新しい時代
彼は笑って、再度言う。
「グラツィア様もお人が悪い、と言ったんです。どうして彼にはっきり言ってやらなかったんです? 『私はラルウァ様の愛人なんかじゃありません』――と」
クレスケンティアの王女は王の慰み者。
最年少の寵姫。
先王ラルウァは魔性の寵姫の美貌に狂って、自分の死後も寵姫が宮廷に君臨し続けられるように、おのが子の妃としたのだ――と、巷間ではまことしやかにうわさされている。
私は苦い気持ちで、王太子リカルダの侮蔑に満ちた冷たい目つきを思い起こした。
彼は父の寵姫を悪夢の源と見ていた。父の愛人を妻として押しつけられた少年の心境はいったいどんなものだったか、聞いてみるまでもない。死してのちの、復活の日を経た永遠を父と添い遂げるであろう、恥ずべき娼婦を妻に持つことがどれほど多感な青少年の心を苛んだか、その答えがリカルダの徹底した女性嫌いと、私に対する一切の拒絶だった。
彼には初めから私や父親が獣に見えていたのだと思う。
どんなに私がラルウァ様の愛人などではなかったと説明しても、聞いてもらえた試しはなかった。彼はけだものの吠え声にうるさそうな顔をすることはあっても、音の羅列から意味のある言葉を拾おうとはしなかった。
「彼にとってのわたくしは、おじさまの寵姫でした。弁明も証拠も意味をなしませんでしたわ」
「なるほど、噂にたがわぬ無能ですね。見る目がまったくない。あの伏魔殿で貞節を律儀に守っていた女性は、グラツィア様か、礼拝堂の女神像ぐらいだというのに」
シリウスは断りもなく私の手を取った。唇が私の手の甲に押しつけられて、心臓が驚きで跳ね上がる。手の甲のキスを拒むのは、よほどのことがない限りしてはいけないことだと、王女である私は叩きこまれている。戸惑っているうちに彼が大胆になり、少々はしたなく、私の手を裏返して、指先と、手のひらにもキスをした。
私は強い力で彼の手を振り払わねばならなかった。
「やめて、何をなさるの?」
彼はほら見たことかと言わんばかりに、忍び笑いを漏らした。
「こんなに可愛らしい反応をする人のどこが『王を誑かした寵姫』なんでしょうね? 世慣れた女性ならいくらでもうまくかわすための言葉を思いつくものですよ。生真面目に振り払うことしか知らないあなたに、あの方の寵姫など務まるわけがない。あの方はそんなに生易しい方ではなかった……」
死者を悼むシリウスの声にほだされて、私は肩から力を抜いた。
「……ラルウァ様のことを敬愛していらっしゃいますのね。今でもまだ」
「偉大な方でした。全世界の王、レムールのアガメムノン……民草が何万人と束になってかかろうともラルウァ様おひとりに敵わない」
アガメムノンは、神話の時代に『王の中の王』と讃えられた伝説の人物だ。いかにもラルウァ様を崇拝しているシリウスらしい例えだった。
――レムール王国の歴史は古い。二千五百年も昔に起こった王国が、王を換え、支配地域を増やしあるいは減らしながら永らえてきた。クレスケンティアも、元をただせばレムール王国の片割れだ。およそ百年前に、私の御先祖様が独立し、以来クレスケンティア王国を名乗ってきたが、十年前の戦争に負けて、またもとの国に併合されてしまった。
クレスケンティアを併合し、ようやく二千五百年前の姿を取り戻した王国の歴史が、終わりを告げようとしている。
力をつけた市民の間で、自由主義思想が台頭しているのだ。
『自由主義思想』とは、国民ひとりひとりに政治に参加する権利があるとする思想で、国王が治める『神権王政』とは対立するものだ。
この国の伝統的な考え方では、国王は女神から特別に国を統治するための特殊能力を与えられた、半神的な、聖なる存在だった。国王とは女神の代わりにその役目を果たす『神の代理人』であり、貴族もまた女神から特別な力を与えられた者たちの末裔である。それゆえに、国民は女神の祝福を受けた国王にぬかずく必要があると思われていた。
