イセカイ
プロローグ
子どもが、公園でボールを追いかけていた。父親の投球をキャッチしようと躍起になっている。その傍に、母親とベビーカーに乗った赤ん坊がいた。走っているのは、グローブを持った野球少年だけだ。彼の夢はプロ野球選手であろうか。暑い夏の日に、泥と汗になりながら一生懸命に追いかける姿を、僕は公園の外の道路から見ていた。バイトの帰り道だった。
子どものころの記憶を、僕は覚えていない。学校で何をして、どんな野菜が苦手で、何を夢見ていたのか。愛されていたのか。
僕は、スリーエフのゴミ箱の前で溶けかけのホームランバーをかじっている時に自分が自分であることを自覚した。人間はいつ自分であることを自覚し、自分の記憶を持つのだろう。ライトノベル小説の、異世界転生というものを見て思った。もしかするとこの身体には他の誰かの人格があって、ホームランバーをかじっているときにちょうど自分が転生して上書きされたのではないか、と。そうだとすると、元の人格はどこにいく? ゲームのデータのように、上書きされるとなかったことになるのだろうか。
僕はただのフリーターだった。目を瞑って、何かに祈ってみても目の前の世界が変わるわけではない。何か特別な能力があるわけではない。異世界転生だとしたら随分なハズレものだ。
僕の部屋には、何週も洗っていない布団と、少しの本がある本棚しかなかった。時折本に手を伸ばすが、開いてすぐに飽きてしまった。本を枕元に置いて、僕は目を閉じる。手のひらから炎を出す自分の姿を想像して、悪漢を追い払って人気者になった自分を想像して。そうして、いつの間にか眠っていた。僕はいつも、長い夢を見ていた。
緑色の綺麗な大地に自分がいて、仲間たちと一緒に野原を走り回っている。顔立ちの整った、おかしな格好の女の子たちだ。紅い目の少女や、長く尖った耳の少女もいる。僕の焦がれている異世界ライフというやつがそこにはあった。僕は剣と盾を携え、仲間と共にゴブリンやデーモンなどのモンスターを倒していき、魔王城へと歩みを進める。服装も徐々に変化し、白く光るミスリルプレートを装備するようになったころ、僕達は最終決戦の舞台に上がる。そして、僕は言う。「行くぞみんな!」ついに魔王とラストバトルに臨んだのだ。自分の顔は見えなかったが、さぞ満足そうな顔をしていただろう。意気揚々と魔王の間へと足を踏み入れ……、
そこから先は……、なぜだろう、思い出せない。白くモヤがかかったような映像になって、仲間たちの顔もよく見えなかった。夢の映像はそこで毎回朧げになるのだ。周りの映像が動いているのだけを感じていた。自分はそこで立ったまま、同じく動かない魔王の顔を見た。静止画のような魔王の姿が、一瞬だけニヤリと笑ったように見えた。目が覚めると、とても最悪な気分だけが自分の中に残った。
一、
常夜灯として使っていたスタンドライトの寿命がきて、なんとなくの恐怖から夜も僕は部屋の電気をつけっぱなしでいた。電気がつけっぱなしだとついついスマートフォンに手が伸びがちで、夜遅くまでYouTubeを開いていた。そんな生活を繰り返し、自然と次の日の目覚めが悪くなって、体が妙に熱いような、なんとも言えない気だるげな気持ちになっていった。その日もそうだった。朝起きてまず、重い体と、周りの視界が白いのが気になった。目を手の甲で擦ってみても、それは直らず、そして、目の中にひどい異物感がした。コンタクトレンズをつけっぱなしで寝てしまっていたようで、僕はそれを早く取り除こうと、手に指を突っ込んだ。しかし、コンタクトはなかった。近くに鏡がなかったので手探りで右目に指を入れたが、痛みだけを目に感じた。掴んだのはただの眼球だったのだ。僕は痛くなって右の目を抑えながらふらふらと洗面台を目指し、顔を上げた。
「は?」
僕は思わず、声を漏らした。目の前には木製の大きな円のオブジェがあったのだ。それは陰陽師が使う黒と白の陰陽のマークのようで、その上に枯山水のような流れる線が彫られ凹凸が出来ている。陰陽の黒い小さな丸と白い小さな丸のところに、ほら芸術でしょう? と言わんばかりにカラフルな色で塗られた目のようなものも彫られてあり、なんだか人の顔のようで不気味だった。そんなものが白いモヤの中から突き出したようになって、自分の方を見ている。これはなんだ? ここは、僕の家か? 僕は慌てて周りを見渡そうとした。
