婚約破棄騒動、一夜明けて
グラツィアは高貴な娘だ。名門伯爵家のシリウスでさえも、手を出すには気後れがするほどに。
しかし彼女には神をも恐れぬ大罪を犯したという噂があって、婚約者ともうまく行っていない。
失意のグラツィアは、シリウスの目に、隙だらけの獲物のように映った。心が弱っているところにつけ込むのは卑怯だと分かっていたが、今なら手に入れられるのではないかという妄想には、ある種の耐え難い魅力があった。
やがてふたりの不仲は思わぬ展開を見せる。
リカルダは亡き父とその寵姫への反発心から、宮廷の執政官たちも疎んじるようになり、とあるひとつの考え方に傾倒するようになった。
自由主義だ。
女神から祝福された特別な王が国を統治する時代は終焉を迎える。
人は平等であり、十全な教育さえあれば、自ら考えて行動を決定することができる。
もはや王などは必要ない。
この新しい考え方を使って、リカルダは周囲に復讐するようになっていった。
このレムールにも、特別な指導者など必要ない。優秀な者が投票によって選ばれ、国を率いるべきだ――ただしその優秀な者とは、王の残した摂政役の執政官たちでもない。リカルダがこの宮廷に不要な人物だとするのなら、執政官やあまねく貴族たちも国には等しく不要だ。そう考えることで、敵をまとめてやっつける空想にふけるようになっていった。
自由主義こそが、自分を王太子という重圧から解放してくれる自由の翼だと信じたリカルダは、教育機関の学園に入学することを思いついた。あるいは誰かに吹き込まれたのかもしれない。
貴族がその学園に通うことは珍しくもなんともない。しかし、王太子がとなると、少し事情が変わってくる。周囲は当然のように猛反対したが、リカルダは父譲りの辣腕をそこで発揮してしまった。息苦しい宮廷から離れたい一心で、彼は、周囲の反対を押し切って本当に入学してしまったのだ。
グラツィアの処遇については意見が割れた。
なにしろその学校は保守的な女神教が運営する伝統校。
女性の入学自体が認められていない。
しかし、王太子自身が男女同学に非常に強い関心を示したことと、女神教会の権威が失墜していたこと、そしてその学園自体がそれまでの伝統的な法とラテン語を教える寄宿学校から、現代的な学園として編成し直されたばかりで、つけいる隙が多かったことなどが災いした。どさくさに紛れて、彼女の代から、貴族女性の入学も認められることとなったのだ。そして各地の修道院学校からやんごとなき娘がかき集められ、グラツィアを頂点とした女生徒の集団第一号として学園に送り込まれることになったのである。
さらに翌年、平民の女生徒が誕生する。
リカルダは、その平民の娘と恋に落ちた。
グラツィアとの不仲は決定的となり、そして――
婚約破棄が起きた。
シリウスは報せを受けて、大急ぎでグラツィアの居所を割り出し、馬車で駆け付けた。それはもちろん最優先で行われるべき急務だったが、そこに私情が入っていなかったとは言いがたい。彼女が学園入りをしてから実に二年ぶりの再会だったが、記憶にあるよりも一層美しくなった彼女に跪拝したとき、ある種の陶酔すら感じた。あるいはそれは、古き良き騎士道物語の主役にでもなれたかのような気分だったのかもしれない。彼が傅く娘は申し分なく高貴で、この上もなく美しかった。この娘のために命を捧げるのはさぞ快いに違いない。
運命の歯車は奇妙な輪転を経て、グラツィアをシリウスの隣に連れてきた。
本来であれば、決して手の届かない娘が、シリウスの手を握ったまま、眠っている。
もしかしたら、これもまた女神の導きなのかもしれない。
もしも違うのであれば、これからシリウスが行おうとしていることで、女神は大きな罰をお与えになることだろう。
反対に、女神から祝福されているのであれば、シリウスの行く手を阻む敵にことごとく罰を与えて、彼の道を切り拓いてくれるに違いなかった。
結果がどうなるかはシリウスにも分からない。
それでももう、シリウスは決めたのだ。
今回の婚約破棄騒動の後始末をして、グラツィアの汚名を返上し、万事うまくやりおおせたら、今度こそ、彼女を手に入れよう、と。
***
私は久しぶりに王城にいたころの夢を見た。
宮廷にいたころのシリウスが、おじさまに日報を読み上げている。クレスケンティアの関税がレムールと同じ協定に組み込まれたおかげで、いくつかの産業が打撃を受けている――もともとの経済格差を考え、なんらかの保護政策が必要だという内容だった。
そこで彼がふいに私を見て言ったのだ。
――グラツィア様の婚資のためにも、少しばかり手心が必要です。
私には話が難しすぎて分からなかったけれど、おじさまが私を見て微笑んでくださったことは分かったし、シリウスが親身になって政策を考えてくれていることも、ぼんやりとだけれども分かった。
シリウスはいつもそうだった。
冷たくて意地悪で、何かというとクレスケンティアをおとぎ話の国扱いして馬鹿にするくせに、少なくとも政策の上では、彼はこれ以上ないほどのクレスケンティアの保護者だった。
彼は私の、いうなれば政治的な兄だった。宮廷でクレスケンティアが批判にさらされるような場面があれば、必ずそれとなく助けてくれたし、私がクレスケンティアで動乱があったことを聞きつけて不安に思っていたときには、忙しい合間を縫って私のところに来て、落ち着くまで詳しく説明をしてくれた。
当時の私には、政治的な兄が、少なくともふたり存在した。
ひとりはシリウス。
そしてもうひとりは――
私がうたた寝から目覚めたとき、階下から人が言い争う声がしていた。
男性が強い口調で何かを申し立てている。おだやかな声でなだめている方はよく聞き取れないが、声が大きい方はとぎれとぎれに私の名を呼んでいた。それで、立ち聞きなどはしたないとも思ったが、屋根裏部屋から二階に降りて、階下の会話に耳をすませてみることにした。
「ふざけるな、ここにいることは分かっているんだ。グラツィア、どこにいる? 出ておいで」
声には聞き覚えがあった。
――ヴィルトゥスお兄様!
ヴィルトゥス・アーダルベルタ。彼はクレスケンティアの伯爵で、レムールへは大使として来ている。続き柄としても私の遠い親戚に当たり、日ごろから兄と呼んで親しんでいた。
「だからグラツィア様はいませんって」
出ていこうといそいそと一階へ続く階段を降りていく途中で、シリウスの声がして、私は足を止めた。私はここにいるのに、シリウスは何を言っているのだろう?
「嘘をつくな。あのジャーナリストだとかいう女がお前に引き渡したと言っていたぞ」
「ああ、もうそちらに回ってきた後なんですか。よくあの場所が分かりましたね」
「舐めるな、学園に置いていても常に監視はつけていた。俺だ、グラツィア。出てこい!」
「大声はやめてください、近所に聞こえますよ」
「馬鹿野郎、近隣など気にしている場合か。こっちは一刻も早くグラツィアの所在を公表しなきゃならんのだぞ。もうパンフレットが出回ってるんだ。後で読め」
紙をさばく音がして、シリウスは陰鬱そうに呻いた。
「もう、ですか。手回しがいいことですね」
「だから早くしろと言っている。『グラツィアは大使館にきちんと戻っている』と公表しないことには、騒ぎは収まらんぞ」