苦しみのワルツ
「私が差し上げた花はグラツィア様のところに届かなかったのでしょうか」
「いえ……あの、とてもきれいだったわ。お礼が遅れてしまって、ごめんなさい……」
彼は何気なく一歩踏み込んで、私の耳元に顔を寄せた。
「では、お手元に届いても、心には届かなかったということでしょうか?」
私はなぜか、冷や汗を感じた。おだやかな声ではあったけれど、詰問されている、と思った。
「……ルガーノ様? 変な冗談はよしてちょうだい。人に聞かれたら誤解されるわ」
私が顔を背けてさりげなく距離を取ると、彼はすぐにまた笑顔に戻った。目が少しも笑っていないと感じたのは、きっと気のせいではないのだろう。
「……ダンスは何を踊るの?」
私がダンスの予約手帳を取り出して、シリウスにそう告げると、鉛筆を奪い取られてしまった。
彼は涼しい顏でさらさらと自分の署名をして、すばやく帳面を閉じた。
「忘れないでくださいね」
私は今のやり取りを誰にも見られていなかったか確認して、ほっとため息をついた。
貴婦人たちが物見高くやり取りを見ていたようだけれども、帳面が見えるほどの距離ではない。
ワルツの欄に自分の名前と、『セイレーンの噴水で』というメモ書きを残していったシリウスに、私はあとで恨み言を言ってやらなければと思った。
***
ヌボロ家には有名な彫像や絵画のレプリカがいくつも置いてある。セイレーンの噴水のことももちろん私は知っていたが、あいにくそこはパーティの会場として開放されている区域の外なのだ。侵入するのには少し苦労した。マイアとダンスホールでわざとはぐれ、行きかう人の目をかいくぐり、庭の奥まで到着したときには、緊張でのどがカラカラに乾いていた。
誰かと遭遇したら引き返そうと思っていた。
でも、私は無事に噴水の前に来た。
おだやかな気候の時期で、何枚も絹を着込んでいる私には、庭の夜気が気持ちいいくらいだった。
石膏の肉感的なセイレーン像と、彼女を彩る波の渦巻き彫刻がほんのりと月の照り返しで光っている。そのすぐそばに立つシリウスの白い顏に、笑みが浮かんだのがなんとか見分けられた。
「すぐに戻らなければなりませんわ」
私が少し強めに言うと、彼は苦笑した。
「……どういうおつもりですの? わたくしの立場が弱いのはご存じでしょう? それなのに、こんな……」
「好きな女性と少しでも長く一緒に過ごしたいと願うのは、いけませんか?」
私はその瞬間に悟った。そもそもここに出向いたのが間違いだったのだと。
おそらく私は、彼に懇願されたら、きっと何も拒めない。
今だって、ほんの少し好きだと言われただけで、みっともなく取り乱しそうになっている。
「タイミングが悪いわ。どうして今なの? わたくしを女王にするとおっしゃったのはルガーノ様ではございませんか」
「女王になったあとでは信じていただけないかもしれないでしょう? 求婚しても、地位や身分が目当てだと思われるのは嫌なので」
「求婚……?」
「ええ、どうにかグラツィア様の夫に収まっても、あとからこのときのことを持ち出されて、何もロマンスがなかったなどと嘆かれたら困ると思ったんですが」
「ロマンス……」
「何かおかしいですか?」
シリウスはけろりとしているが、おかしなことだらけで、私は混乱してしまった。
「……ルガーノ様が、ご結婚なさるの? ……わたくしと?」
「ああ、すみません。まだ承諾していただいてもいないのにこんなことを言って。もちろん、気乗りしなければ断っていただいてもいいんですが」
シリウスは私の手を断りもなく握って、強引に自分の口元へと運んだ。
無礼な、という悲鳴は喉の奥で凍ってしまって、出なかった。
「……お嫌でしたか?」
手の甲に口づけを落として不敵に笑う彼は、美しかった。私が言葉を忘れてしまうほどに。
おそらく彼は、自分が断られるだなんてみじんも思っていない。
それはきっと私の態度が、彼に気があることを全身で教えてしまっているからなのだろう。私は手を振り払うことも、目を逸らすこともできずに、馬鹿みたいに突っ立ってシリウスに見とれていた。
「グラツィア様?」
よく聞きなれた、からかい交じりの甘い声がすぐ耳元でして、私は飛び上がりそうなほど驚いた。
「ルガーノ様は……レムール王になりたいの? それで、わたくしを玉座に置こうとしている……?」
「あぁ、ひょっとしてすでに疑っていらっしゃいます?」
「だって、いきなりだったんだもの! あなたがわたくしを好き? いったいどこが?」
そもそも、彼は私のことをまるっきり子ども扱いしていたではないか。
「どこがと問われると難しいのですが……そもそも、愛とはいったいなんでしょうね? 惑星の軌道計算は得意ですが、哲学には疎いもので」
彼ははるかかなたの星空を見上げて、首をそらした。ダイヤモンドをちりばめたような光の洪水に、澄んだ青い瞳が向けられて、虚空をあてどなくさまよう。きれいな人だと、素朴な感想が私の心に浮かんだ。
「宰相の仕事も嫌いではありませんが、あの方のいない王政府にはさほど未練がないんです。いつ辞めてもいいと思っていました」
私は驚いてしまって、思わず彼の話を遮った。
「ルガーノ様は……おじさまの遺志を継ぐために、お勤めしていらっしゃるのだとばかり……」
「もちろん、そのつもりでした。でも、あの方からリカルダ殿下とグラツィア様の婚姻を託されて、迷いが出てしまって。あの方の悲願を叶えることははたして正しいのだろうか、と」