「動かないでもらおうか」
突如、正面から声がした。体がビクンと跳ねて、急速に凝固した。冷や汗が頬をたれていくのを感じた。僕は、ゴクリと唾を飲んで目だけを動かし声がした方を見た。
「そんなに緊張せんでも良い。とって食ったりはせんよ」
モヤの中、謎のオブジェの横から白い髭をたくわえ白いローブを着た、八十歳ぐらいの老人が現れた。良かった、一瞬'あの顔'が喋ったのかと思った。僕はほっと息をつくと、体を老人の方へ向けた。
「聞きたいことは色々あると思うが、まず私から一つ問わせてもらう。お主の名前はなんじゃ?」
「名前?」
僕は少し戸惑ったが、すぐに自分の名前を伝えた。相手は僕の名前を聞くと満足したように頷いた。
「お主には第二の生が与えられた。ここは剣と魔法の国ルテン。お主には魔法の才がある。それを生かすも殺すも自由じゃ、好きなように生きるが良い」
老人はそれだけ言うと部屋の外に出て行ってしまった。もうモヤは晴れていた。部屋には先ほどのオブジェと、至る所に書かれた英語のような文字のほかは何もなかった。僕も老人を追って急いで外に出た。
老人は正面の門から出て行くところだった。
「待ってください。僕、まだ何も聞いていません!」
大声でそう言うと、老人は僕を一瞥し、門にいた守衛に何やら指示を出した。
「ここへ来た者は不思議と何をするべきかわかっていると言うが、どうやら君はそれを忘れてしまっているらしい」
老人は守衛から茶色の包みを受け取るとそれをそのまま僕に渡した。
「ここには簡単な説明と、少しのお金、食糧が入っている。支給するのはこれだけじゃ。そして、これから先私らは一切関与しない」
僕が包みを開くと、中には五枚の銀貨と、パンとリンゴがそれぞれ一つ、砂漠で使うような皮製の水筒と、あとは古びた本が入っているだけだった。何だか異世界転生にしては拍子抜けする始まり方で、僕は守衛に声をかけられるまで、曲がりくねった坂を上っていく老人の姿を、ぼんやりと眺めていた。何か喋りたいことがあった気がするが、それを思い出すのが面倒だった。徐々に暗くなりつつある空に、同じくらいまん丸で、同じくらい赤い二つの夕日が出ていた。それはゆっくり溶け出すように、二つが一つに重なって沈んでいった。僕の異世界ライフがついに、始まったのだ。
二、
ひどい。ひどすぎる。この異世界はどうなっているんだ。いきなり殺人犯に出会ったり魔王城から始められたりはしないものの、悪くない最低限をギリギリまで考え抜いて作られているような気がする。これを仕組んだ奴がいるなら本当に悪趣味だ。僕は狭い部屋の小汚いベッドに座り、ベッドに並べた袋の内容物を睨みつけた。どうしろというんだ。与えられた本は旅行雑誌レベルの情報しか書かれていないし、手持ちのお金は少ないし、魔法は使えないどころか教えてくれる人もいない。試しに街の人に聞いてみようと思ったが、顔を見るなりそそくさと逃げていってしまう。駅にいるティッシュ配りの人の気持ちがわかったよ。毎回無視して通り抜けていたが、今度からは多少急いでいても受け取ろうと心に決めた。今度があるかわからんが。
とりあえず宿に泊まって、明日どうするのか考えることに決めたが、宿代は二銀貨も消費した。ほんとうに先が思いやられる。これほど操作説明と次の目的アイコンが欲しくなった事はない。
「せめて、魔王でもいてくれたら……」
僕はそう呟いて、本をもう一度眺める。「この世界に魔王というものはおらず、それに似たものもない。魔物はいるが、防衛塔の許可なくそれを討伐・育成することは禁じられている……。」
平和だ! とても平和! 他にもおすすめ観光地や、お土産品などがたくさん載っている。極めつけは「犯罪者のいない、聖なる神の国ルテン!」
……良い街ではある。あるのだが、何か問題が起こってくれないと異世界ストーリーは進まないだろう。料理も落語も何もできない自分にとって現状を打開する術はないのだ。このままでは前の世界と同じフリーターになってしまう。
「強制イベントでも起こってくれないものか、」
