和平結婚の真相
――ごめんなさい、たくさん綺麗な花をいただいたのだけれど、押し花にするための本が足りなくて……そしたらおじさまがここにあるものを使っていいとおっしゃるから……
なんと呑気な娘なのだろうと、シリウスは呆れた。ちょうどダニア――当時すでにその呼び名は廃止される機運が高まりつつあったので、クレスケンティアと呼ぶべきだったが、シリウスはひそかに彼らを疎んじていたので、まだダニアと呼んでいた――を統合するための諸問題に頭を悩ませていたときだったので、彼女のすることが余計に脱力を誘った。
一年のうち半分が夏と言われるダニアは、豊富な食物と漁獲量に恵まれ、人々は総じてのんびりとしている。経済規模はレムールの数分の一以下で、流通に頼るよりも自給自足的であり、中央の官僚が国内のほとんどを握っているレムールとは勝手が違いすぎて、通貨の統一ひとつままならぬ状態であった。
――ごめんなさいルガーノ様、でもとっても素敵な香りのお花なの。少しわけてさしあげるから、どうかお許しになって?
そう言って彼女は花を置いていった。
なんともダニア娘らしい気の利かせ方で、シリウスは怒る気力も失くしてしまった。ポプリが詰められたガラスの小瓶は、今もときどき埃を取り除かれて、新しい花を継ぎ足しながら、机の上に置いてある。
どうすればダニアの民に言うことを聞かせ、足並みを揃えさせることができるだろうかと、そればかり考えていたシリウスだったが、グラツィアを見て考えを改めた。
グラツィアのような娘に、規律をうるさく言うのは無理だ。まったく別の国とみなして、二つの規格を共存させた方がいい。
シリウスの読みは当たっていた。ダニアの宮廷は、どこか素朴な、家庭的でこじんまりとした場所であったらしい。
そこで育ったというグラツィアは、朴訥な田舎娘の見せる、親しみを込めた振る舞いをたくさん披露してくれた。
シリウスは彼女のことをどんなささいなことも記憶している。未知の宮廷に対する戸惑いや一種の遠慮、たどたどしい言葉、飾り気のない素朴なやさしさ、娘らしさ。それが、ほんの数年で見違えるほど立派になった。彼女自身が、完璧であろうと努力したからだった。
宮廷では、彼女とふたりきりで話をするチャンスもそれほどなかった。何しろ彼女は退屈な宮廷儀礼によく耐えて、男とふたりきりになるようなことは絶対にしなかったし、しかも王の寵姫として名が通っていた。宰相のシリウスであっても、おいそれと近づけるような相手ではなかった。
通り過ぎざま、偶然を装って彼女に声をかけようと、何度たわいもない用事を作って王の元を訪れただろう。
ほんのひと言ふた言の会話を交わすのも難しい相手。
それが今、こうしてシリウスの前に無防備な寝顔を晒している。
その感慨がいかばかりか、表現する術をシリウスは持たなかった。
「……まさか、覚えていたなんて」
ひとりでに声が漏れる。
グラツィアはオケアノスを見たことがあると言った。
そう、遠い昔に、シリウスが望遠鏡で見せてやったのだ。
オケアノスの存在そのものは何世紀も前から認知されていた。
しかし、外惑星であるのもあり、当時はまだ惑星だと思われていなかった。シリウスが軌道計算を成功させて、惑星の発見者として登録されたのだ。
当時の彼女はまだやっと人らしくなってきたというぐらいの幼子で、シリウスも気まぐれにお守りをしてやった相手としか思っていなかったが、大学を中退して宰相となり、宮廷でグラツィアにばったり再会したときにはさすがに驚いた。まだようやく聖体拝領を済ませたばかりの、ほとんど子どもと言ってもいい年ごろの彼女が、敬愛する王ラルウァの愛人と陰口を叩かれていたのだから。
十二歳で初めての聖体拝領を済ませた娘に結婚の資格が与えられていたのも今は昔で、とっくに結婚年齢は十八歳へと引き上げられている。身分の平準化はもとより、男女の平等すら言われるようになった時代に、まだ四肢の肉づきも覚束ないようなグラツィアが王の愛人をしているなどというのは、事実誤認も甚だしい、馬鹿げた噂に過ぎなかった。
