青い記憶
摂政政府は貴族院、下院の議長と、その他の議長二名で成り立っている。
ラルウァ様が亡くなってからは、この四名と、長のシリウスが参加する私設の摂政評議会のことを、端的に『評議会』と呼びならわすことが多くなっていた。
「誰であろうとも、ラルウァ様の遺志にそぐわぬ者は排除します」
彼は確固たる意思を示すように語気を強めたが、私には力なく首を振ることしかできない。
「あなたや、執政官たちが私を推したって、外国の王女にはどうしようも……」
「グラツィア様はレムールの有力貴族たちをも虜にするほどの完璧な淑女であることをお忘れですか? グラツィア様の葡萄のような色の瞳で見つめられれば、誰だってグラツィア様こそが王位にふさわしいことを実感するはずですよ」
私にそこまでの魅力はない、と思ったが、シリウスは冗談や景気づけを口にしている風でもなかった。
「残念ながらリカルダを追放するにはもうすこし舞台を整えなければなりません。ことが終わるまで、いましばらく時間があるでしょう。それまでは雌伏のときと考えて、ご辛抱ください」
話はそれきり途切れて、黒塗りの無灯火の馬車はふたりを黙々と目的地に運んでいった。
***
連れられた先はどうやらシリウスの個人的な邸宅だったらしい。
使用人がひとりいるのを除いて無人で、シリウスの寝室と、書斎と、広い広い屋根裏部屋を除いては、生活に必要な設備が最低限あるだけの、こじんまりとした家だった。
私が通されたのは、屋根裏部屋の方だった。
ガラス張りの天窓に覆われた部屋には幾億の星の光が差し込んでおり、あたりはまつげの本数まで見分けられるほど明るい。天体観測用とおぼしき望遠鏡が中央にあり、それに付随するようにして贅沢なウォルナットのカウチや真新しいキルトのブランケットが置いてあった。
「きれい……」
満天の星空を見上げて思わずため息をついた私に、シリウスは悔やむような表情を見せた。
「大急ぎで片づけさせましたが、このようなところにやんごとなきお方をお連れするのはやはり心苦しいです」
「星がお好きだったんですのね」
「ええ。一応、天文学の未解決問題を解いた天才児ということで宮廷でももてはやされたのですが……グラツィア様のご興味を引くには至らなかったようですね」
皮肉っぽくからかうようにシリウスが肩をすくめるので、私は慌ててしまった。
「わたくしも、星は好きよ。ルガーノ様の経歴もちゃんと覚えておりました。本当よ、信じて」
「いえ、分かっておりますとも。私は星を眺めるのが趣味のつまらない男ですからね」
私はいよいよ答えにつまって、せわしなくシリウスから視線を外した。
彼は『レムール議会に紛れ込んだスター俳優』の異名を取るほど優れた容姿の持ち主だ。
彼をひと目見たいがために議会へ詰めかける貴婦人たちのせいで『オペラ座がいくつか潰れた』とまで言われるほど人気がある。つまらない男などでは断じてなかったけれども、人の見た目に関することをあれこれ言うのは品のないことだという意識もあって、どう答えたらいいのか分からなくなってしまった。
私は苦し紛れに、手近な壁に飾られたモノクロームの天体写真を指差した。
「……この星は、ルガーノ様がお撮りになったもの? すごく綺麗ですのね。宝石みたい」
「よく撮れてるでしょう? 真ん中のは私が一番好きな星です」
「そう、なんていう星なんですの?」
「小惑星オケアノス、太陽系に存在する星です」
私は引っかかりを覚えた。太陽系の惑星で、水の神様が名前の由来、というのに聞き覚えがあったからだ。
「知ってるかもしれないわ。たしか、まだクレスケンティアにいたころに見たことが……」
「へえ? 何かと間違ってませんか? これは去年見つかったばかりの星ですよ」
私は恥ずかしさで頬が熱くなった。去年まで存在すら明らかになっていなかった星を、十年近くも前に見かけているわけがない。
「ごめんなさい、きっと勘違いね……でも、昔星を見せてもらったことがあるのは本当ですのよ。確かにお隣の方が望遠鏡で見せてくださって……それがとても青いきれいな目をした方で……」
私はつい、目の前にあるアイスブルーの瞳に注目してしまった。シリウスもきれいな青い目だが、そのころの私が住んでいたのはレムールと交戦状態のクレスケンティアだ。敵国の貴族にあたるシリウスが私の家の隣に住んでいるわけはない。
「そう、わたくし、今でも覚えておりますわ。その方のこと。『たとえ目に見えなくても星はちゃんとそこにある。だから好きなんだ』っておっしゃっていたのが印象的で……」
物静かで、とてもきれいな顔をした男の子だった。
「わたくし、ちょうどそのころ祖母が亡くなったばかりだったから……『おばあさまの霊魂は、目には見えなくても遠い天国にちゃんといる』と、皆さんがくちぐちにわたくしを慰めてくださったのだけれども……あまり、よくは分からなくて。でも、この星みたいなものなんだと思ったら、ようやく気持ちが落ち着いたのですわ」
懐かしい祖母の記憶と一緒に、祖国の景色や、子ども時代の思い出なんかが一気にあふれてきて、私は急に星の正体が気になりだした。
「あれは、なんて名前の星だったのかしら……」
あの少年は、あの星をなんと呼んでいただろう。
思いをはせる私に、シリウスは望遠鏡のほうを指し示した。
「実際に見てみたら、思い出せるかもしれませんよ。よかったら、一緒に探してみませんか?」
「よろしいんですの?」
「ええ。朝までだってお付き合いしますよ。グラツィア様こそいいんですか? 私は星についてはちょっとうるさい男ですよ」
「いやですわ、お手柔らかにお願い……」
彼が手にした平たい円盤の天体観測儀を見つめながら、なぜか私は、この道具にも見覚えがあるような気がしてならなかった。
***
星の探求はグラツィアが眠ってしまうまで続いた。
シリウスは傍らで寝息を立てているグラツィアに毛布をふんだんにかけてやりながら、寝顔をよく見ようと、すぐそばに腰を据え直した。きつい印象の釣り目も今は穏やかに閉じられて、冷たく見られがちな口元にもあどけない微笑が浮かんでいる。はっとするような美しい娘だが、その印象は眠っていても変わることがなかった。絹糸のような艶を帯びた黒い髪、大人びた印象を与える尖り気味の顏の輪郭。冷たい宝石や香水の装飾をふんだんに施しても消し去ることができない、あふれんばかりの好奇心や親愛を秘めた口元。
グラツィアは拝金主義で独善的な執政官たちの心に父性や保護欲をかきたてる特別な才能を持っているらしく、彼女から言葉の愛撫を受けたものは誰もが年甲斐もなく頬をゆるめたものだった。シリウスは初めこそ小娘にたぶらかされてなるものかと気負っていたのだが、そのうちに降参するようになった。
初めて彼女にしてやられたと感じたのは、ある日、雑用から戻ってみたら、書類に花が挟まっているのを発見したときだろうか。