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向日葵が聴こえる

作者: 村崎羯諦

 弟は生まれつき耳が聴こえなかった。だけど、そのことと、僕がこの場所で歌い続けていることとの間に、一体どういう関係があるのか。僕は未だにその答えを見つけられずにいる。


 いつもと同じ時間、いつもと同じ店のシャッターの前で、僕は黙々と路上ライブの準備を進める。吐く息は白く、手袋越しにもマイクスタンドの金属の冷たさが伝わってくる。ボディに細かい傷がついたアコースティックギターを取り出し、ペグを締めてチューニングする。顔を上げると、水銀灯の淡い青の光の向こうに、藍がかった夜空が広がっている。帰路を急ぐ人々が寒さに背中を丸め、足早に僕の目の間を横切っていく。目をつぶって、まぶたの裏に浮かぶ光の名残を一つ一つ数えてみる。全部で三つの光は、数えているうちに少しづつ小さくなり、姿を消す。僕は深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺の中に満ち、身体がかすかに震える。ギターのネックを握りしめる力を強める。ゆっくりと息を吐き出し、僕は最初のコードをかき鳴らした。


 弟の聴覚障害が発覚したのは、庭の向日葵が憎らしいほどに咲きほこったある夏の日だった。病院から帰ってきた母親と父親の表情は暗く、父親に抱きかかえられた三歳の弟だけが嬉しそうに顔をほころばせていた。お帰りなさい。僕がそう言おうとしたその時、母親は右手に持っていたカバンを壁に投げつけ、大声で奇声をあげた。そのまま狂ったようにテーブルに置いてあった写真立てをなぎ払い、タンスの引き出しを片っ端から引きずり出してはそれらを床に叩きつけていった。僕とお父さんは母親を止めることもできず、ただただ黙って見守ることしかできなかった。母親はひとしきり暴れた後、手で顔を覆いながらその場に崩れ落ちた。外から聞こえてくる蝉の鳴き声に混じって、しゃっくりのような母親のすすり泣きが部屋にこだましていた。それから母親はぽつりと、「産まなきゃよかった」とつぶやく。胸がざわつき、僕は弟の方へと目を向けた。目が合った弟がにこりと笑ってみせる。弟は母親のそんな言葉でさえ聞くことができないという事実を知ったのは、それから数時間経ってからだった。


 かじかむ手でギターの弦をかき鳴らす。お世辞にも上手いとは言えない歌声が夜の街に溶けていき形を失っていく。歌声に混じる白い息が夜空に吸い込まれていく。寒さで手の感覚がなくなっていく。指がもつれて、一瞬だけコードを間違えてしまう。それでも手の動きは止まらなかった。何度も何度も繰り返して弾いた曲は身体と指先に刻み込まれていた。いつもと同じように、立ち止まって歌を聞いてくれる人は一人も居ない。ちらりと一瞥したかと思えば、不愉快そうに眉をひそめるだけ。やりきれない気持ちををごまかすために、少しだけ声のボリュームを上げる。喉に刺すような痛みが走る。声帯を擦り減らすように叫ぶ歌の上に、アコースティックギターの繊細でシャープな音色が覆いかぶさっていく。


 なんでそんなこともできないの。母親は弟によくそう言っていた。その時の母親は決まってニコリと微笑んでいた。自分の底知れぬ苛立ちを隠そうとしていたからなのか、歪んだ悪意がそうさせていたからなのか、それはもうわからない。耳が聞こえない弟は母親の優しい表情だけを見て、優しい微笑みを返していた。幸せものだな。僕はそんな弟の表情を見てそう感じた。可哀想だからという理由で、母親は弟を普通の子と同じように育てようと必死に動き回っていた。色んな学校を回って、色んな病院を回って、結局何の成果を得られずに帰宅する。それでも母親は諦められなかった。自分の部屋で声を押し殺して泣いていたと思えば、次の日にはまたどこから聞いたのかわからない場所へと飛んでいく。自傷行動とも思える母親の行動を見ていたからこそ、僕は一層悲しかった。母親がそのように言葉をこぼしてしまうことが。弟が、その母親の真意を知ることができず、残酷に笑ってみせることが。


 一曲目が終わり、少しだけ手を休める。右手を見てみると、指先が寒さで赤くなっているのがわかった。遠くから若い男女のはしゃぎ声が聞こえる。居酒屋帰りのサラリーマンのふざけた喋り声が聞こえる。冬の風が商店街を吹き抜けていき、僕の目の前を誰かが捨てたビニール袋が飛ばされていった。夜がふけるにつれ、人通りは少なくなっていく。ぐっと足に力を入れないと、この街の冷えきった底へと引き釣りこまれそうになる気がした。僕はズボンの上から太ももの肉をつねる。自分がここにいることを確かめるため。自分を痛めつけるため。


