9話 一章 やっぱり、まさかの元魔術師ヤローでした
思い返せば、大抵の人は彼を「アシュベルト」と少し敬意を払った呼び方をしていた。普段から『魔術師野郎』呼びだったノエルは、ロックフォレスという名前を思い出すのに時間がかかったのだ。
かわす方法も思い付かないまま、強く動揺して更に一歩後退した。どうしよう、やばい、こいつ確実にあの魔術師野郎かも――と思った時、後退した分距離を近づけてきたフィリウスが、クッと自嘲気味な笑みを浮かべた。
「やはりな。お前のことだから、すぐに思い出せないくらい、俺の名前なんてろくに覚えていなかったんだろう?」
口許に冷ややかな笑みを浮かべて、そう言う。その口調は「私」から「俺」へと変わっていて、改めてそうやって声を聞くと『まんまあの魔術師野郎』を大人にしたものだった。
恐らくは、俺口調が本来の言い方なのだろう。ノエルはそう察しながらも、確実に前世での関係を気付かれているこの状況を、どうにか誤魔化せないだろうかと必死に考えた。
そうしている間にも、フィリウスがどんどん距離を縮めてきた。彼が向かってくる分だけ後退してしまい、気付くと後ろにあったベッドも通り過ぎて壁に追い詰められていた。
なんたる失態、ノエルは慌てて扉までの距離を目算した。
だが、目の前まで来たフィリウスを見上げた途端、彼の背丈の大きさを実感して逃げきれる自信がなくなった。眼力だけではなく、彼が全身から発している威圧感に足が震えそうになる。
それでも、まだ猶予があるはずだと自分を奮い立たせて声を掛けた。
「えぇと、その、師団長さん? あなたが何をおっしゃられているのか、あの、ぇと、僕にはちっとも分からないといいますか――」
「しらを切る気か? バリー」
はいアウトっ! それ、僕の前世での偽名だよね!
ノエルは心の中で泣いた。やはりフィリウスは、あの魔術師野郎本人で間違いない。しかも自分と同じように、彼の方も前世の記憶を正確に持っているようだ。
今と違って、ノエルは前世では、かなり女性っぽい名前だった。普段から男の格好をしている自分には似合わない綺麗な響きをした名で、それならとバリーという偽名を使っていたのだ。
別世界の知り合い者と、二度目の世界で再会するなんて奇跡あっていいの?
というか、よりによって、その相手がなんでこいつなんだよ……。
そう考えていると、影が落ちてきてノエルはハッとした。フィリウスが両腕を壁に付いて、真っ直ぐ睨見下ろしてきた。
退路を断たれた!? まずいッ、これって報復決定じゃね!?
「お、おおお落ち着いてください師団長さん! あのですねっ、そのッ、僕はどこぞのへっぽこ魔術師野郎なんてこれっぽちも知らな――」
「『魔術師野郎』なんて堂々と呼んでいたのは、お前くらいのものだが?」
「うげッ、そうだった……!」
なんて馬鹿なことを、とノエルは咄嗟に口を塞いだが遅かった。彼の口許に浮かぶ冷酷な笑みに、自分がバリー本人であると確信を抱かせてしまったと知って、ゾッとする。
張り詰めた室内の空気が重々しい。嫌な汗が止まらない。
ここはもう謝り倒すしかないと思った。とにかく打開策が思い付くまで時間稼ぎのように謝罪して、あわよくば少しでも彼が落ち着いてくれるのを期待した。
「す、すみませんでした。あの頃はちょっとやんちゃが過ぎていたというか、僕もまだまだ若くて負けず嫌いなところもあったし。というか、あんたしつこくて嫌な野郎全開だったから、僕の方もつい調子に乗っちゃったと言いますか」
ノエルは、近い距離から覗き込んでくるフィリウスの顔をよけるように、首をすくめてそう言った。けれど彼は、謝罪すら疑うように至近距離から強く睨み付けてくる。
生まれ変わってまでこんなとか、しつこすぎるにもほどがある。どれだけ執念深い野郎なんだよ……!
