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「そうですね……」と糸原は少し考え込んだ。
昨日の出来事をそのまま話したところで、荒唐無稽な作り話だと思われるのが関の山だ。
「些細なことでも構いませんので、おっしゃってください」
葛西の言葉は、こちらの気持ちを尊重するようなニュアンスでありながら、そうではない。話をしない限り、彼からは解放されないのだ。
糸原は、なるべく辻褄の合うように話をまとめて伝えることにした。
「……廉くんなのか確証はないのですが、マンションの駐車場で、彼らしき人物を見かけました」
「ほうっ」と葛西が目を剥く。
「暗かったので、はっきり見えませんでしたし、そうだとは言い切れませんが」
「それなのに、なぜ廉くんだと思ったのですか?」
「……背格好が似ていたからです」
「それだけですか?」
「実際、駐車場では廉くんだとは思いませんでした。病院で彼が行方知れずだと聞いて、ああもしかしたら……と思っただけです」
「なるほど。それで、その人物は、どうしました?」
「何も」と糸原は首を横に振った。
「ただこちらの様子を窺って、しばらくしたら立ち去って行きました」
「そうですか……」
葛西は呟き、顎に手を当てた。何かを思案しているようだ。
「それから、彼は怪我をしているようでした」
「怪我、ですか?」
葛西は顔を上げ、糸原を怪訝そうに見つめた。
「どうしてそう思われるのですか?」
「彼の居た場所が血液で濡れていたからです」
「血液で濡れていた? ……だとすれば、相当な出血があったということですよね?」
「ええ」と糸原は頷いた。
「おそらく、生死に関わるほどの出血だったと思われます」
「それなのに、その場を立ち去ったということですか……」
葛西の目に鋭い光が宿る。
「分かりました。とりあえず糸原さんのマンションに鑑識を向かわせます。血液があるなら、DNA鑑定でその人物の特定をすることができるでしょう」
「よろしくお願いします」
糸原は頭を下げた。
「いえ、こちらこそ貴重な情報をありがとうございます」
葛西も頭を下げ、ソファーから立ち上がった。
「長居してしまって申し訳ありません。そろそろお暇しますね」
にこやかに謝辞を述べ、背中を向ける。それに従い、糸原も立ち上がって当直室のドアを開けた。
「あ、そういえば……」
糸原とすれ違いざまに、葛西が思い出したように口を開いた。
「笹本さんのご遺体なのですが、司法解剖に回されることになります」
糸原を見上げて告げる。
「司法解剖……」
「事件性が疑われる事案なので、仕方がないことなのですが……。たぶん、そろそろお迎えがくる頃かと。その前に、面会されますか?」
「可能なんですか?」
「ええ。私が付き添うので、大丈夫ですよ」
「是非お願いします」
糸原は、深々と頭を下げた。
部長の遺体は、病院内の霊安室に安置されているという。
霊安室はほとんどの病院で地階にあり、西城中央病院もご多分に洩れず、そうだった。
糸原は葛西の申し出を受けたことを少し後悔していた。
六階の小児病棟から地階の霊安室への移動となると、そこそこの時間を要するからだ。
事情聴取の時の彼を考えると、プライベートなことを聞き出す時間を与えてしまったように思えた。
「先ほど、奥様は大学の後輩だったとおっしゃっていましたが、もしかして奥様もお医者さんなのですか?」
エレベーターに乗ると、案の定、葛西は好奇心剥き出しで、質問を始めた。
「いえ、妻は看護師です。今は、一時的に仕事を休んでいますが」
「そうなのですか。しかし、お医者さんの奥様なら、働きに出なくても金銭的には困らないですよね」
下世話な質問に、糸原は辟易とする。
「そんなことは……。それに、妻は看護師の仕事が好きですから」
「そうなのですか」
「ええ。妻は幼い頃は心臓が悪かったらしく、入退院を繰り返していたそうです。それで、親身なってお世話をしてくれた看護師さんに憧れて、看護の道に進んだそうです」
「それは素晴らしい。小さい頃からの夢を叶えることができる人は、そうそういませんからね」
「そうですね。私も妻には感心しています」
「糸原さんは違うのですか?」
「えっ?」
「いえ、糸原さんの口振りからすると、お医者さんになりたかったわけではないようなので」
葛西の言葉に、糸原は表情を曇らせた。
「……私は親のご機嫌とりでなったようなものですから」
卑屈な言葉が口をついて出る。
「親とは、お父様のことですか?」
「そうです」と糸原が頷くのに、葛西は首を傾げた。
「──可笑しなものですね。お父様とは疎遠でありながら、その意向に添うとは……」
「その辺りは複雑なんです」
糸原は前髪を掻き上げ、頭を掻く。
「いくら疎遠とはいえ、養ってもらっている以上、強くは逆らえませんから」
なるほど、と葛西は頷いた。「でも、まぁ」と糸原は肩をすくめた。
「親の言いなりでなった医者ですが、今は、やりがいを感じています。医者になって良かったと感じることも多い」
「それは良かったですね。きっと糸原さんの天職だったのでしょうね」
葛西はどこか嬉しそうに言う。
「かく言う私も、警察官になりたかったわけではないのです」
葛西は珍しく神妙な面持ちを見せる。しかし、すぐにいつもの笑みが顔を覆った。
「そうなんですか?」
意外に思った。葛西のような男は自分の道を妥協せず、真っ直ぐ突き進んできたように見える。
「ええ。──ですが、今の職業の方が、私には向いている気がします」
そう葛西が言ったのと同時に、エレベーターの到着音が鳴り、ドアが開く。
「行きましょうか」と葛西が先導する形で霊安室へと向かった。
霊安室の前には、制服の警官が立っていた。警官は敬礼で挨拶をし、葛西は軽い会釈を返す。
「今、面会できるかな?」
「はい、大丈夫です」と警官が答える。葛西は霊安室のドアを開け、「どうぞ」と糸原を招いた。




