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深夜の逃避行



「違いますよ。無精だなんて思わないでくださいね。これはグラツィア様の御前に出るために、ちゃんと着替えてきたんですから。グラツィア様も、他国からお預かりしている大切な王女様ではありませんか」


 ――捕虜の間違いではなく?


 卑屈に聞き返しそうになり、私はぐっと言葉を呑み込んだ。

 経緯はどうあれ、ラルウァ様は最終的に私の地位を『敗戦国の人質王女』から、『レムールと対等に婚姻協定を結ぶ和平の王女』へと戻してくださった。私もそれにふさわしい言動をするべきだと分かってはいるが、長い囚われの生活が影を落としているのか、ふとした瞬間に卑屈な言葉が出そうになる。


「さあ、帰りましょう。なにが召し上がりたいですか? なんでも揃えておりますよ。見つからなければ、一晩でも駆けまわってお望みのものを探してまいりましょう」


 陽気に言う彼に励まされ、私は黒塗りの馬車へと、人目をはばかって乗り込んだ。


***


 普通、この国では未婚の男女が有蓋の箱馬車に乗り合わせないことになっている。私に続けて、宰相が馬車に同乗しようとしたので、少したじろいだ。


「同乗のご無礼をお許しください。私が馭者台に登ってしまうと、ここに高貴な女性が人目を憚って乗車中だと触れ回るようなものですからね」

「非常事態……ですものね」


 救助をしてもらった立場である以上、文句などない。ぎりぎり手足が触れ合わない距離に行儀よくシリウスが腰かけたとき、彼の袖からベルガモットの甘い香りがかすかにした。


 暗闇に乗じての逃避行なので、馬車の中も無灯火だった。シリウスの顏は見えないものの、かすかに笑うような吐息が聞こえて、私は彼を振り返った。


 彼はおぼろな街灯に照らされた並木道の糸杉を視線で指し示しながら、言う。


「懐かしいですね。覚えていますか? 以前にもこうしてグラツィア様の馬車に乗せていただいたことがあるんですが」


 シリウスとは宮廷で、何度も顔を合わせていた仲だった。彼は亡き王ラルウァの腹心だったから、私がラルウァ様に連れられてあちこちに顔を出すたびに、シリウスを見かけることになった。


 彼は当時、大学を中退したばかりの青年で、ほとんどが老人を占める宮廷の中枢ではいたずらに耳目を集めてしまうほどに若く、はつらつとしていた。才気煥発な若者の例に漏れず、彼も旧態依然とした宮廷の権謀家たちが嫌いで、老人たちとは互いに憎み合っていたと言ってもいい。彼が死にゆく老人たちの饐えた甘い香りを嫌うのと同じように、老人たちも、魔女まがいのけばけばしい精油の香りをさせたシリウスを嫌っていた。


 あるとき、老人たちは一計を案じて、シリウスを重要な宴会の席から締め出した。その宴会に出席できなければ、ラルウァ様は非常にお怒りになるだろう――そうなればシリウスは寵を失い孤立すると、計算してのことだった。


 私は偶然、その計画を立ち聞きしてしまった。


「……そんなこともありましたわね」

「あのときのご恩は今でも忘れていませんよ。グラツィア様が迎えにいらしてくださらなければ今ごろ私はどうなっていたか……」


 嘆息する彼を、あの頃の面影と重ねてみて、私は不思議な気持ちになった。その当時から、もう六年になる。久しぶりに再会した相手に戸惑いを覚えるのはやむを得ないことなのかもしれない。


「あのときのあなたはまだほんの小さなお嬢さんで……一生懸命に窮地を救ってくれようとするあなたをかわいらしく思う一方で、少し疎ましく感じてもいました」


 ドキリとするようなことを言われてしまい、私はついシリウスの顔を見た。軍神よりは芸術の神に、そして剣闘士よりは粉黛を帯びた舞台俳優に例えられてきた、繊細な美貌。明かり一つない馬車の中では、顏のあたりがほのかに白っぽくなっているのが見えただけだった。


