私の青い星
私は『二枚目の遺言状』の公開から数日後、思うところあってレムール宮廷に立ち寄った。
摂政評議会は荒れる国内外をなだめるのに必死で、宮廷も大騒ぎらしい。
先日のお礼をかねて、摂政評議会の執政官たちひとりひとりにあいさつをして回ったが、全員目が回るほど忙しいらしく、お土産を置いてくるくらいがせいぜいだった。切れ切れに聞こえてきた、『レムール銀行の取引停止』や『各地の暴動』、『諸外国からの鬼のような質問状』、『外交特使の選出が難航』などは、まともに聞いてしまうと私の胃も痛くなりそうだったので、途中で耳を塞いで帰ってきた。
王国間の和平結婚が破談になったのだから、問題は国内だけに留まらない。世界中にばら撒かれてしまった不和の種を、なんとかもみ消そうと奮闘してくれているのだった。
私が最後に宰相の執務室を覗くと、シリウスは書類の山に埋もれていた。重厚なテーブルに向かって、金属ペンを片手にうつらうつらしている。
彼が何やらうめいていたので、私はそっと近寄って、尋ねてみた。
「ルガーノ様、お加減はいかが?」
彼はのそりと私を振り返った。
薄目を開けて私をじっと見つめたかと思うと、いきなり意識が覚醒したかのように、はっと目を見開く。
「――グラツィア様!? これは、失礼を……!」
「お気になさらないで、少し様子を見に立ち寄っただけですのよ」
慌てふためくシリウスが見られて、私はひそかにいい気分だった。いつもくすくす笑いながら私をからかうこの男には、少しみっともないところを晒してもらうくらいでないと釣り合いが取れないと常々感じていたからだ。
「とっても眠そう。ルガーノ様、ちゃんと寝てらして?」
私がからかうと、シリウスは恥ずかしそうに手で顔を覆った。
「面目ありません。お許しください、遺言状の公開からこっち、ベッドに入る暇がなかったもので……」
「まあ、ずっと働きづめですの?」
「グラツィア様のお姿も見えてはいたのですが、頭がうまく働かず……夢かと思って凝視してしまいました。失礼いたしました」
あたふたと言い訳をしながら、彼が一生懸命生えかけのヒゲを手で隠しているので、私はおかしくってしょうがなかった。
「では、もう退散しなくてはいけませんわね。少しでも早くお仕事を終えて、きちんとお休みになれるように」
「いえ、そんな! こんなものは何でもありません。すぐに終わります。他の執政官たちに比べたら、私がしているのはほとんど雑用のようなもので……私の長所といえば、若さと体力ぐらいのものですから。それもまあ……グラツィア様には負けてしまいますが」
どうやら眠いのは本当らしく、話題があっちこっちを行ったり来たりしている。
それでさすがに私も心配になってきた。
「ご自愛くださいまし、ルガーノ様。わたくし、もう戻りますわ。お邪魔して申し訳ありませんでした」
「待ってください!」
常ならぬ大声に阻まれて、私は思わず連れ添いのマイアと顔を見合わせてしまった。
シリウスはマイアに向けて、頭を下げるようなそぶりを見せた。
「後生です、アーダルベルタ伯爵夫人。後生ですから……少しだけ席を外していただけませんか。内密でグラツィア様のお耳に入れたい話があるのです。どうか、お願いです」
マイアはさすがに笑みを消した。
それが絶対に許されないことくらい、彼女も心得ている。
私だって分かっているので、困ってしまった。
「お願いです……私を憐れと思ってくださるのなら、お慈悲を」
彼の必死な言い募りようは、緊急の用事があるというよりも、まるで報われない恋にすがりつく人のようだった。マイアもただならぬものを感じたらしく、私に目で問うてくる。
私は、ためらって、床に視線をさまよわせて、彼が提案を引っ込めてくれるのを待ったが、何度も「お願い」を繰り返されて、とうとう良心の呵責に耐え切れなくなった。
「……では、少しだけ。お願い、マイア様」
「何かあったら大声をお出し」
マイアが続きの間に姿を消したのを確かめてから、彼はあえぐように言う。
「ああ、グラツィア様……! ずっとお会いしたかった! まさかあなたの方から会いにいらしてくださるなんて……」
興奮気味の彼の目の下に、くっきりと疲れたような隈が浮いているものだから、私はおおいにたじろいだ。
「以前はずいぶん決まりが悪そうにしていらっしゃったので、ずっと気がかりだったんですが……ともあれ、笑っているお顔を拝見できただけで胸がいっぱいです。グラツィア様は篤実で、他人の好意を無碍になさるような方ではないですから、私から何かを言われたくらいでそう簡単に不快感を表明したりはなさらないと分かってはいるのですが、もし万が一にも、愛想を尽かされていたらと思うと……」
ちょっと異常なくらいの思い詰めた抑揚で言われてしまい、私は返答に困ってしまった。いつもにこにこと人をからかうのが趣味の男の変貌ぶりを見せつけられて、戸惑わずにいられる人はいるのだろうか?
