20
「瑞樹くん?」
目の前で手を動かしてみたが、反応はない。身じろぎ一つせず、ジーッと葛西を見ている。
「由佳ちゃんは違う」
もう一度、瑞樹が言う。
「わかったよ、瑞樹くん」
藤田がフォローに入るが、瑞樹は聞く耳を持たない。
「由佳ちゃんは、いなかった。由佳ちゃんは、犯人じゃない。由佳ちゃんは、殺してないっ」
言葉を発する度、怒りがどんどん募っていくように、瑞樹の顔が次第に般若のような形相へと変わっていく。額に血管が浮き上がり、青く筋となる。興奮しすぎたせいか、鼻から血が一筋流れ落ちた。
「瑞樹くん……」
もはや全身の血液が全て頭部に集まったのではないかと思えるくらい真っ赤な顔で、瑞樹はベッドを勢いよく叩き始めた。
あまりの異様な光景に手をこまねいていると、今度は奇声を上げてベッドの上に立ち上がろうとする。
「瑞樹くん、危ないっ」
糸原は堪らず瑞樹をベッドへと押さえ付けた。
「……っ」
しかし、一人の力では、押し戻されそうになる。とても八才の子供の力とは思えない。
「すみません、葛西さん、藤田さん、手伝ってください」
慌てて側にいる二人に加勢を求める。
「分かりました」と葛西は身体の右半分を押さえ、藤田は足を捉えた。
しかし、瑞樹は尚も抵抗を続ける。身体を捩り、捻り、なんとか抜け出そうとする。
大人三人掛かりでも押さえておくので精一杯だ。
糸原は暴れる瑞樹を片手で押さえながら、ナースコールへと手を伸ばした。
呼び出し音が鳴り、「はいっ」と声が返ってくる。
「医師の糸原だ。すまないが、六〇一号室に鎮静剤を持って来てくれ」
「鎮静剤?」
「早くっ」
看護師ののんびりとした返答に、苛立ち、声を荒げる。
「あっ、はいっ」
看護師は慌ただしくナースコールを切った。
しばらくして、注射器セットを持った看護師が病室に駆け込んできた。
が、瑞樹の様子を見て、怯む。
大人三人に押さえ付けられながらも、頭を持ち上げ、大声で回りを威嚇する瑞樹の異様さに驚いたようだ。開けっ放しのドアの前で立ち竦む。
見ると、今年の入ったばかりの新人だった。無理もない。
だからと言って、優しく接している余裕もない。
「ドア閉めてっ」
糸原はついつい強い口調で言葉を投げる。看護師は慌ててドアを閉めた。
「押さえているから、注射してくれっ」
しかし、看護師は動かない。すっかり萎縮してしまったようだ。
糸原は小さく舌打ちをし、「葛西さん、藤田さん、一度手を離しますから、しっかり押さえていて下さい」と声を掛ける。
「分かりました」と二人が答えたのを確認して、糸原は手を離した。
看護師から注射器セットを受け取ると、手袋をはめ、瑞樹の腕に駆血帯を締める。それから、アルコールを含ませた綿で消毒を済ませた。
その間も瑞樹は踠き、一向に収まる気配はない。
「針を刺すので、しっかり押さえてください」
二人にもう一度声を掛ける。葛西と藤田の力が込められるのを確認してから、糸原は瑞樹の細い血管に針を刺した。
ゆっくりと注射器のプランジャーを押していく。それに比例して、瑞樹の抵抗する力が弱まるのを感じた。
瑞樹の顔色が通常のそれに戻っていき、目が微睡む。
「もう、大丈夫。手を離して下さい」
その声に、葛西と藤田が同時に手を離した。
糸原は使用済みの注射器を銀のトレイに戻し、看護師に渡した。
「あの、申し訳ありませんでした」
おずおずと看護師が頭を下げる。
「いや、こちらこそ、厳しい態度を取ってしまって、すまなかった」
余裕がなかったとは言え、新人の看護師にはキツい言動だったと反省する。
「もう、戻ってもらって大丈夫だから」
糸原はできる限りの笑顔を取り繕い、看護師に言った。看護師は再び頭を下げ、病室を出ていった。
「一体、今のはなんだったんでしょうか?」
看護師の足音が遠ざかっていくのを確認して、葛西が尋ねた。
「分かりません。癇癪にしても、症状が度を越していますし……。まるで人が変わったような感じでしたね」
「そうですね。強いて言えば、狐憑きのような……」
確かに、狐憑きという言葉はしっくりくる。
もしかしたら、これもあの赤い目が原因なのかもしれないな、と糸原は今は静かな寝息を立てている瑞樹を眺めたのだった。