思わずそんな独白が脳裏をよぎったものの、とうとう鼻先が触れそうな近さになったノエルは、本能的な危機感に「ひぇぇ」と震え上がった。
「ああああのですね、記憶を持っているってだけで、僕等は今、あの頃とは全く違う人間じゃないですか? 僕はもう『ノエル・バラン』だし、あなたは、えぇと、なんだったけ……そうッ、『第一師団長さん』! ほら、もう前世の因縁とか、今世では関係ないように思えませんか? 全然関係ないでしょ? よし、ならこれで解決しましょう! 僕だって今はすごく反省してますし、ノエル・バランとしてはあなたに迷惑はかけてないですもんね!?」
そう早口で言葉を紡いだ。
「――…………確かに、俺は今『フィリウス・ラインドフォード』という男で、今は魔術も使えないただの軍人だ」
するとフィリウスが、生まれ変わった事実については認めるよう、そう呟いた。しかし、その表情が変わらないことにノエルは安堵出来ずにいた。
不意に、彼が近い距離から覗き込んだまま、フッと自嘲気味に笑った。
「だが生憎、俺はこの記憶に悩まされない日はなかった。忌々しいほどに頭の中で『忘れるな』と繰り返されるロックフォレスの言葉と過去が、まるで悪夢のようにつきまとってきて狂いそうだった」
「狂うって、そこまで!? あ、いや、その、すすすみませんごめんなさい。それってやっぱり僕が原因ですか」
魔術師野郎との付き合いは、せいぜい旅の間の一年ほどだった。
だからまさか、そこまで怨まれているとは知らなくて驚愕した。ノエルとしては、しつこい野郎だな、生まれ変わったんだから忘れろよ、とも思ってしまう。
とはいえ、直球で言うわけにもいかず、言葉を選んでこう言った。
「えぇと、人間好き嫌いは当然あるかと思いますけど、嫌いだからって今世まで恨み言を持ってくるとか、ちょっとしつこいと思いませんか。むしろ『今の俺には関係ない』『迷惑だ』と切り捨ててやればいいんですよッ。そうすれば人生はもっと明るくなると思いません!?」
前世に何も未練がない、と言えば嘘になる。
ノエルにだって師匠と呼べる人もいて、友人がいて、仲間がいて、そうやって沢山の人と知り合えた。それでも、戻れない時ではなく前を向こうと決めて、前世でも生きてきた。
「――あの日、勇者と共に陛下に祝われた式典で」
不意にフィリウスが、ふと遠い目をして独り言のように言った。
「古い記憶のまま、お前が群衆の中にいるのを見た時は驚いた。最初は他人の空似かと思ったが、ここにいるお前を改めて見に来てみたら、仕草も失礼な物言いもそのままで本人だとすぐに分かった」
え、あの沢山人がいた中で、僕がいるのに気付いたの?
ノエルは茫然とした直後、その事実に遅れて脅威を覚えた。そこまで怨んでるのかという推測に至った途端『斬られる』という想像が浮かんで、ガタガタしながら慌てて言った。
「すいませんでしたマジで謝りますから、どうかその殺気を抑えてくれませんか。心臓にものすごく悪いんですよッ」
「何せ、かなり久しい再会だ。女の身で軍に潜り込むなんて、あの世界でもあった討伐隊の時と何一つ変わらないんだなとも、感慨深く思ったが」
そう言い返されたノエルは、またしてもアウトな指摘が聞こえて気がして「ん?」と首を捻った。あの世界でも、ということは『バリーが女』だってバレてるの?
気付く気配も全く微塵にもなかったヘタレの魔術師野郎が、性別を知ってる? しかも今も自分が、ただ男の格好をしているだけの女の子だって見破られているということで……。
そう数秒ほど考えたところで、ノエルは頭の整理が追い付かないと感じて、小さく頭を振った。
「うん、おかしいな、僕の耳が変になったのかも。――すみません、なのでちょっと出直して頭を冷やしてきてもいいですか?」
そう言った直後、浮遊感に襲われて「うわッ」と色気のない声を上げてしまった。
フィリウスが抱き上げてきたかと思ったら、ノエルはベッドの上に放り投げられていた。背中に走る鈍い衝撃も引かぬうちに、彼が「逃がすかよ」と言って動きを封じるように組み敷いてきた。
「言い訳なら聞いてやる。今すぐ服を剥いて確認されるか、素直に白状するか選ばせてやろう」
「め、めめめめめ滅相もございません喋ります!」
これ、逃走不可なやつだと察して、ノエルは全力でそう答えたのだった。