グラツィアはどこまでも可憐で、あどけない娘だった。王のことは親戚の伯父として慕っているのだということがシリウスの目にもはっきりと分かったし、悪辣な老人ばかりの宮廷で、彼女の無邪気さはシリウスにとっても好ましく、砂漠の中のオアシスのようにありがたいものだった。
惚れていたのかどうかはシリウス自身も知らない。可愛らしいとは思っていたが、では、恋人に望むのかと言われれば、それは何かが違うような気がした。王家の血筋とは、女神から祝福の息吹を受けた存在に他ならず、彼女は生まれながらにして、何人も手を触れてはいけない高貴な存在だった。
シリウスがグラツィアを手に入れるなどということは、夢想するだにおこがましいことだった。
やがて王がみずからの健康状態の悪化を憂い、内密のうちに遺言状の作成へと入ったとき、シリウスは打ちのめされた。
信じがたいことに、王がグラツィアとリカルダの結婚を推し進める方針でいたからだ。
クレスケンティアの王はすでに廃位され、王位はラルウァが相続している。リカルダとグラツィアが婚姻せずとも、すでにクレスケンティアはレムールの一部だ。にも拘わらず彼がふたりの婚姻を願ったのは、真の意味でふたつの国を統合したいからだと聞かされた。
そうして呆然とするシリウスが摂政評議会の議長に指名され、結婚までの段取りをすべて託されたとき、胸に湧き起こったのは、猛烈な不快感と苦痛だった。なぜ、よりによってこの自分が、グラツィアを他の男にくれてやるために骨を折らなければならないのか。
呼吸もできないほどの苦悩に苛まれて、ようやく自覚したときには、恋はとっくに終わっていた。
グラツィアとリカルダの結婚は、ラルウァの遺志であり、ふたつの国を結び付けることこそが、ラルウァの生涯をかけた悲願だった。
ラルウァの遺志か、グラツィアか。
最後には王の遺志を選んだ。
シリウスの恋心などはしょせんその程度だ。八歳も年下の娘に夢中になった事実を、むしろ恥ずかしいと感じさえした。相手はまるっきりの子どもで、シリウスが少し大人の淑女扱いしてやればすぐにのぼせ上がるような、世間知らずの娘だ。騙しやすい娘相手に手管を弄して心を手に入れるのは、非常に罪深いことであるように感じた。そんなことをすれば良心の呵責に耐えられないと思ったから、恋心ごと葬った。
こうしてグラツィアはレムールの国母に収まり、王の寵姫と噂された過去も闇に葬られて、幸せになる、かに思われた。
結婚とは国策であり、政治である。
その大前提を、当の王太子が受け入れなかったのは、偉大なる王にとっても大きな誤算だったろう。
王太子がグラツィアとの婚約で感じた屈辱、嫌悪感は、彼の荒れ具合からも察することができる。
父の寵姫を正妻に迎え入れるという事実に、リカルダは耐え切れなかった。
彼は父親に何度も詰め寄っていた。
なぜ彼女と婚約させたのか、自分のお下がりを押しつける気か、と。
あのころのことを思い出すと、シリウスははらわたが煮えくり返る。
もとからリカルダの才能は並みかそれ以下で、戦争と革命に揺れ動くレムール王国を治めることなどできそうにもなかったが、グラツィアという悩みの種ができてからというもの、前にも増して物事に集中できなくなってしまったようだった。それは不幸と呼ぶ他ない。穢れた浮薄な娘を正妻にあてがわれるという屈辱が彼から意欲を奪い取ったことは事実だろう。
しかし、グラツィアはリカルダの思うような娘ではなかったのだ。
シリウスはすれ違うふたりを間近で眺めていながら、どうすることもできずに手をこまねいていた。うまくいくように取り計らってやるのが宰相としての務めだと頭では分かっていたが、他方で、ふたりの不仲を喜んでいた。