気まずい朝食
「本当にそれで収まると思っていますか? いくらなんでも手回しがよすぎるでしょう。あの無能の王太子にしては上出来すぎるくらいです。今大使館に戻ろうとすれば襲撃されるかもしれませんよ」
「襲撃してくれるならむしろやりやすいぐらいだ。お前のように裏でゴチャゴチャされるよりはよっぽど対処のしがいがある」
「グラツィア様の身に危険が及ぶのは反対ですね」
「ここに置いとく方が危険だと何度言えば分かる? 嫁入り前の王女だぞ、一晩行方不明となったら取り返しがつかん! 俺の首が飛ぶだけじゃ済まされんのだぞ!」
「そのときは私が責任を取る――と言ったらどうします?」
私はドキリとした。この場合の責任を取るとは、嫁にもらう、という意味でいいのだろうか。それとも、もっと政治的な意味での責任なのだろうか。
「ふざけるなよクソ野郎、貴様にやるぐらいなら地獄に落ちたほうがマシだ!」
お兄様は今にも爆発しそうな勢いで怒鳴りつけた。金属のような音がするのは、彼が銃を抜こうとしているからだろうか。
ヴィルトゥスは先のクレスケンティアとレムールの間で起きた戦争でも将官として活躍した人で、貴族というよりも軍人といった性格をしている。そのため、士官学校でしか使われないような隠語で喋るクセが抜けきらず、ときどき口調が荒くなることがあった。
武人で体格もいいヴィルトゥスから本気の脅しをかけられて、シリウスも少し怯んだようだった。
「御託はいいからグラツィアを返せ」
ヴィルトゥスが室内へ押し入って、あたりを探し回る足音がした。私はそろそろと忍び足で階段を上がり、元いた屋根裏部屋に戻った。立ち聞きしたことはおくびにも出さず、大急ぎで毛布にくるまる。なんだか、聞いてはいけないことを耳にしたような気がしたのだ。
ほどなくしてヴィルトゥスが私を見つけた。
「グラツィア! よかった、無事だったか」
うまく笑えたかは私にも分からない。さきほどの会話がまだ心に残っていた。シリウスは責任を取ると言っていたけれど、あれは本気だったのだろうか?
どうして私を誰にも内緒で自宅に連れてきたりしたのだろう? 彼に何かの考えがあるのだと思って、行き先も任せていたけれど、ここに来て急に目的が分からなくなってしまった。
「何もされていないな?」
「ええ……リカルダ様も、乱暴なことはなさいませんでした」
「当然だ、そんなことがあってみろ。俺は絶対に奴を許さん」
ヴィルトゥスに怒ってもらえて、嬉しいと思う私は不謹慎だろうか。心配してくれている人がいるのだと思うだけで心が軽くなり、昨日の絶望がまるで嘘のように思えた。
私を連れて、足早に去るつもりのヴィルトゥスを遮ったのは、トレイを携えたシリウスだった。
「とりあえずコーヒーでもいかがです?」
トレイにはクロワッサンとコーヒーが載っていた。王室御用達の白磁のカップからただようほろ苦いコーヒーの香りを嗅いだ途端、私は空腹だったことを思い出した。
「グラツィア様は昨夜から何も召し上がっていないんですよ。食事の猶予ぐらいはいただけるでしょう?」
ヴィルトゥスは舌打ちをすると、手近なスツールに腰かけた。
「……早くしろ」
「優雅でないですね。気にすることはありませんよ、グラツィア様」
「あの……お兄様の分は?」
「あるわけがないでしょう、突然押しかけてきたんですから」
シリウスが冷たく言い放つので、私は困ってしまった。
彼と差し向かいで腰かけながら、お兄様をそれとなく観察する。取るものもとりあえず来たといった風情で、髭もそっていない。それならきっと食事だってまだだろう。
「私、そんなにおなかがすいていないの。お兄様も半分召し上がってくださらない?」
言ったそばからおなかが大きな音を立てて鳴り、私は恥ずかしさのあまり真っ赤になってしまった。