「審問中も、浮かない顔ばかりさせてしまっていたので、身を削られる思いでした。今すぐおそばに行ってお慰めしてさしあげたいと何度思ったことか……」
普通は、手の甲へのキスをねだるとき、勝手に手を掴んで引き寄せるなんてもってのほかだ。そんなことをすればたいていの男性は、私の前から強制的に退場させられる。
それなのにシリウスは、いとも簡単にそれをしてみせる。
どうしてか、私も、振り払えずにやすやすと手を取られてしまう。
「あなたの燕になれたら、どんなにかいいだろうと……」
言い訳になってしまうけれど、彼は『レムール議会のスター俳優』の異名を取る人だ。
私を上目遣いに見つめる青ざめた顔や、氷のような青色の瞳、すがるような視線、強く握られた私の手を這う唇。俳優はだしの歯の浮くような振る舞い、甘い言葉。
彼の魅力を構成する何もかもが、私の琴線に触れた。
シリウスが私の頬に手を伸ばす。
情熱を免罪符に行われようとしている非礼を避けるため、私はなけなしの理性を働かせなければならなかった。
「……ずいぶんお疲れなのね、ルガーノ様。今すぐ横になった方がよろしいわ」
私は彼の目を見て猛烈に後悔した。拒絶する言葉がどれほど効いたのか、ありありと表情に出ていたからだ。
「私は、正気を失っているわけではありませんよ」
嬉しいと思う気持ちを押しつぶして、私は何を言うべきか考えた。心にもない言葉は、話すのにとても神経を要する。
「……本気なら、なお悪いわ」
言ってしまってから、なんてひどいのだろうと、自分でも驚いた。
シリウスは横っ面を叩かれたような顔をしていた。
彼は私を篤実だと言っていたけれど、信じていた相手から氷の弾丸を撃ちこまれる気分はいかばかりか。
「……私とグラツィア様では、身分が違うことは分かっています」
あくまでも自分は正気だとでも言いたげに、シリウスが自虐的に述べる。
「年だって離れていますから……さぞや……みっともないとお思いでしょうが……」
そんなことはない、と反射的に言い返しそうになって、私は苦しさを覚えた。身分だけで態度を変えるような、情のない女だなんて思われたくはなかったけれど、私を構成するあらゆるものが、私にそうするよう求めていた。
彼に誤解されるのが、こんなにも苦しい。
同じ苦しさを、いつかの夜にも味わった。
そのときだけではない。リカルダに対しても、ずっと同じ苦しさを味わい続けてきた。
どんなに弁解したくてもできない苦しさ。
好意を告げたくても告げられない。
そうか、と私は思った。隠し通さなければいけない気持ちや、呑み込まなければいけない愛しさがあるときに、人は苦しみを味わうのだと、ふいに理解した。
いつかの夜のように涙が出そうになって、シリウスがぎょっとした。
「ああ……! すみません、泣かせるつもりは……!」
涙で崩れる顔をかばい、私は口元を手で覆った。シリウスには何か、ねぎらいや説明の言葉をかけてあげるべきだと思ったけれど、喉がはりついてしまって何も言えなかった。
「すみません、すみません、本当にすみません……! どうしましょう、私はどうやって償えば……!」
シリウスがあんまりにも必死になだめてくれようとするので、私の苦しみもいくらか和らいだ。
心配そうに私を見つめる、青い氷のような瞳。
きれいだと、泣きながらぼんやり思う。
彼の色素の薄い青い瞳に触発されて、これまでに見た青くてきれいなものが次々に脳裏に浮かんだ。
ムラーノ・ガラスの透き通ったきれいな青色。
マヨルカ焼きの青い絵つけをしたお皿。
それに、『クレスケンティア博物誌』で見て憧れた、美しいものたち。
「……あのね、ルガーノ様。わたくしも、星を、持っているの。ルガーノ様に見せていただいたオケアノス、あれと同じくらい、きれいなのよ。わたくしだけの青い星、なの」
泣きながらしゃべっているうちに、少し呼吸が落ち着いてきた。
微笑みを見せる余裕さえ出てきて、自分でもほっとした。
「でも、あれは、とても光が弱くて、月のない夜にしか見ることができないの。ルガーノ様にも、見せてさしあげたいのだけれど、できないの。できないのよ。だってわたくしは、王女ですもの……」
私は彼の気持ちに応えることができない。私の身体はクレスケンティアのもので、心のままに振る舞うことなど許されない。
それでも、嫌われたくないと思う気持ちがある私は、浅ましいと思った。
「月のない、夜に……」
私はなんだか恥ずかしくなってきた。月のない夜に大切なものを見せてあげたいだなんて、ずいぶん意味深に聞こえる。
「月のない夜に、私と過ごしてくださるおつもりが……」
私はさっさと逃げを打つことに決めた。
「マイア様を呼び戻すわ」
「待ってください、待って!」
制止する彼の手を振り切って、私は続きの間へと急いだ。
「――信じましたからね!」
背中に投げつけられた言葉の意味は分からなかったけれど、心地よい力強さだったので、私はどうにか泣き顔を見せずにマイアを呼び戻すことができた。