14話 二章 二人の話×嫌いだったのは知ってました
食堂から場所を移動し、連れて来られたのは第一師団の執務室だった。上質なカーペットの敷かれた広い室内には、三人の二十代の事務官が所定の席についており、それぞれの机に大量に積まれている書類を前に黙々と仕事を進めている。
室内にはペンが紙の上を滑っていく音と、印鑑を押す音だけがあった。
そんな中、ノエルは応接用のソファに腰かけていた。なんと書かれているのかも分からない大きな印鑑を持ち、積み上げられた用紙の所定位置に、ただひたすら印鑑を押し続けている。
ぺったん、ぺったんと不慣れな調子で出る音が虚しい。
そもそも自分は、なんでこんなことをしているのか?
ここは、第一棟の回廊を渡った先の、王宮側にあるフィリウスの師団の執務室だ。そこには執事服姿の高齢の男もいて、フィリウスは入室した際に「執事のセイムスだ」とだけ簡単に紹介した。
待って待って、この部屋は執事がいるの? 隊長クラスになると専属の執事が付くのだろうか、それとも彼が自分で連れてきた執事さん……?
そうノエルが驚いている間にも、セイムスは孫を見るような暖かい目で微笑んで、彼女を応接席のソファに座らせ、無駄のない動きで甘い紅茶と菓子を用意した。朝食をたんまり食べたからと断ったのに、テーブルには苺ジャムのスコーンとバタークッキーまで並んだ。
おかしい。そもそも身の周りの世話をすることこそ、雑用係りの仕事ではないのだろうか。そう思いつつもノエルは、自分を落ち着けるべく紅茶を飲み、菓子を口にしていた。
菓子は、これまでに食べたことがないくらいに美味しかった。一体いくらする菓子なのだろうかと気になったものの、それ以上に謎なのは与えられているこの作業だ。
フィリウスには、ただ押していけばいいと言われた。
でも、そもそもこの書類、僕が印鑑押して大丈夫なものなのか?
ディークやトーマスと違って、ノエルはあまり書類業務には関わったことがない。この『雑用係り』には、こういう手伝いはさせないんじゃなかったっけと疑問ばかりが込み上げている。事務官達は時々視線を向けてくるものの、あまり疑問は抱いていない様子で書類へと目を戻していく。
自身の書斎席についてから、フィリウスは一言も発さず書類作業にあたっている。おかげでセイムスが下がってからというもの、マッケイの師団と違い過ぎる空気が重々しい。
その時、書類の山が半分になったところで、三人の事務官が立ち上がった。彼らは上司であるフィリウスの前に行くと、小さな声で手短に業務の進行具合を報告する。
「それでは、一旦休憩にいってまいります」
三人の男達が、そう告げて彼に丁寧に頭を下げた。
え、出て行っちゃうの。二人きりにさせられたらますます空気が重く……と考えてノエルはバッと目を向ける。すると丸い眼鏡をかけた青年が、ソファの横で立ち止まって見つめ返してきた。
「君、緑の騎士の子だよね?」
「えっ、あ、はい。そうですが……」
「午後に二人入るって聞いていたけど、時間が早まったの?」
歩みを止めた彼に合わせて、他の二人の事務官も足を止めてこちらを見てきた。三人の事務官の目に刺々しさはなく、どちらかと言えば親切心や好意的な好奇心があった。
ノエルは、自分がここにくるまでの経緯について考えた。説明もないままここに連れて来られたのを思い返すと、やっぱり返答に困ってもごもごと言葉を紡ぐ。
「えぇと、午後に来るのは別の二人なんです。僕はその、なんというか部屋を吹き飛ばした一件がありまして、多分それで、雑用助っ人的に連れて来られたのかと……?」
「ああ、君が話題の『二班のリーダー君』なんだね。確か一週間だっけ? まぁウチの上司は厳しいけど、頑張って」
男は理解したように頷くと、「また後でね」と言って他の同僚達と部屋を出て行った。
二人きりになった途端、室内がやけに広く感じた。話題のリーダー君ってなんなの、という質問も間に合わなかったノエルは、しん、と目立った静けさに居心地が悪くなる。
何もしていないよりましだと印鑑を押す作業を再開していると、不意に声を掛けられた。
「ノエル、とは本名なのか」
顔を上げて目を向けてみると、書斎席からこちらをじっと見ているフィリウスがいた。
前世ではバリーという疑問を名乗っていたので、今更のように疑われていのかもしれない。そう思って、ノエルはきょとんとしつつ「本名ですよ」と答えた。