「お気を悪くなさらないでください。私はまだ宮廷に入ったばかりで、勇み足と男らしさをはき違えていて……子どもに情けをかけられたことが、無能の烙印のように思えただけなんです」


 あの当時、彼は美しく才能のある男がしばしばそうであるように、その身に備えるにはあまりにも大きな高慢と、抜き身の剣のような危うさを秘めていた。それが革の鞘に納めたように、鋭利な刃を隠し、柔らかく無害な笑顔ばかり浮かべるようになったのはいつからだったろう。


「……あるいは病んでいたと言ってもさしつかえないでしょう。私は、子どもの無邪気な好意すらも受け止められないほどに、不信感の塊になっていました。あの宮廷に、私が心を許せる相手は一人もいないものだと……」


 私にも、その感覚はとてもよく分かった。

 私たちが暮らしていた王城は、正しく伏魔殿だった。誰もかれもが友好的でありながら、誰もかれもが油断ならない敵だった。


「わたくしもそうでしたわ。たぶん、お友達がほしかったのね。それで、ルガーノ様なら仲良くしてくださるんじゃないかって……」

「どうして私だったのか、お尋ねしてもいいですか?」


 シリウスがためらいがちに言う。


「……ずっと不思議だったんですよ。あの当時の私はお世辞にも感じのいい男とは言えませんでした。あなたのことを頭から子どもと決めつけて寄せ付けませんでしたし、失礼なことも申し上げたように思います。決して、仲良くしてくれるような相手ではないと思うのが普通では……」


 私は子どもだったから、そんなに複雑なことを考えて行動したわけではない。


「……おそらくですけれど、わたくしも病んでおりました」


 だから彼に親しみがわいた。

 きっと彼も、私の同類だと思った。


 ……などと言っては、同情するなと怒られてしまうだろうか。


「わたくしも、不信感のとりこでしたわ。だって、誰が敵で誰が味方かも分からないんですもの。だから、人との付き合い方が全然分からなくなっていて……むやみやたらに愛嬌を振りまいて、誰もかれもに好きだと訴えかける以外に、あの宮廷で生きていくすべを知りませんでしたのよ」


 敵地に取り残された私には、ひとりの知り合いもいなかった。必死に誰かにすがらなければ、生きていけないとさえ感じていた。


 彼はくすりと笑ってみせた。


「あなたは本当に愛らしいお嬢さんでしたね。あの気難しい執政官たちさえ、グラツィア様のことは孫娘のように案じていた」

「まさか。おじさまのご機嫌をうかがっていただけではなくて? わたくしが好かれていたわけではありませんわ」

「そうでしょうか?」

「そうよ」


 シリウスはかすかに笑いながら、言う。


「……評議会の執政官たちはほぼ満場一致でグラツィア様を推すと、早々に打診してきました」


 私は一瞬、何の話かをつかみ損ねて、あたりに視線をさまよわせた。

 昼の婚約破棄騒動のことを言っているのだと理解した瞬間に、真っ先に感じたのは『まさか』と『なぜ』だった。


「王太子殿下ではなく?」

「そう、あなたです。これも人徳ですね。無理もありません、天使のように愛らしく聡明だったグラツィア様と、無能で鼻持ちならない小僧だった王太子殿下のことを、老人たちは昨日のことのように覚えているんですよ」

「そんな……」


 ――傀儡。

 あるいは担ぎやすい、空の神輿。


 評議会の老人たちは、扱いにくいリカルダを見限って、まだしも操りやすい私を代表に立てようというのだろうか。

 私が言葉を失っていると、シリウスはなおも笑いながら続けた。


「……もっとも、私は彼の浅慮に感謝しているんですがね。殿下がみすみすグラツィア様を手放してくださったおかげで、私にもチャンスが巡ってきたわけですから……」


 彼がほとんど聞こえないくらいの声でぼそぼそと話すので、私は彼が何を言ったのか尋ね返さねばならなかった。



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