。どうしても、って頼まれて。仕方なく預かったのです」
糸原は手の中の封筒を無言で眺めた。
今すぐ中身を確認したいが、菜緒子の前では辞めておいた方がいいだろう。それに、糸原の自宅に送らなかったことを考慮すれば、由佳にも見せ無い方がいい代物なのだろう。
一体、何が入っているのだろう?
重さや形からして、何かの書類のようではあるが。
「糸原さん?」
「あ、すみません。ちょっとボーっとしてしまって。……菜緒子さんは、封筒の中身は確認されましたか?」
いいえ、と菜緒子は首を横に振った。
「糸原さんに、と言われましたから……。糊で封もしてありましたし、他の人には見られたくないものなのかな、と思いまして」
「そうですか」
部長は、菜緒子のそういう誠実な性格を信用して、これを託したのだろう。
「分かりました。わざわざ、持ってきて頂き、ありがとうございます」
糸原は、菜緒子のその誠実さに頭を下げた。
「いいえ。何かあったら、ということが現実に起こってしまって。──本当に、残念です」
菜緒子は心底悔しそうだ。
本当にその通りだ、と糸原も思う。いつもの部長のタチの悪い冗談だったら──。
だが、現実に部長は亡くなってしまった。
「──ここ、レストランも中々評判なんです」
「えっ?」
糸原が唐突に話題を変えたので、菜緒子は困惑気味に彼を見た。
「お腹が空いてると、あまりいい考えは浮かんできませんよ」
すっかりしんみりしてしまった菜緒子を励ますよう、わざと明るい口調を作る。
「今日は明日に備えて、たくさん美味しいものを食べて、温泉に浸かって、ゆっくり休んでください」
ニコリと微笑んでみせた。菜緒子もつられて表情が明るくなる。
「ありがとうございます。そうさせて頂きます」
深々と頭を下げる。顔を上げた菜緒子の目の端には、涙が滲んでいた。
「本当に、糸原さんがいてくれて助かりました」
手の甲で、目の端を拭い、菜緒子は精一杯の笑顔をみせた。
ホテルから病院へ戻り、霊安室の様子を窺ってみる。既に弔問客の姿はなく、辺りはひっそりと鎮まり返っていた。
霊安室のドアの前では、警護の警察官が一人、椅子でうたた寝をしていた。起こすのも可哀想に思い、糸原は静かに小児病棟へと向かった。
反対に、小児病棟は子供たちの声で賑やかさに溢れていた。午後も七時を過ぎると、子供たちが就寝前の準備を始め出すからだ。洗面室の前には歯磨きの順番を待つ列ができていて、楽しそうにお喋りしたり、小突き合いの喧嘩をしたりしている。
「こら、喧嘩はダメだぞ」
糸原が声を掛けると、子供たちは一斉に糸原に向かって話し出す。
「あ、いとはらせんせー」
「喧嘩じゃないよっ」
「先生、今日当直なの?」
糸原はそれに歩きながら答え、ナースステーションへ向かう。
ナースステーションを覗くと、当直の看護師が数名いた。しかし、肝心のニノ方の姿は見えない。
「ニノ方、知らないか?」
近くにいた若い男の看護師を捕まえて尋ねる。彼は、さぁ、と首を傾げた。
「ニノ方先生なら、六〇一号室にいるって言ってましたよ」
年配の女性の看護師が答える。看護師長だ。
「六〇一号室……。何かあったのか?」
瑞樹の容態に、何か変化があったのかと、心配になる。
いいえ、と看護師長は首を横に振った。
「ただ、そこに居るから、何かあったらよろしくと…….」
──またあいつは……。
糸原は呆れて溜息を吐いた。
「すまないが、俺も六〇一号室で、休憩している。何かあったら、呼んでくれ」と糸原はナースステーションを後にした。
六〇一号室の前まで来ると、何やら楽しそうな声が漏れ聞こえてきた。
──主にニノ方の声だが……。
それでも、時折交じって聞こえる明るい由佳の声に安堵する。
コンコンッ、と糸原はドアをノックした。
すぐに、「はーい」と由佳の声が返ってくる。それから、パタパタとスリッパで歩く音が聞こえ、ゆっくりとドアが開いた。
「あ、晴人さん」
由佳は嬉しそうに微笑む。
糸原もつられて、「ただいま」と笑顔を作った。
「瑞樹くんは変わりない?」
ええ、と頷いて、由佳は身体を少しずらし、病室の中のベッドに目を向けた。
「まだ目を覚ましてないわ」
「そうか」
同じように病室の中を覗くと、ニノ方と目が合った。
「糸原さんっ。……菜緒子さんはもう送ってこられたんですか?」
のんびりソファーに腰掛けていたニノ方が、バツが悪そうに尋ねた。
ああ、と糸原は無愛想に返事をし、病室の中に足を踏み入れる。
「菜緒子さん、ホテルは気に入ってくれたみたい?」
椅子を勧めながら、由佳が尋ねた。糸原は由佳に座るように促し、自らは、ソファーにいるニノ方の隣に腰を下ろした。ニノ方は窮屈そうにキュッと身を縮こませた。
「ああ、とても喜んでいたよ」
糸原の答えに、由佳は「良かった」と微笑んだ。
「特に、『天然温泉の大浴場付き』ってところがすごく嬉しかったみたいだね」
「そうよね。やっぱり、女子は温泉が好きだから」
「ほんと、そうだな」と糸原は笑った。