ベッドに横になって、天井を見上げた。知らない天井だ。僕はその下でこうして存在している。自分は、何のために呼ばれたのだろう。異世界の夜は暗く、いやなことを考えてしまう。窓からさす月明かりだけを見るようにして、ドアの方はあまり見ないようにしたが、なにかが入ってくる気がして、なかなか寝付けなかった。強く瞼をつぶって、想像をするようにした。いつも夢見る異世界を。
僕は野原にいて、また仲間たちと一緒にいる。森を駆け、道を進み、順調にレベルを上げていく。装備を整え、いつものように魔王城へやってくる。入り口のホールにはあの勾玉のようなオブジェがあった。魔王城の中は暗く、薄い灯りしか存在しない。
「怖いのか?」
いきなり声がした。誰かが僕に話しかけたのだ。見渡すと、周りの仲間たちの顔にモヤがかかっている。
「何を怖がっている」
僕はこの声の主を何となくわかっていた。僕はそいつの方を見た。するとやはり、唯一モヤのかかっていなかった魔王、その口が動いていた。
「せっかく異世界にきたんだぞ?」
魔王は笑う。
「これじゃ前の生活と同じじゃないか」
周りのロウソクに順番に火が点っていく。レッドカーペットが敷かれていて、一番奥に魔王がいた。ここはどうやら玉座の間であろう。
「仕方ないって?」
魔王はニヤリとして、手元にあったドクロのステッキを触った。
「だがこれが現実だ。魔王などそうそういるものではない。かわいくて魔法を教えてくれるヒロインなどいない。暖かくて綺麗で明るい寝室などもってのほかだ」
でも、こんなあっさりなはずがない。それならそれで、何か理由があるはずだ。魔王がいないなら、僕を異世界に呼ぶ理由がない。
「そんなものいくらでもあるだろう」
魔王は僕が口を出す前にそう言った。
「お前がくたばっていく様を見て愉悦を感じたいとか、何かの実験をしているだとか。とするとこの後の展開は絶望しかなさそうだが」
そんなはずはない。そんな異世界などあるはずがない。
「それはわからないだろ? ニートやフリーターなどの引きこもり連中が英雄になる物語よりもよっぽどありえると思うが」
魔王は続ける。
「お前はこの世界で英雄になれるか?」
「見物だよ」
魔王はニヤリと笑った。
三、
目を覚ましてからすぐに、僕は顔を洗った。鏡の中では違う顔の男が映っている。顔が違うというのは慣れない。自分が自分でないような気がする。頬にはほくろがあり、鼻は高く、目は茶色い。だがいい顔だ。僕は髪をちょちょっといじってから、職を求めて街に出た。今日は何とかなりそうな気がする。持っていた銀貨は一枚で銅貨五〇枚に変換でき、パンは銅貨一〇枚、水は銅貨三枚で買うことができた。が、それでも数日しかもたないことは明白だった。とりあえず日銭を稼ぐことが目標だ。まず本に載っていたハローワーク神殿に向かうことにした。
ハローワーク神殿は神殿というよりも市役所に近いところだった。いくつもの窓口が立ち並び、人がせわしなく動いている。僕は待合室の椅子に座り、勝手に動く羽ペンが書いてくれた数字、86番がくるまで待っていた。
そのうち番号が呼ばれ、窓口に行くと、目付きの悪い男が僕を待っていた。テーブルの上では羽ペンがずっと回っている。人の手を借りず、くるくるくるくるとダンスのように。これは僕らの世界で言うところのペン回しと同じものだろうか。
「ええと、出口涼一さん? 書いてもらった経歴なんだが、」
男は前置きなく話し始め、一枚の紙を差し出した。これは待っているときに書かされた経歴の紙だ。魔法がかかっているかもしれないのでできるだけ正直に書いたつもりだったが、まずかっただろうか。
「これはふざけているのか?」
動く羽ペンが僕の書いた場所をつつく。その職歴の欄にはコンビニ店員と書かれている。アルバイトを職だと名乗って良いのかわからなかったが、とりあえず白紙よりはいいだろうと出した結果だ。嘘はついていない……はず。
「何ですかこの”こんびに”というものは。ふざけないでもらおうか」
あぁそうか、異世界にはコンビニはないよな。
僕は、ようやく遭遇した異世界らしさに安堵した。
「いやあ、簡単に言うといろんなものを売るお店でして」
男は僕を訝しげに見つめる。
「なんだそれは。聞いたことがないぞ。どこにあるものなんだ、その”こんびに”というものは」
「どこといわれましても、こことは違う、」
世界——そう僕が言った瞬間、男の顔が明らかに曇った。
「……もしかしてお前は異世界人か、」