女神と教会の承認を得、王の統治時代は永遠に続くかに思われた。
しかし。
たとえ国王であっても、個人の生命や財産をおびやかしてはならないと考えられるようになった。貴族たちと同様、国民にも土地を持つ権利があるべきだと考えられるようになった。教育を受ける権利が保障されるべきだと思われるようになった。
――いくつもの貴族の特権が、国民にも等しく認められるべきだということが国民たちの間でじわじわと認知されるようになっていった。
そして人権意識が進んだ今、国民たちは、自分たちにも政治に参加する権利があると主張するところまで来た。
王という名の羊飼いが導くままに、安穏と草を食んでいた無垢な羊たちは、今や先導者の列を離れて独り歩きをし、工場生産の布で作った服を着て、コーヒーを飲んでいる。
貴族の時代の終焉を予感させる出来事が、毎日目まぐるしく起きていた。
私が通っていた学園に、平民の少女が入学してきたのも、その象徴的な出来事だった。
貴族男性と一部のブルジョワしか入学が許されない帝国の最高学府に、最優秀の成績で試験をパスして入学してきたのがニーナだ。
そして王太子のリカルダは、美しく、秀でたニーナに恋をした。
世の中は変わろうとしている。
王太子でさえ、平民の娘との恋を考えるほどに。
「……ラルウァ様の最大の御不幸は、後継者に恵まれなかったことでしょうね」
シリウスの苦々しい声で、私は物思いから引き戻された。
かの王のことを思い浮かべるとき、私はいつもかすかな高揚感に包まれる。
ラルウァ様は強烈な求心力のある方だった。なにせ、身分の平準化が声高に叫ばれる世の中にあって、いまだに民衆の多くから理想の君主だったと惜しまれているほどの人なのだ。飢えと不平等にあえぐ民衆すらも熱狂させ、長いこと分裂状態だったクレスケンティアとレムールを統一せしめた祖国再建の王。それがラルウァ様だった。
「ルガーノ様のそのお気持ちに免じて、先ほどの無礼なキスはなかったことにしてさしあげますわ。わたくしも、叔父さまのことを敬愛しておりました」
私が冗談めかして言うと、今度はシリウスが息を呑んだ。
「なかったことにされるのは、心外ではありますが……」
彼は少し皮肉っぽい笑みを作った。
またこの笑顔か、と私は少し冷めた気持ちで思う。彼はいつだってこうだ。遠回しなからかいをふんだんに口にしながらも、声は優しく、思いやりと気遣いを欠かさない。彼の洗練された物腰や、笑顔や、やさしい節回しの喋り方がいつごろ完成されたものなのか、私はもう覚えていない。少なくとも、宮廷に来たばかりのころの彼はもっと不愛想で尊大だった。
彼が頻繁にほのめかす親愛の情は、あくまでも宮廷に来てから作られた御愛想であり、世間知らずな娘をからかうための呼び水にすぎない。それを知っているから、私は心を動かされたりしなかった。
少なくとも、惹かれそうになる心を制御するだけの余裕はあった。
「わたくしたちは、ともにおじさまを慕う同志。そうですわね、ルガーノ様?」
「ええ……はい。そうですね」
話を合わせてあげるのだとでも言いたげにシリウスはあいまいな同意をし、小さくため息をついた。
私は何も知らない幼子のように、辛抱強く彼が次の話題に移るのを待った。
愛情のほのめかしを真に受けてはいけない。彼はいつだって、次の瞬間には冗談だったと言ってからかうような人なのだから。
「……ラルウァ様のためにも、そして同志のグラツィア様のためにも、私はリカルダを許しません」
シリウスはいくぶんか感情的にそう述べた。
「そうはいっても、リカルダ様は王太子殿下ですわ」
リカルダは成人したら国王として戴冠することが決まっている。現在は摂政政府が置かれ、シリウスを筆頭に、五人の執政官がリカルダの代わりに国政を処理していた。