本の贈り物
「無理もない。あやうく射殺されるところだったんだ。グラツィアがどれほど怖い思いをしたか……持ち物検査をしくじった衛兵には厳罰を下しておけ」
ヴィルトゥスが憤慨しているが、シリウスは取り合う姿勢を見せない。
「無駄ですよ。あの赤い帽子を見たでしょう? あなたの言葉を借りるなら、自由党の『マフィアども』ですよ」
「やはりあれは王太子殿下の差し金か」
「それ以外にありませんよ。厳罰を与えたいのはやまやまですが、今動くと諸外国への影響が大きすぎます」
「外のやつらは何と言っている?」
「共和制のいくつかの国から、『レムールでいまだ暗黒の中世時代に甘んじている国民たちに、自由主義と共和制の精神を普及させよう。彼らを国王の臣民から市民にしてあげよう』というありがたいお題目で、武力介入をほのめかされています」
「余計なお世話だ」
「ええ、まったく。自由主義を政治につける万能薬とでも勘違いしているのかと言いたくなりますが、おそらくは口実で、領土の拡張、内政干渉が目的でしょう。しばらくはレムールの駐在大使たちの動きに注意しておかねばなりません」
ヴィルトゥスは元軍人将校らしく、戦争についてはそれなりに見識があるようだ。
しばらく考えてから、ぽつりと「今、戦争をおっぱじめるのはまずいな」と所見を述べた。
「どうやって外の連中を抑える?」
「レムールとクレスケンティアの統一王国が盤石だということを示すしかありません。リカルダ殿下とグラツィア様の結婚を強行するか、あるいは――」
シリウスは私の方を見て、にっこりした。
「レムールとクレスケンティア、両王家の血が流れているグラツィア様に、王を代わっていただくより他はありません」
私は驚きのあまり、息ができないほどだった。
私の母親は前王ラルウァの妹に当たる。だから、ラルウァ様は私の『伯父さま』で、リカルダとはいとこ同士の関係だ。
亡き王が私をことのほかかわいがってくれた理由も単純そのもので、私にはどうやら妹の面影があったらしいのだ。
クレスケンティア王太子だった私の兄は戦争で亡くなってしまったから、今は私が唯一の後継となっている。
「しかし、レムールにはリカルダの他にも継承者が残っているだろう」
私が女王となるのは、現実的に考えて不可能だ。
リカルダを除いても、私より継承順の高い傍系男子が何人かいる。
ヴィルトゥスの疑問に、シリウスは紙のバインダーを取り出した。
「そこで今回そちらのクレスケンティア公に内密のご相談がある、というわけなのですが。グラツィア様にもぜひ聞いていただきたい。少し長い相談になりますが、よろしいですか?」
「あの……あの、それじゃあ」
私は、何もこんなときに、と思ったけれど、それでもどうしても我慢できなかったので、言った。
「その前に、パスタはいかが? 今、ちょうどできあがりそうなところで……」
私は昨夜も遅くまで起きていたから、朝ごはんだってちゃんと食べられていない。さっきのパスタは遅めの朝昼ごはんのつもりで作っていたのだ。
ふたりは顔を見合わせて――なぜか、大笑いし始めた。
「グラツィア様の手料理ですか! いいですね。ご相伴にあずかるとしましょう」
「いえ、あの、パスタは私が仕込んだの……でも、お料理はマイア様が」
「いいだろう。レムールには本物のパスタがないと常々思っていたところだ。ここらでひとつ宰相どのにも本物を見せてやろうじゃないか。なあ、グラツィア?」
マイアの手料理でいったん中断したものの、密談は午後いっぱい続けられた。
おおまかにいえば、私をレムールとクレスケンティアの統一国女王として擁立しようということのようだ。いろんな話がめまぐるしく飛び交うので、私は頭がいっぱいになってしまった。
「本当にそれがうまくいくのかしら……?」
「レムール王政府の方は問題なく。私はこれでも宰相で、摂政評議会の議長ですから。あとは、クレスケンティア公がなんとおっしゃるかですが……」
本来、クレスケンティアの王位請求権首位の父を差し置いて、私が王位を名乗るのは筋違いだ。
「……確約はできんが、話すだけ話してみよう」
「頼みましたよ。公にはなんとしても同意していただきます」
結局、ヴィルトゥスが本国のお父さまに打診をしてみることで話は終わった。
「……レムールにいると、いろんなことがどんどん進むから、目が回るわ」
私のぼやきに、シリウスはまた、ちょっと失礼なくらい露骨に大笑いした。
「しばらくはこちらで手筈を整えますから、ゆっくりできますよ。しっかりご休養をお取りください」
それから去り際に、何かを思い出したように「そうそう」と切り出した。
「しばらくはお暇でしょうから、こちらでもどうぞ」
手渡されたのは、一冊の古びた、薄い、小さな本だった。
「昔、グラツィア様がほしがっていたものです」
私は何も思い出せなかった。少々気まずく思いながらそう告げると、シリウスはまた笑った。
「中を見れば思い出すかもしれませんよ」
その日の密談は、それで全部終わりだった。
***
私は大使館に間借りしている自分の部屋に戻った。こじんまりとした部屋で、カエデの木にニスを塗ったかわいらしい家具の他に、座り心地のいい上等なソファが三つそなわっている。
私は休憩のおともに何気なくもらった本を開いてみて、面食らうことになった。
「レムール語でも、クレスケンティア語でもないじゃない」
おそらくはもっと遠い異国の詩だ。
私も一応は宮廷儀礼で使われる外国語なども一通り習ったけれど、これはそういうのとも違っている。
読めないままにパラパラとめくっているうちに、何かの紙が差し挟まっているページが自然と開け、見覚えのある挿絵に行き当たった。
高い塔にいる女性だ。身に着けている服などからいって、中世の貴婦人だろう。
塔のそばには燕が一羽、宙を旋回しながら飛んでいる。そのはるか向こうに、跪いて貴婦人を見上げる詩人の姿があった。
見ているうちに思い出した。
その昔、青い目の男の子が読み聞かせてくれた本だ。
差し挟まっている紙は、詩の翻訳のようで、几帳面な字で『燕の歌』が書きつけてあった。
『今すぐ燕になってあなたのもとへ飛んでいきたい』
そのメモ書きを見た瞬間、いつかの夜会で人気のオペラ歌手が歌ってくれた恋愛歌のことが蘇った。
――やっぱりあれはルガーノ様の仕業だったの?
まさか、この詩は私宛てだとでもいうのだろうか?
もっとよく読もうと思い、紙片を取り上げた瞬間、あるかないかのかすかなベルガモットの香りがふわりと漂ってきて、私はもういてもたってもいられなくなった。この香りは間違いなく、シリウスのものだ。
私は誰が見ているわけでもないのに恥ずかしさに耐えられなくなり、メモ書きを戻して、本を閉じた。心臓がどきどきと早鐘を打っている。
王女として、贈り物はいくつももらってきたし、人にも渡してきた。
でも、『王の寵姫』と陰口を叩かれていた私に、この手の贈り物をしてくる人は皆無だった。
世間は私のことを、ときの権力者を狂わせた魔性の女だと思っているが、とんでもない。
実態は全然違う。
私には『名婦の書簡』のような恋文を書く能力もなければ、『カルメン』のように男をそそのかす才能もない。内気でぼんやりした娘だと父親に言われていたけれど、まったくその通りだ。
こんなときにどうすればいいのかなんて、全然知らない。