 誰にも言うことはできなかったけれど、僕は弟のことが大嫌いだった。弟の聴覚障害が発覚してから家庭の雰囲気は明らかに悪くなったし、母親の苛立ちが自分に向けられることもあった。だけど、ひどいことを言われても、ひどい仕打ちを受けても、いつもへらへらと笑ってみせる弟を見る度に、そんな自分の苦しみがとても小さくてくだらないもののような気がしてならなかった。僕がギターを始めたのは、決して晴れないもやもやをごまかすためだったのかもしれない。僕が部屋で一人ギターを弾いていると、不思議と弟はそのことを察知して、僕の部屋に勝手に入ってきた。弟はそのまま目の前に腰掛け、目を輝かせながら僕の指先をじっと見つめてくる。一曲弾き終えたタイミングで僕が、なにか弾いてほしい曲があるかと手話で尋ねると、弟は決まって、向日葵の歌を歌ってほしいとリクエストしてきた。向日葵をテーマにした歌なんて知らなかったから、僕はいつも適当に自分の好きな曲を演奏した。それでも弟は嬉しそうに目を細め、一生懸命両手で手拍子をした。そのテンポのずれた、めちゃくちゃな手拍子が、今も僕の耳の奥にこびりついて離れない。


 二曲目を歌い終え、三曲目を歌う。ビデオの早送りをしているように時間が流れ、最後の曲を残すだけとなる。身体が熱くなってきたので、ガウンを脱ぎ捨てる。ちょうどそのタイミングで木枯らしが吹きすさび、ぞくりと快感に似た震えが身体を駆け上がっていく。大丈夫。両腕を手で擦りながら、自分ではない誰かに語りかけるようにつぶやいた。後悔があるとすれば、心残りがあるとすれば、それは多分、弟に向日葵の歌を歌ってあげられなかったこと。それをトラウマだとか、呪いだとかって思えれば楽になれるのかもしれない。でも、それは違う。たとえそれが事実だとしても、それは違うと僕は信じたい。左手でギターの弦を押さえる。視界の端っこで、一人の女性が立ち止まるのが見えた。僕は息を深く吸い込み、最後の曲を弾き始める。


 弟は去年の夏に肺炎で亡くなった。葬式会場で母親は、弟の聴覚障害が発覚したあの日と同じくらいに乱れに乱れた。髪をかきむしり、親戚に後ろから身体を押さえられながら、獣のように泣き叫んでいた。やがて疲れ果て、よろけるようにして弟の遺体が納められた棺へと寄りかかり、「馬鹿なお母さんでごめんなさい」とかすれるような声でつぶやいた。それはずるいよ。僕は喉元まででかかった言葉をぐっと飲み込み、母親の震える背中をさすった。僕は顔をあげる。満面の笑顔を浮かべた弟の写真の周りを、弟の大好きな向日葵の花が囲んでいた。


 静まり返った商店街に乾いた拍手が響く。僕はたった一人の観客に頭を下げ、ギターストラップを肩から外した。どうでした。世間話のつもりで何気なく彼女に尋ねてみる。彼女は戸惑いながらも、酔で少しだけ火照った頬をほころばせながら言う。


「もちろん悪くはなかったですけど……正直、あなたよりも歌が上手い人は他にも沢山いるって感じだし、それになによりも」


 少しだけ間を開けた後、彼女は少しだけ呆れたような口調で言葉を続けた。


「こんな真冬に向日葵の歌って、季節外れも良いところじゃないですか?」


 その通りですね。僕は可笑しくなって、忍び笑いを漏らす。マイクスタンドを折りたたみ、地面に脱ぎ捨てた上着を拾い上げる。ギターケースを開け、使い古され、所々穴の空いたクッションの上に自分のギターを横たえる。


「でも、一人くらい……一人くらいは、こういう町の隅っこで、季節外れの歌を歌ってる人がいても良いと思いますよ」


 そう言うと女性客はこちらに背を向け、そのまま立ち去っていく。僕は彼女の背中を見送りながら上着を羽織り、その上からギターケースを背負った。ポケットに入れていた手袋を両手にはめ、無地のマフラーを首に巻く。身体を揺り動かし、疲労のせいで重たく感じる背中のギターケースの位置をずらす。イヤホンを耳にはめ、昔から聞いているお気に入りのミュージシャンのアルバムを再生する。きっとまた来週のこの時間、同じ場所で、僕は歌うだろう。それがいつまで、そして何のためなのかはわからないままだけれど。ふと上を見上げると、水銀灯の一つが明滅し、切れかかっているのに気がつく。夜空の色は濃さをまし、星の瞬きが少しだけ良く見えるようになっていた。そして耳を澄ませばかすかに、夜空へと吸い込まれていった向日葵の歌が聴こえるような気がした。

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