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職員出入り口の備品の椅子に由佳は座っていた。
シンプルな白のカットソーにグレーのワイドパンツというカジュアルな服装で、肩まで伸びた髪を後ろで緩く束ねている。
糸原はついつい見惚れて、足を止めた。
「晴人さんっ」
糸原に気付いた由佳が椅子から立ち上がる。彼女の沈んでいた表情が、一瞬で笑顔に変わった。
糸原はそれを眩しく見つめ、由佳の元に駆け寄る。
「ごめんなさい、急に押しかけて」
由佳は糸原を見上げて言った。糸原と由佳の身長差は二〇cmほどなので、立ち話をする時はどうしてもこの体勢になってしまう。
「いや、大丈夫。ちょうど手が空いたところだったから」
「そう?」と由佳は小首を傾げ、それから「朝ご飯はもう食べたの?」と尋ねた。
「いや、これから」
「それなら良かった。お弁当持ってきたの。急だったから、おにぎりしか作れなかったけど……」
そう言って、手にしていたランチバッグを差し出した。
「ありがとう」
糸原はそれを受け取り、「一緒にどう?」と由佳を誘う。
由佳はコクリと頷いた。
「当直室で食べようか」
糸原は由佳の背中に腕を回し、エレベーターホールへと向って歩いた。
「……さっき、理佐ちゃんから聞いたのだけど──」
道すがら由佳が切り出す。理佐ちゃんとは、看護師の鳴海の事である。
「笹本さんが亡くなったっていうのは本当なの?」
その言葉に、由佳の背中に回した糸原の腕が強張る。由佳もそれに気付いて立ち止まり、糸原を見上げた。
「……ああ」と答えるのがやっとだった。
途端に由佳の表情が曇っていく。二人はしばし無言のまま、その場に立ち尽くした。
ポーンと、エレベーターの到着を告げる音が鳴る。
「とりあえず、乗ろうか」と糸原は由佳の手を取り、エレベーターの中へ滑り込んだ。
エレベーターの中でも、由佳は無言だった。
糸原は由佳の指に自分の指を絡ませる。由佳は糸原を見上げ、その腕に頬を寄せた。
やがて、到着を告げる音と共にドアが開く。
同時に「あー、来た来た」と笑いの混じった声が聞こえてきた。
不思議に思いながら、糸原は一歩、エレベーターから踏み出す。途端にニノ方と目が合った。
「ニノ方、なんでここに?」
糸原は目を剥いた。
「いえ、糸原さんの奥さんにご挨拶しておかなくては、と思いまして」
ニッコリ笑う。完全に悪戯っ子の顔である。
ニノ方は不躾に糸原の後ろを覗き込み、由佳の顔を捉える。途端に、見る見る彼の顔が赤らんでいった。
「どうした、熱でもあるのか?」
糸原はニノ方の額に手を当てる。
やはり疲れが出たのかもしれない。あの時無理矢理でも返すべきだった──と後悔するが、熱は平熱である。
糸原は首を傾げ、ニノ方を繁々と見つめた。しかし、彼は後ろの村由佳を凝視したまま、微動だにしない。
「おい、ニノ方っ」
肩を揺すると、ニノ方はハッと我に返り、糸原に焦点を合わせた。
それから「糸原さんの奥さんって、ミス西城の対馬さんだったんですか?」と大声で叫ぶ。
その声は、朝の静かな病棟の隅々まで響き渡った。
*
「すみません、大きな声を出してしまって」
興奮冷めやらぬといったままのニノ方が頭を下げた。廊下での立ち話は迷惑になると思い、当直室に駆け込んだのだ。
由佳はテーブルにお弁当を広げながら、「大丈夫です」と笑った。
「糸原さんも人が悪いです。そうならそうと言ってくれればいいのに」
ニノ方が恨みがましそうに睨む。
言ったところでどうにかなるわけでもないだろうに、と糸原は呆れた。
確かに、由佳からミス西城の話は聞いたことがあった。鳴海に無理矢理引っ張りだされ、偶然選ばれたと言っていような気がする。
「大したことじゃないのよ。誰でもなれるのものなのよ」とも。そういう事に疎い糸原は、その言葉を鵜呑みにしていた。
しかし、ニノ方の反応を見るに、そうではないのだろう。
「よろしかったら、ニノ方さんもどうぞ」
由佳に勧められるまま、ニノ方は大喜びでおにぎりを頬張ばった。
まったく、遠慮のない男だ、と糸原は溜息を吐いた。
しかし、ニノ方のお陰で、表面的であっても由佳に笑顔が戻ってきた。それは喜ばしいことである。
「──それで、どうして電話を?」
テーブルの上に人数分のコーヒーカップを置きながら、由佳に尋ねた。彼女の性格では、余程のことがない限り電話を掛けてきたりはしない。
「実は、朝早くから、駐車場に警察の方が集まっていて……」と由佳がオズオズと話し出す。
「もしかして、晴人さんに何かあったのかも、と心配になったんです。すみません」
その話にニノ方が食いついく。
「どうして糸原さんのところに警察が?」と不思議そうに糸原を見た。
「ちょっとな……」
糸原は話を濁した。ニノ方に言ってもややこしくなるだけだと思った。
「病院に電話しても晴人さんは不在で。ますます不安になって、理佐ちゃんに取り次いでもらったら、笹本さんが……」
由佳はそこで話を止めた。キュッと唇をくいしばる。ニノ方も神妙な面持ちで由佳を見た。