しまった、と思った。今度は明らかにこれから怒るときの声をしていた。不当な労働を受けさせられるかもしれない。僕は何か誤魔化す言葉を探した。だがそれは違った。
「悪いが、異世界人に頼む仕事はない。おとなしく隠居でもしててくれないか」
僕が黙っていると、そう言って男は席を立つ動作をした。とっさに、僕は男の腕を掴んだ。
「待ってください。なぜ異世界人ではダメなのですか」
「手を離せ」
男はすぐにそう言い放った。だがここを逃せば、話す機会はない。僕のこれからの生活もかかっている。離す訳にはいかない。
「手を離せと言っている」
男の目がギロリと睨んだ。恐ろしい目だった。
「いやだ。僕は知りたいんだ。誰も何も教えてくれない。それならどうして僕はここへ呼ばれたんだ!?」
僕は男の腕をより一層強く握る。俯いた男の周りからパキパキと音がして、あたりの温度が下がっていく。そして、空気中に氷の刃のようなものが生成された。氷の刃は僕を囲むように構えている。
「最後にもう一度だけ言う、……薄汚い手を離せ異世界人」
目が赤く光り、口から白い冷気を吐いた。周りの視線も、一斉にこちらを向いた。人々の目は、どれも鋭く僕を見ていた。僕は、僕は……。主人公だったら、決して手を離さず、立ち向かって行くんだろう。でも、これは現実で、ここにいるのは僕だ。氷の刃は先が尖っていて、電動ドリルのように回転しながら僕の方にやってくるのだ。仕方ないじゃないか、手を離しても。誰だって死にたくはない。僕は逃げ帰ってきたのだ。僕はピンチでも結局、魔法は使えなかった。一人歩く道の途中、横目でみえる街の中には魔法が溢れていて、それがどこか幻のようだった。火を吹く芸人、水を操る魚売り、空飛ぶほうきの宅配員。まるでそれが夢のようにぼんやりと白く見えている。僕は何度も立ち止まった。立ち止まった地面が濡れて黒くなっていくのが見えた。どうして僕には魔法が使えない。どうして僕にはこの仕打ちだ。どうしてだ。異世界だぞ。おかしいじゃないか、あんまりじゃないか。
僕は行くあてもなくなって、人のいない方にとぼとぼ歩いていった。お金は残り銀貨二枚と銅貨三十七枚、パンの残りが少しと水筒に水が少し。もうほとんど生きられないだろう。
墓場や裏路地、悪い仕事がありそうなところを回って行ったが、ガラの悪い人間一人居なかった。みな僕を見ると、足早に去っていく。別に声をかけようとも思っていないのに。異世界人は、それほど奇異なものなのだろうか。恐れるものなのだろうか。僕にはその感覚がわからなかった。壁にテルモスと書かれた古びた建物の横を進み、石の階段を登ると、大きく開けた道になった。
シュジョムへーセイカンドー
ボーノームへーセイカンダンー
遠くから、子どもの歌う声が聞こえてくる。まるで聖歌のようだ。聖歌というものを直で聞いたことはないが、そう感じる。歌詞が、ではない。歌声が、優しく包みこむような……、
「神の国ルテン……」
そうだった。僕は大事なことを忘れていた。ここは宗教の国だった。住民は宗教に基づいて生活をし、宗教に基づいた思想をしているはずだ。異世界人が避けられる理由は、そこにあるのかもしれない。僕は本を開き、教会の場所を確認した。ここから近いところに一つある。というか見えていた。自分の正面の坂の上に、一つのトンガリ頭の建物がある。白を基調として、黄色のガラス窓が付いている、シンプルな建物だ。大きく突き出た屋根のひさしの部分には、黒と白の陰陽のような奇妙なマークが付いている。初めにいた部屋にあったものと同じものだ。近づくと建物の大きさが意外に大きくて、所々に小さな陰陽マークがついていた。この宗教が崇めるものだろうか。僕は恐る恐る扉を開けると、中からは先ほどの聖歌が大きくなって聞こえてきた。
シュジョムへーセイカンドー
ボーノームへーセイカンダンー
教会の中は一本道で、左右にステージがあって聖歌隊はそこで歌を歌っていた。大きさは室内の市民プールぐらいの大きさで、天井は灯りがいくつか吊るされていた。
「お待ちしておりました。異世界の民よ」
ホールを進んでいくと、その先にいた神父らしき男性がそう言った。
「あなたは僕を怖がらないんですか?」
僕がそう訊くと、牧師は大きく頷いた。
「あなたはすでに神によって、許された存在でありますから。神が許しを与えているのに、どうして私が許さないことがありましょうか」