「ここでは偽名は一切使ってません。前の世界と同じで、戦争孤児で親の顔や名前は分からなくて、でもこの世界では必須だったので名字だけは自分で適当に付けました」
「生まれ変わったことに、戸惑いはなかったのか」
「いえ、とくには何も。僕にとってはやり直しというか、どこか延長線みたいな感じで、前の記憶を持っていたからこそ気楽にやってこれた部分もあります」
前の人生の終わりは、痛みも苦しみもなかった。
目の前が真っ暗になっていたのは、ほんの一瞬ほど。気付くと『ノエル』として魔法のない世界に生まれ変わっていて、性別も顔も全く同じだったから抵抗もなかった。
「…………俺は、ロックフォレスとして三十年余りを生きた」
こちらを見据えていたフィリウスが、思案顔で組んだ手に口をあててそう言った。
「死んだと思った次に目を開け時、『フィリウス』として生を受けていて心底驚いた。――ただ、今となっては、前世の出来事も関わりのない話なのだろうとも思う。どの文献や地図を調べても、ロックフォレスという男が生きた世界はどこにも存在していなかった」
フィリウスは視線をそらしながら、独り言のように話を続ける。
「だが俺は、フィリウスであると同時に『ロックフォレス』でもある。俺にとって、二度目の人生は、まるで拷問のような延長線だった。だから、お前のようにやり直しだと楽観して受け止めることなんて出来なかった」
「え、拷問?」
ノエルは、フィリウスから打ち明けられた話に動揺してしまった。地獄、とはかなり穏やかではない感想言葉だ。彼は、こんなに後ろ向きに考えるような人間だっただろうか?
「えぇと、あの、切り替えも大事だと思いますけど……。もう終わったことなんだって、自分の中で区切りを付ければ簡単かと」
ぐずぐず考え続けても、終わってしまった過去を変えることだって出来ない。自分達はこの世界の『今』を生きているのであって……と考えたところで、ノエルはふと疑問を覚えた。
「ん? 人生が三十年余りって短くないですか? だってあの世界は、平和になったんですよね?」
「……政治に疎い王のせいで、小さないざこざはあったが革命も平和的に進んだな」
そう語るフィリウスの声には覇気がない。大きな問題はなかったらしいのに、彼はどこか思い詰めたように机の上を見ている。
じめじめとした雰囲気が漂い始めているように感じて、ノエルはその空気払拭するべく、わざと明るい調子の声を出して冗談を言った。
「魔術師野郎のことだから、性格の悪さで誰かに刺されたりとかでもしたんですか?」
「相変わらず失礼な奴だな。英雄の一人としての肩書きを贈られた魔術師を、殺そうと考える馬鹿な人間はいないぞ」
いつもの調子が戻ったかのように鋭い視線で睨まれてしまい、ノエルは身の危険を感じて反射的に「すみません」と即謝った。
あんたがらしくないから、わざと場を和ませようとしただけなんです、と軽口を返せるような空気ではない。前世では体術でも負かせた体力ヘタレな魔術師だったけれど、今世では絶対敵に回したくない上官だ。
とはいえ魔術師野郎は、確かに魔術の腕はかなりレベルが高かった。彼は膨大な魔力量を持っていたせいもあってか、体力はないが身体は恐ろしいほど頑丈だったのを覚えている。
上から目線の自信家で、貴族としてのプライドも持っていて魔術の腕も上位。
そんな男が戦争もなくなった後の人生で、三十数年で死去したというのも意外だった。爺になるまで偉そうに高笑いする姿を想像していただけに、ノエルは不思議に思ってしまう。
魔術師野郎は、いつだって一人偉そうにしていた。十分な装備も経験もない人間が出しゃばるべきではないと反対していて、前世のノエルは「身分や所属で戦えないって決めつけるとか馬鹿じゃないの!」とパーティーチームを代表して意見を曲げなかった。
そういえば、それもまた嫌われる要素だったな、とノエルは思い起こした。彼は自分の指示に従うべきだと説き、旅は意見決裂という最悪な出だしから始まったのだった。
「ロックフォレスは、お前が嫌いだった」
唐突に、フィリウスがそう打ち明けてきた。
旅の始まりを振り返っていたノエルは、自分が回想に耽っていたと気付いて、ふっと目を戻した。
「知ってますよ、そんなこと」
こちらを見据えている彼の視線を受け止め、ただただ落ち着いた表情で答えた。