「お前はいつもそうだ。人の顔色ばかり窺ってるとろくな人間にならんぞ」
「ごめんなさい……」
「そんな言い方はないでしょう、アーダルベルタ伯爵。グラツィア様はあなたがおなかをすかせているだろうと思ってわざわざお声をかけてくださったんですよ」
「そんなことは分かっている。俺のことはいいから自分のことだけ考えろと言っているんだ。グラツィア、お前は自分のことを後回しにしすぎる」
「おや、お説教ですか? 食事もきちんととれないようなろくでなしのくせに態度がデカいですね」
「貴様、やっぱり撃たれたいか?」
頭上を飛び交う一触即発の会話に、私は食欲を失ってしまって、下を向いた。ふたりはそれほど宮廷でも接点が多い方ではないし、性格的にもソリが合わないようなのは常々感じていたけれど、できれば仲良くしてほしいと思ってしまう。
困惑している私に気づいてくれたのはシリウスだった。
「大丈夫ですか? 怖いですよね、アーダルベルタ伯爵は。でも安心してください、本当はグラツィア様が可愛くて仕方ないんですよ」
「知った風な口をきくな、ルガーノ。俺は貴様よりもはるか昔からグラツィアを知ってるんだぞ」
「あまり独占欲をむき出しにされると、それもまた醜聞の種になりそうですが、大丈夫ですか?」
ヴィルトゥスはぎょっとしたように目をむいた。
「お、俺は別に、独占欲など」
「ええ、既婚で子持ちの伯爵が実は十五も年下の美貌の王女に首ったけだなんて、いかにも雑文書きが喜びそうなネタですからね。発言にはよくよく注意なさった方がよろしいかと」
「俺は別にそんなつもりは!」
「あなたがどのようなつもりであろうとも、面白おかしく書き立てるのがパンフレットというものですよ。ご存じでしょう?」
シリウスが胸ポケットから折りたたんだチラシのようなものをちらりと見せると、ヴィルトゥスは完全に沈黙した。先ほどヴィルトゥスが持ってきたものに違いない。そこに書かれている内容を想像して、私は憂鬱になった。
おそらくは、昨日の婚約破棄の騒動のことが囃し立てられているに違いない。世間にとってのグラツィアは、王を狂わせた稀代の悪女だから。
世間に婚約破棄の宣言が周知されてしまった以上、もうリカルダたちは後戻りできない。この騒動は寵姫グラツィアが完全な悪役に仕立て上げられ、天誅を加えられて退場するまで続くだろう。そうなりたくなければ、私も何かの手を打たなければならない。
私が浮かない顔をしているせいか、シリウスは食事の手を止めて、心配するように視線を向けてきた。
「……グラツィア様? お口に合いませんでしたか?」
「いえ……とってもおいしいですわ」
クロワッサンは出来立てのバターの得も言われぬ香りをさせていた。たっぷりと空気をはらんだ繊細なパイ生地は、ほんの少し力をこめただけではかなく崩れて、小さなパンくずが落ちる。
宮廷人は皆、相手が何を思い煩うのか見抜く技を身に着けている。シリウスも私の考えなどお見通しなのか、かすかに微笑んだ。
「ご心配には及びませんよ、グラツィア様。アーダルベルタ伯爵は口が悪くて怖いですが、これでもあなたの味方ですからね。微力ながら私もグラツィア様の後援をさせていただきます」
「ありがとう……でも、わたくしは……」
――できれば、リカルダ様と争いたくはなかった。
婚約を破棄したいというのなら、あらかじめそう申し出てほしかった。そうすれば、きっとリカルダにとっても、私にとっても納得できるような道を一緒に探すことができたはず。
すべてをなかったことにすることができるのなら、私は喜んでそうするけれど、あいにくそんな都合のいい方法は何も思いつけなかった。
「グラツィア。お前が気に病むことはない」
苛立たしげにヴィルトゥスに言われてしまい、私は彼を振り返った。険悪な表情は彼の習い性だが、怒っているわけではない。感情表現が少し苦手な人なのだ。