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「あっ……」
途端に、藤田が余計なことを言ったという顔をする。
「どういうことですか?」
糸原は改めて尋ねた。
藤田はボリボリと頬を指先で掻いて、「まあ、話しても葛西さんは気にしないか……」と独りごちた。
それから、キョロキョロと辺りを見渡すと、糸原の袖を掴み、人気のない場所へと引っ張った。
「……昔、西城公園で誘拐事件があったの、覚えてますか?」
「誘拐事件?」
「はい。十年くらい前だったかな、女の子が西城公園で誘拐されたって事件です」
言われて、記憶が蘇る。
確か、西城公園に母親と遊びに来ていた女の子が、強引に男に連れ去られた、という事件だ。
必死に女の子を守ろうとした母親は、男に突き飛ばされた拍子に頭を強く打ち、意識不明の重体。
警察もすぐに捜査を行ったが、女の子は遺体で発見。犯人はほどなく逮捕された、というなんとも後味の悪い事件だった。
「覚えてます。女の子の父親が弁護士で、その弁護に不満を持った男の犯行でしたよね」
そうなんです、と藤田は頷いた。
「それが、葛西さんとどういう関係があるんですか?」
糸原は疑問に思い、尋ねた。
「まあ、そうですよね、そうなりますよね……」と呟く。
しばらくの逡巡を経て、藤田は口を開いた。
「──その父親が、葛西さんなんです」
「えっ?」
糸原は、軽い混乱に陥った。パチパチと目を瞬かせ、藤田を見つめる。
藤田はしたり顏でうんうんと頷いた。
「えーと、いまいちピンときませんが、誘拐された女の子の父親が、葛西さんだということですか?」
はい、と藤田が答える。
「しかし、女の子の父親は弁護士ですよね? 葛西さんは刑事なので、話が合わないのでは……」
「それは……葛西さんが弁護士を辞めたからです」
「弁護士を辞めた?」
「もちろん、弁護士の資格は持ってますよ。ただ、法律事務所を畳んで、警察官に転職したってことです」
「転職……」
そういう人間がいるのかと、半ば信じられない。弁護士は、医者の糸原から見ても高級取りのように思える。わざわざ危険で給料も下がるであろう警察官に転職するとは。
「やはり、変わった方ですね、葛西さんは」
ほんとですよね、と藤田は小さく笑った。
「でも、弁護士という仕事に嫌気が差したみたいです。
──訴訟がある度に、人のドロドロとした影の部分を見て、勝った負けたを争う。勝ったからと言って、必ずしも自分が正しいわけじゃない。悪の味方になる場合もある。日々矛盾を抱えてやっていたみたいです。
それで、娘さんの事件があって……。それなら、絶対的正義である警察になってやろうじゃないかって……」
とつとつと語る藤田は、どこか物寂しげに見えた。
「随分と、葛西さんの内情に詳しいですね」
「ええ、まぁ、よく捜査で葛西さんと組になるので。それで移動の時なんか、世間話になったりして……」
「それじゃあ、葛西さんとは長い付き合いなんですね」
「そうでもないです。二年くらいかな……」と藤田は首を捻った。
「本当は、捜査をするにあたって、誰かと決まったコンビを組むってないんですけどね。葛西さん、あの通りだから、他の人から敬遠されちゃって……。
僕が初めて事件の捜査に関わった時から、ずーっとお守りを任せられてます」
そう言って、はにかんだ笑みを浮かべた。
迷惑そうな口ぶりではあるけれど、その奥底にある、葛西への信頼や尊敬が伝わってきた。
「でも、大変じゃないですか?」
だからと言って、葛西の慇懃無礼には付き合いきれたものではないだろう。
「まあ、大変は大変です」と藤田は苦笑いした。
「だけど、どこか憎めないんですよね」
その気持ちは、糸原にもなんとなく分かる。
今朝からのちょっとした付き合いでも、葛西の事件に対する真摯な態度は充分に伝わってくる。それは葛西の不躾な態度を鑑みても、充分尊敬に値するものだ。
「あの、それで、糸原さん……」
思い出したように、藤田がモジモジと話しかけた。
「先ほどはすみませんでした」と頭を下げる。
「先ほど? 何か謝られるようなこと、ありましたか?」
糸原は片眉を上げた。
「大道さんのことです。……何も知らないのに噂を鵜呑みにして、酷いこと言ってしまって、すみません」
再び、深々と頭を下げた。
ああ、と糸原は頷いた。
糸原はさほど気にも留めていなかったが、藤田は自分の行為を恥じているようだった。
「いえ、こちらこそ、嫌味な言い方をしてしまって、申し訳ありません」
糸原も謝辞を述べる。
「ただ、噂話はあまり好きではなくて、つい、大人げない態度を取ってしまいました」
糸原の言葉に、藤田は「気をつけます」と恐縮した。
そんな藤田の素直な反応に好感を持つ。葛西が彼と組む理由もそういうところなのだろう。
「それにしても、藤田さんは子供の扱いに慣れてますよね。瑞樹くんへの対応とか。……もしかして、お子さんが?」
いやいや、と藤田は慌てて首を振った。
「僕、独身です、独身」
左手を顔の前に翳して、結婚指輪をしていないとアピールする。
「随分子供の扱いが上手かったから、てっきり」
「それは、たぶん、交番勤務してたからです」
「交番勤務?」
「はい。新人の頃、地域の交番に配属されたんで……。
交番って配属されるまでは、つまんなそうって思っていたんですけど、意外に自分に合ってて。
毎日、お茶を飲みにくるおばあちゃんが居たり、落とし物だよって手袋片方持ってくる子供が居たり。……猫持ってこられた時は、困っちゃったけど。
あと、通学路の交通安全指導とか、地域の見回りとか。毎日、何かしらで人と触れ合って、お話しして、それが自分には心地良かったんです」
嬉しそうにニコニコ話す。本当に、交番勤務が好きだったのだろう。




