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満月に狂う君と  作者: 川端睦月
東雲に来る

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9


「そうですね……」と糸原は少し考え込んだ。


 昨日の出来事をそのまま話したところで、荒唐無稽な作り話だと思われるのが関の山だ。


「些細なことでも構いませんので、おっしゃってください」


 葛西の言葉は、こちらの気持ちを尊重するようなニュアンスでありながら、そうではない。話をしない限り、彼からは解放されないのだ。


 糸原は、なるべく辻褄の合うように話をまとめて伝えることにした。


「……廉くんなのか確証はないのですが、マンションの駐車場で、彼らしき人物を見かけました」


「ほうっ」と葛西が目を剥く。


「暗かったので、はっきり見えませんでしたし、そうだとは言い切れませんが」

「それなのに、なぜ廉くんだと思ったのですか?」

「……背格好が似ていたからです」

「それだけですか?」

「実際、駐車場では廉くんだとは思いませんでした。病院で彼が行方知れずだと聞いて、ああもしかしたら……と思っただけです」

「なるほど。それで、その人物は、どうしました?」


「何も」と糸原は首を横に振った。


「ただこちらの様子を窺って、しばらくしたら立ち去って行きました」

「そうですか……」


 葛西は呟き、顎に手を当てた。何かを思案しているようだ。


「それから、彼は怪我をしているようでした」

「怪我、ですか?」


 葛西は顔を上げ、糸原を怪訝そうに見つめた。


「どうしてそう思われるのですか?」

「彼の居た場所が血液で濡れていたからです」

「血液で濡れていた? ……だとすれば、相当な出血があったということですよね?」


「ええ」と糸原は頷いた。


「おそらく、生死に関わるほどの出血だったと思われます」

「それなのに、その場を立ち去ったということですか……」


 葛西の目に鋭い光が宿る。


「分かりました。とりあえず糸原さんのマンションに鑑識を向かわせます。血液があるなら、DNA鑑定でその人物の特定をすることができるでしょう」

「よろしくお願いします」


 糸原は頭を下げた。


「いえ、こちらこそ貴重な情報をありがとうございます」


 葛西も頭を下げ、ソファーから立ち上がった。


「長居してしまって申し訳ありません。そろそろお暇しますね」


 にこやかに謝辞を述べ、背中を向ける。それに従い、糸原も立ち上がって当直室のドアを開けた。


「あ、そういえば……」


 糸原とすれ違いざまに、葛西が思い出したように口を開いた。


「笹本さんのご遺体なのですが、司法解剖に回されることになります」


 糸原を見上げて告げる。


「司法解剖……」

「事件性が疑われる事案なので、仕方がないことなのですが……。たぶん、そろそろお迎えがくる頃かと。その前に、面会されますか?」

「可能なんですか?」

「ええ。私が付き添うので、大丈夫ですよ」

「是非お願いします」


 糸原は、深々と頭を下げた。


 部長の遺体は、病院内の霊安室に安置されているという。


 霊安室はほとんどの病院で地階にあり、西城中央病院もご多分に洩れず、そうだった。


 糸原は葛西の申し出を受けたことを少し後悔していた。


 六階の小児病棟から地階の霊安室への移動となると、そこそこの時間を要するからだ。

 事情聴取の時の彼を考えると、プライベートなことを聞き出す時間を与えてしまったように思えた。


「先ほど、奥様は大学の後輩だったとおっしゃっていましたが、もしかして奥様もお医者さんなのですか?」


 エレベーターに乗ると、案の定、葛西は好奇心剥き出しで、質問を始めた。


「いえ、妻は看護師です。今は、一時的に仕事を休んでいますが」

「そうなのですか。しかし、お医者さんの奥様なら、働きに出なくても金銭的には困らないですよね」


 下世話な質問に、糸原は辟易とする。


「そんなことは……。それに、妻は看護師の仕事が好きですから」

「そうなのですか」

「ええ。妻は幼い頃は心臓が悪かったらしく、入退院を繰り返していたそうです。それで、親身なってお世話をしてくれた看護師さんに憧れて、看護の道に進んだそうです」

「それは素晴らしい。小さい頃からの夢を叶えることができる人は、そうそういませんからね」

「そうですね。私も妻には感心しています」

「糸原さんは違うのですか?」

「えっ?」

「いえ、糸原さんの口振りからすると、お医者さんになりたかったわけではないようなので」


 葛西の言葉に、糸原は表情を曇らせた。


「……私は親のご機嫌とりでなったようなものですから」


 卑屈な言葉が口をついて出る。


「親とは、お父様のことですか?」


「そうです」と糸原が頷くのに、葛西は首を傾げた。


「──可笑しなものですね。お父様とは疎遠でありながら、その意向に添うとは……」

「その辺りは複雑なんです」


 糸原は前髪を掻き上げ、頭を掻く。


「いくら疎遠とはいえ、養ってもらっている以上、強くは逆らえませんから」


 なるほど、と葛西は頷いた。「でも、まぁ」と糸原は肩をすくめた。


「親の言いなりでなった医者ですが、今は、やりがいを感じています。医者になって良かったと感じることも多い」

「それは良かったですね。きっと糸原さんの天職だったのでしょうね」


 葛西はどこか嬉しそうに言う。


「かく言う私も、警察官になりたかったわけではないのです」


 葛西は珍しく神妙な面持ちを見せる。しかし、すぐにいつもの笑みが顔を覆った。


「そうなんですか?」


 意外に思った。葛西のような男は自分の道を妥協せず、真っ直ぐ突き進んできたように見える。


「ええ。──ですが、今の職業の方が、私には向いている気がします」


 そう葛西が言ったのと同時に、エレベーターの到着音が鳴り、ドアが開く。


「行きましょうか」と葛西が先導する形で霊安室へと向かった。


 霊安室の前には、制服の警官が立っていた。警官は敬礼で挨拶をし、葛西は軽い会釈を返す。


「今、面会できるかな?」


「はい、大丈夫です」と警官が答える。葛西は霊安室のドアを開け、「どうぞ」と糸原を招いた。


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