神父はニッコリと微笑んだ。僕は訝しげに彼を見つめた。
「許されている?」
「いかにも。あなたの罪は許されたのです」
「異世界転生は罪なんですか?」
「いいえ?」
僕は訳がわからなかった。
「あなたには新たに神の加護をうける権利がある」
「ちょ、ちょっと待ってください。どういうことなんですか、最初から話してください」
僕が神父に詰め寄ると、彼は顎に手を当て、少し考えてから、いいでしょうと言った。そしてゆっくりと話し始めてくれた。
四、
曲くねった道を進み、坂を降りていく、道なりに進むと、灯りが点いている建物がある。もうすっかり暗くなって、そこだけがくっきりと映し出されている。僕は明かりに引き寄せられる虫のように、迷いなく走っていく。するとそこにはもう随分懐かしい、はじまりの建物があった。
門のところに人はおらず、硬く閉ざされていたが、僕は関係なくその門を登る。門を乗り越え、明かりのついている部屋を探す。どの部屋もあの謎のオブジェがあって、英語のような文字でいっぱいだった。後ろの方に、あの時見えなかった、薄汚れた和式のトイレが置いてあるのが見えた。僕は疑惑を確信に変え、明かりのある部屋へと急いだ。
急げ急げ急げ。別に時間制限があるわけでもないが、僕は走っていた。音よりも速く、光よりも速く走った。廊下が後ろに流れていく。自分の速度で顔に風が当たる。それがとても気持ちが良かった。
そしてようやく思い出した、僕は子どもの頃、スポーツ選手になりたかったんだ。息を切らして走る陸上選手に憧れた。誰よりも速く。綺麗に走りたかった。僕はどうして諦めたんだろう。光の先には本当にゴールテープがあると思ったんだ。だけど、実際には白いローブを着た八十歳ぐらいの老人が立っていた。
「来てしまったか」
老人はふっと息をついた。
「お主の名前は?」
同じように問いを投げ、こちらを見た。僕は、まだキレキレになっている息を整え、ニッコリと笑った。体が軽かった。
「僕は出口涼一、こいつはサリエリだ」
そう言って親指を自分の胸に指した。老人はそうか、と言って俯いた。
「君にはわからんだろうが、魔法は、危険なんだ。何でもできてしまうんじゃ。想像することは大体なんだってできる」
「ええ聞きました」
僕は答えた。
「お前のその身体の持ち主は、幻惑の魔法を操り、人の頭を精神支配することができた。それにより何人もの人々を操り犯罪行為を繰り返した大犯罪者だ。どうせ、君にいろいろ教えた人間も操られていたんだろう」
老人は続ける。
「そんなやつの犯罪を止めるにはどうすれば良いと思う?」
「そいつを殺す」
僕はすぐさま答えた。
「殺せないんじゃよ。ここの教えでな。いかなる理由があっても殺すことはできない」
「だから僕を使ったのか」
「僕でデータの上書きをしたってわけだ、すごい発想だ」
僕は大袈裟に手を叩くアクションをしてみせる。
「仕方なかったんじゃ、奴は全ての国民にタネを撒いている可能性があった」
「彼の魔法は何かをトリガーにして起こるものだったんだが、それが何なのかがわからなかった。彼には常に国を滅ぼす恐れがあった。彼がその能力を行使すれば、国は一瞬で彼のものになるということがわかっていた」
「誰だって、いつ裏切られるかわからない人間を手元には置いておけない」
老人は僕の顔を見た。
「君には悪い立ち回りをさせた」
「同情は結構、僕はもう帰る。やっぱり自分の家が一番だ」
僕は扉の向こうに入ろうとする。が、それを老人が制止した。
「残念だがこの牢屋には入れることはできない。君がいなくなればまた奴は出てくるだろう。そんなことはさせない」
老人はローブの中から棒を取り出し、それをコツンと僕の頭に当てた。痛くはない……、が、僕の意識は遠く遠くに流されていって、そのうちブツっと切れてしまった。周りが真っ白な状態になった中で、魔王の笑い声だけが聞こえていた。
エピローグ
目が覚めるとそこは元の、小汚い小さなアパートの一室だった。枕元には「デルトラ・クエスト」が置かれていて、何ページ目かが折れ曲がっていた。体が随分重くて、目元を触るとそこから目やにが落ちた。
夢だったのか……? そう思いながら僕は顔を洗いに洗面台に向かった。鏡には、知らない男の顔が写っていた。