星空をいっぱいに映した瞳が、ふいに私の方を向いた。
「リカルダなんかにグラツィア様を嫁がせて、不幸にするくらいなら、いっそのこと何もかも捨てて、グラツィア様をさらっていってしまおうかと思ったんです」
それは澄みきった夜の空気に浄化されてしまったせいか、あまりにも破滅的な発言であるにも関わらず、純粋で美しい愛の告白のように聞こえた。
「……あなたが、そんな冗談を言う人だとは思いませんでしたわ」
「もちろん、まだやけを起こす気はないですよ。ラルウァ様の真の後継者は私だと思っています。でも、それなら、本当は、グラツィア様のおそばにいていいのは、あの小僧じゃなくて、私の方なのではないですか?」
私は返事に窮して、黙ってしまった。子どもじみた嫉妬心と独占欲の発露が、まったく普段のシリウスに似つかわしくないと感じたからだ。おそらくは彼だって、ルガーノ伯爵家とクレスケンティア王家に横たわる厳然とした身分の差や、レムールの貴族社会で生み出されるどうにもならないしがらみのことなど、私に指摘されるまでもなく分かっているだろう。
「グラツィア様の即位はお約束します。私の身命をかけて、それだけは実現させる。でも、見返りがほしいんです。どうか私のものになってください。さもなくば、誰のものにもならないでください。あなたが私を一番おそばに置いてくださるのであれば、どんな苦難だって越えてみせます」
私は、どんな返事もしないようにと体を強く抱き、唇を噛み締めて耐えた。
だって、決めるのは私ではないのだ。
王女の結婚を左右するのは王であり、国である。
数百年に渡って受け継がれたその古くさく馬鹿馬鹿しい約定が、私を王女たらしめていた。
私は彼の真剣な告白から逃げるようにして、オーケストラの楽曲に耳を澄ませた。ポルカ・マズルカで有名な楽曲『とんぼ』が、今にも始まろうとしていた。
「次のダンスが始まってしまいますわ。もう戻らなければ」
シリウスは私を引き留めたりはしなかった。
私は彼の顔を見る勇気がなくて、そのままもと来た道を駆け足で戻っていった。
***
ダンスのプログラムは滞りなく進んでいった。私は誰にも見つからずにその場に戻り、約束していたヌボロ家の子息と踊った。決まり切った王朝のメンバーによって紡がれる集団バレエは、それ自体が厳粛な宮廷儀礼のようでもあった。
私は列を乱すことなく踊りきり、ヌボロ家の子息と当たり障りのない会話をして、その場をあとにした。そうやって、私はうまくやれていると確認することで、ようやく人心地ついたような気がした。
時折、遠くからシリウスの視線を感じたけれど、私はひたすら逃げ回っていた。
貴婦人たちの輪にまざって会話していても上の空で、何を喋ったのかなんて覚えていない。
そのうちに何度めかのワルツが始まることが知らされ、間の悪いことにちょうどそのタイミングでシリウスに捕まってしまった。
シリウスはにこやかに、しかし有無を言わせず慇懃にダンスに誘うと、半ば引っ張っていくようにして、私をダンスホールに連れ出した。
レムール議会のスター俳優だのアポロンだのと好き勝手噂されているが、ダンスホールの人の群れをかきわけてさっそうと歩く、彼の華麗な身のこなしを見ればすべて納得が行く。民衆からの圧力に負けて、貴族院の議会が公開制になったのはここ十年あまりのことだが、批判を浴びやすい会議の進行を統制し、さながらオペラ座の出し物のように見世物化することで大衆の目をくらませることを思いついたのは亡き王だった。
シリウスは数学と会計報告の申し子であると同時に、亡き王の描いたシナリオの忠実な演者でもあったのだ。議会のときの彼は、本当に、惚れ惚れするほど格好がいい。だからだろうか、私はまだ彼への気持ちが、ただの浮ついた憧れとどう違うのか、判断しかねていた。
一時の激情に身を任せるには、私のかぶるティアラは重すぎた。模造品の練りガラスで憧れの舞踏会の真似事に挑むブルジョワ娘とはわけが違う。私の持ち物のどれひとつとして、私が自分の力で手に入れたものではない。私の先祖が代々受け継いできた、民衆からの大切な預かり物に、私の気まぐれで傷をつけるわけにはいかなかった。それは、私自身の身体でさえもそうだった。
この身には女神エデア様の息吹が血液となって巡っていると、聖典は言う。私が自分の身体を汚すことは、大切に受け継がれてきた女神の息吹を汚すことにも等しく、それは庶民がつましい困窮の末に働く殺人や強盗などよりもなお重い罪だと教えられてきたのだ。
私がシリウスに寄り添い、腕を組む段になると、すでに口から心臓が飛び出そうなほど緊張していた。大丈夫、と自分に言い聞かせる。いつもどおりやるだけ。うまくこの場を取り繕わなくては。
「……私は諦めませんからね」
ささやき声にハッとして、足がもつれそうになる。さりげなくシリウスにかばってもらえたが、必要以上に密着することになり、私はいてもたってもいられなくなった。
――苦しい。
――コルセットを締めすぎたのかしら。
私はどうして自分が泣きそうになっているのかも分からないまま、シリウスと短いダンスをした。
「……グラツィア様? お加減が……」
ダンスの終わり際、私が顔面蒼白になっているのに気づいたシリウスが気遣ってくれようとしたけれど、私は少し乱暴に跳ねのけて、人ごみに戻った。
彼に優しくされたら、その場で本当に泣いてしまいそうだった。