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満月に狂う君と  作者: 川端睦月
今宵の月は
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1


 ──誰かの泣いている声がする。


 ああ、ゆうちゃんだ。


 幼い頃、母の入院先で知り合った女の子。


 俺が母方の祖母の家に預けられることになって、お別れを言ったから泣き出したんだっけ。


「一緒に行く」って聞かなかったな。


「じゃあ、僕が大きくなったら迎えに来るから」って言ったら、すごい笑顔を浮かべて頷いたっけ。


 ──でも、今日は泣き止んでくれない。


 その泣き声はだんだんと大きくなって。まるで電子音のように変化していく──。


 そこで糸原(いとはら)晴人(はると)はハッと目を見開いた。


 遠くでスマートフォンの着信音が鳴っていた。


 スマートフォンは、かなり長い間鳴り続けているようだった。糸原はまんぜんとした意識の中、早く電話に出なければと焦りを募らせた。


 だが、身体が思うように動かない。


 やがて「糸原です」と、聞き慣れた声が電話に応じる。妻・由佳(ゆか)の声だ。


 ──なんで……。


 糸原の意識は急激に現実へと引き戻された。その勢いのまま、ベッドから身体を引き剥がす。


 薄闇を、カーテンの隙間から漏れた一筋の光が照らしていた。由佳の姿は隣にはなく、整えられた枕が鎮座していた。


 糸原は両手で顔面を拭った。ヘッドボードの置き時計を確認すると『AM2:18』と表示されていた。


 ──こんな真夜中に電話なんて……。患者の容態が悪化したのか……?


 しかし、隣室にいる由佳の声はくぐもっていて、会話の内容までは聞き取れない。着信音は糸原のものだったので、自分にかかってきた電話であることは確かなのだが。


 ベッドから立ち上がろうと、足を床に着く。と同時に、リビングへと繋がるドアがゆっくりと開いた。


「……晴人さん、起きていたの?」


 ベッドから起き上っている糸原に気づき、由佳がおずおずと尋ねる。


「ああ」と糸原はうなずいた。


「もしかして、起こしちゃった?」

「いや、大丈夫……」


 糸原は苦笑して答えた。起こしてしまったのは、こちらのほうである。


「……そう?」


 由佳は小首を傾げ、思い出したようにスマートフォンを差し出した。


ニノ方(にのかた)さんから急ぎの電話だったの。あとでかけ直したほうがいい?」


「……ニノ方?」


 確か、今日の当直はニノ方だったはずだ。やはり、患者の容態が悪化したのかもしれない。


「いや、出るよ。ありがとう」


 糸原の答えに、由佳はスマートフォンを手渡す。それから、へッドボードの明かりを点け、「リビングに居るから」と寝室を出ていった。


 その後ろ姿を見送り、糸原は電話の保留を解除した。


「……すまない、待たせな」


「あ、糸原さんっ。こちらこそ、夜分遅くに申し訳ありません」


 電話の向こうのニノ方からは焦りが感じられた。


「だれか容態が急変したのか?」

「あの、そうではないのですが……」


 戸惑いながら、ニノ方は続けた。


「はっきりしたことはまだ分からないのですが……あの、笹本(ささもと)部長が……」


「笹本部長?」


 笹本部長とは、糸原が勤める西城(せいじょう)中央病院の小児科の部長だ。糸原とニノ方の直属の上司でもある。


 しかし、今日は公休だったし、当直でもない。その笹本の名前が出てくることに、糸原は違和感を覚えた。


「あの、本当に、まだきちんとした情報ではないのですが……」とニノ方は続けた。


「部長の家から、警察に通報があったそうです」

「通報?」

「ええ。で、そのあと、救急車の出動要請があり、今、こちらの病院に向かっているとのことです」

「状況は?」

「重傷者一、心肺停止者一です」

「心肺停止?」

「はい。重傷者は大学病院に運ばれるようで、うちには心肺停止者が運ばれてくるそうです」

「……部長なのか?」


 糸原は声をひそめて尋ねた。


「はい、おそらくは……成人男性とのことなので、部長の家族構成から考えて、そうなのではと……」

「……わかった。これからそちらに向かう。ニノ方は到着しだい、確認を頼む」


 わかりました、と答えるニノ方の声が心許なかったが、糸原は電話を切った。今は、下手な励ましよりも一刻でも早く病院に駆けつけたほうがいい。


 素早くベッドから立ち上がり、リビングに続くドアを開けた。


 由佳はキッチンでコーヒーを淹れていた。甘い独特の香りが鼻をくすぐり、もやもやとした眠気が一気に吹き飛ぶ。


「出かけるの?」


 糸原に気づき、由佳が尋ねる。


「ああ。笹本部長に大事があったらしい」

「笹本さんに?」


 由佳は怪訝そうに眉をひそめた。


 どうやら、彼女も患者の容態が悪化しての電話だと思っていたようだ。

 しかし、それ以上は何かを尋ねることはなく、そう、とうなずいて、元の作業に戻る。淹れ終わったコーヒーを慣れた手つきでマグボトルへと移していた。


 糸原は寝室に戻り、クローゼットの中から適当にTシャツとジーンズを取り出した。それらに着替え、薄手のパーカーを羽織る。その間に、由佳はリュックの中へと財布やスマートフォン等の小物を詰め込み、着替え終わった糸原にマグボトルと一緒に手渡した。


「ありがとう」と礼を述べ、慌ただしく玄関へと向かう。


 由佳も糸原に倣い、玄関についてきた。


「なるべく早く帰るようにはするけど、いつも通り診察もあるし、戻りは夕方になると思う」


「わかりました」と由佳は小さくうなずいた。


「……でも、もし、詳細がわかったら、忙しいでしょうけど、連絡してください」


 その言葉に、キーボックスに伸ばした手を止めた。チラリと一瞥すると、由佳は不安げな表情で、唇をキツく結んでいる。


 笹本は、早くに両親を亡くした由佳にとって、兄のような存在だった。そんな彼が、今まさに生死をさまよっているのだと、伝えることはできなかった。


「部長のことは心配ないよ」と糸原は務めて明るい声で言い、由佳を抱きしめた。


「大丈夫だから」


 優しく背中を撫でる。


 由佳も糸原の腰に腕を回し、身体を押しつけた。ギュッとしがみつく由佳の柔らかな感触が愛おしい。ずっとそうしていたいところではある。


 ──部長のことがなければ。


 糸原は名残り惜しく、由佳から身体を離した。


「何かわかったら連絡する」

「うん」

「だから、今夜はゆっくり休んで」


「はい」と、由佳が小さく笑った。


「いってきます」


 ドアノブに手をかけ、振り返る。


「いってらっしゃい」と由佳は穏やかな笑みを浮かべ、手を振った。


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