15
「おそらく、別の消防署に属しているか、病院が所有している救急車だと思います」
「病院の救急車ですか?」
それは初耳だという顔で、葛西は糸原を凝視した。
「ええ。うちの病院は持ってないですが、患者の転院用に所有しているところがあるんです」
「そうですか。……ちなみにこの辺りだとどちらの病院がお持ちになっていますか?」
「市内だと、西城大学病院だけだったはずです」
糸原は記憶を辿り、答える。
「西城大学病院……」
その名を呟いて、葛西はため息を漏らし、「結局、そこに行き着きますね」と肩を竦めた。
糸原もそれは感じていた。今回の件ではなにかと名前が上がり、そこで行き止まりになってしまう。立ちはだかる壁のように行く手を遮っている。
「ところで、笹本さんのご遺体ですが…」
葛西の言葉で、思考が現実に引き戻される。
「司法解剖も終わりましたので、今日の夕方くらいにはお返しできると思います」
「そうですか」
「ただ、笹本さんのご自宅は現場検証中のため、立ち入ることが出来ません。それで、どちらにお返しした方がいいのか、ご相談したかったのですが……」
「菜緒子さんは何か言ってました?」
「菊池さんは、この土地のことはよくわからないのであなたに相談してみます、とおっしゃっていました」
そうですか、と糸原は少し考え込んだ。
「それでしたら、一旦こちらの病院に戻してください」
瑞樹もいるし、笹本は人望があるから、病院の人間の中にも会いたがる者はいるだろう。
「霊安室を借りられるよう、手配しておきます」
葬儀も霊安室付きの葬儀屋にお願いすればいい。
「分かりました」と葛西は頷いた。
「……ところで、解剖が終わったということは、死因も判明したということですよね?」
糸原の問いに、葛西は眉間に皺を寄せ、頷いた。
「まだ、正式な鑑定書が出ていませんので、途中経過となりますが、おそらく心臓損傷による失血死だろうと」
「心臓損傷、ですか。……ということは、心臓は見つかったのですか?」
「いいえ」と、葛西は首を振った。
心臓が見つからないのに、心臓損傷もないだろうに、と糸原は心の中で悪態をついた。
「もしかしたら何かしらの衝撃によって、身体の別の場所に動いた可能性を考えていましたが、解剖では発見されませんでした」
「そうですか」
「もしかしたら心臓は持ち去られたのかもしれません」
「持ち去られた?」
「あくまで可能性の話ですが」と葛西は前置きをして続ける。
「ちょうど心臓がある辺りに、穴が空いていたそうです」
「穴?」
「ええ、腕の太さほどある穴です」と葛西は手で大きさを示し、自分の心臓の位置に当てた。
「胸骨を貫き、心臓にまで達していました」
「胸骨を貫く?」
糸原はその状況が想像できなかった。骨は手術をする時も医療用のドリルで穴を空けなければならないほど硬い。それを、穴を空けて貫くなど、どうやったら可能になるのだろう。
「法医学の教授の話では、手刀ではないか、と」
「手刀?」
思いがけない言葉に糸原は呆れた笑いを返す。しかし、葛西は表情を崩さない。
「凶器を使用した形跡がないようなのです。鋭利な刃物で切られたわけでも、ドリルのような物を使ったわけでもない。何か腕ほどの太さの鈍器のようなもの、つまり、腕で身体を貫いたのではと」
「しかし、骨を貫くのは、人間の力では不可能です。もし、そんなことをすれば、やった側も怪我をしてしまう」
「確かに、そうなのですよね……」
糸原の言葉に、葛西は納得する。
「それで、どうして心臓は持ち去られたと?」
「教授は、手口が違う、と言ってました」
「手口が違う、ですか?」
「ええ。教授の話では、穴を空けたのは手刀だろうけど、心臓を取り出すのにはメスを使っているようだ、とのことでした」
「メス? ……ということは、犯人は医療関係者ということですか?」
「その可能性もあります」
葛西はそう言って、ニコリと笑った。
「つまり、糸原さんも容疑者候補になりますよね」
「は?」
突然の容疑者呼ばわりに糸原は目を丸くする。
そんな糸原の様子を見て、葛西はふふっと笑いをこぼした。
「冗談です。糸原さんは違うと確信していますので」
葛西はこともなげに言った。
何を根拠にそう思うのだろう。よくいう『刑事の勘』というやつなのだろうか。
糸原は、ちらりと葛西の様子を窺った。
仕立てのいいグレーのダブルスーツに包まれた身体は、意外と筋肉質であることがわかる。折り目のきちんとしたズボンと、綺麗に磨かれた黒の革靴で身なりに気をつけている事も想像できる。人当たりの良さそうな和かな表情と非常に丁寧な物言いは、刑事と言われれば、若干の違和感を覚える。
そういえば、エレベーターの中で、警察になりたかったわけではない、というようなことを言っていた気がする。
──あれはどういう意味なのだろう。
ぼんやりと考えごとをして葛西を見ていると、目が合った。糸原はバツが悪くなり、思わず咳払いをした。
葛西は特に意に介した様子もなく話を続ける。
「それから、マンションに行った鑑識の話では、あれはやはり血液のようです。すぐにDNA鑑定に回しましたが、結果は明日になるとのことでした」
逐一、糸原に報告する。警察の捜査情報をただの一般人にここまで漏らしていいものなのかと、心配になる。
「分かりました」と糸原は頷いた。
「それで、明日、結果をお知らせしたいので、連絡先をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
そう言って、葛西は胸の内ポケットからスマートホンを取り出した。
確かに、直接の連絡先は教えていなかったと、糸原も白衣からスマホを取り出す。
「私、最近、LINEにハマってまして」
軽快にスマホを操りながら、葛西が言う。
「LINEに?」
それってハマるものなのか? と糸原は片眉を上げた。
「ええ。便利ですよね、思い立った時に用件を伝えられるのですから」
その言葉から、LINEをコミュニケーションの手段としてではなく、一方的に用件を言いつけるための方法として認識していることが読み取れる。
葛西はスマホを差し出し、QRコードを表示した画面を見せた。糸原はそれを読み取り、『糸原です。よろしくお願いします。』とメッセージを送った。
少しの間があって、葛西から『こちらこそよろしくお願いします。』というメッセージと共に、スタンプが押される。
そのスタンプを見て、糸原は思わず吹き出した。それを葛西は怪訝そうに見つめる。
「何かおかしなことでもありましたでしょうか?」
糸原は首を振る。
「いえ、……ギャップが……」
笑いを堪え、そう答えるのがやっとだ。画面には少しひねたクマがハートを投げかけているイラストが表示されている。
「ああ。そのキャラクターが好きなのです」
葛西は表情を変えることなくそう答え、スマホをしまった。
「意外ですね。……もしかして、お子さんの好きなキャラクターなんですか?」
糸原の問いに、一瞬、葛西の顔が強張る。が、次の瞬間には、いつもの笑みがそれを覆い隠す。
「糸原さん、そろそろ、瑞樹くんのお見舞いに行きませんか?」
明らかに話題を変えた葛西には、どことなく影が見えた。