貴婦人と名誉騎士
私はクレスケンティア大使館の厨房でひたすら小麦粉を叩いては伸ばしていた。
初めは部屋で本や楽譜を読んでいたのだけれど、気がかりなことがあるせいか、少しも頭に入ってこなかった。
それで単純な力作業ならはかどるかと思って、小麦をこねてはカサレッチェ――S字型のショートパスタを作り、生地がなくなったらまた小麦をこねと、延々パスタづくりを繰り返していた。
せっせと生地を叩いているうちに、また昨夜のことが蘇る。
――好きな相手の気を引きたいあまりの……
私は耐え切れなくなって、生地を高くふりかぶると、思いっきり机の上に叩きつけた。
はあはあと肩で息をしながら、何をしているのかと自分で呆れてしまう。
――ルガーノ様はずるいわ。
急にあんなことを言うものだから、私は昨日、全然眠れなかった。ひょうひょうとしてつかみどころのない人だから、からかっただけなのは分かっている。それでも私はゆうべのことを思い出すだけで、顔から火が出るかと思うほど熱かった。
――あの方はいつもそうよ。人をからかって。
私がレムールに来た当時は、年がまだ子どもすぎて、ほとんどの宮廷の行事に参加することができなかった。シリウスはそんな私のことも平等に淑女扱いしてくれるような人だったのだ。ドレスなどへの賛辞も、他の貴婦人と同じ程度に分け与えてはくれたけれど、次の瞬間にはクレスケンティア訛りをからかうような、皮肉っぽいところも持ち合わせていた。だから私はぬか喜びをさせられては傷ついて、落ち込んでの繰り返しだった。冷たい、ひどい人だと思いつつも、彼が何かと私やクレスケンティアに対して心を砕いてくれているのも知っていたので、ただ冷たいだけではない何かも感じ取っていた。
――わたくしを好きだなんて、よくもまあぬけぬけとおっしゃるわね。
第一そんなそぶりなど一度も見せたことがないではないか。初対面のときの私は確かに子どもだった。でも、学園に入る直前には十六になっていたのだ。そのころになってもまだ必要以上に子ども扱いをする彼に、私はひそかに傷ついていた。
――もう少し、お優しくしてくださったら、わたくしだって……
私だって、なんだというのだろう?
シリウスが私に色目を使わなかったのはうなずける。彼なら『外国からお預かりした王女様』に対して軽率な行動は取らないだろう。
私だって、シリウスに言い寄られたって、心が動かされたかどうか。迷惑な御仁だと思いさえしたかもしれない。女好きで軽薄で、子ども相手にも見境がない、と。
でも、彼は、たくさんの欠点にもすべて目をつぶってもいいと思うくらいに、いつも私を気にかけてくれていた。それだけに、どうしていつも私を恥ずかしがらせたり困らせたりするようなことをして、親切を台無しにしてしまうのだろうと、不思議に思っていた。
シリウスのあの不可解な行動。
褒めてはからかい、からかっては親切にするあのやり口。
あれが、素直に好意を示したくても立場上できなかったという事情による、ひねくれた愛情表現だったのだとしたら。
そう考えたところで、私はまた小麦粉を乱暴にバンバンと机に打ち付けることになった。
――考えすぎよ。まだ少し好きだって言われただけじゃないの。
彼のことだから、単なる冗談だったとしても驚かない。なるほど、二年ぶりに再会して、私も少しは女らしく見えるようになったということだろうか。それで新たなからかいのレパートリーに恋愛感情のほのめかしが加わっただけ、なのかもしれない。
――でも、今だってわたくしはリカルダの婚約者のままだわ。
婚約はまだ有効なのだから、からかわれたって私にはどうしようもない。
目には目をの精神で、同じ手を使ってからかい返すわけにもいかないだろう。貴婦人が名誉騎士を囲うように、済ました顔をして彼のおふざけに付き合うことはできるかもしれないけれど、寵姫グラツィアへの批判が高まっている今、美貌で知られた宰相にまで色目を使っていたなどと騒ぎ立てられたりでもすれば、私の立場はかなり悪くなる。
どうしたって彼の好意に応えることはできないのだ。
でも、私が知らんぷりを決め込んだりしたら、彼は嫌な思いをしないだろうか?
そのうちにからかう気も失せてしまったりしないだろうか。
――からかわれたいわけでは、ないのだけれど……
決して、シリウスに翻弄されるのが好きなわけではない。
でも、彼に嫌な思いをさせることも本意ではなかった。
もしもシリウスが、からかいのうちいくらかでも、本当に私のことを好きだと思ってくれていたのなら。
それは、どんなにかいいだろう、と。
そこまで考えて、私はまた小麦の塊をべちべちと叩くことになった。
――わたくしったら、なんてはしたないことを……!
リカルダとの婚約はもう保たないだろうが、それでも婚約者のいる女として軽佻浮薄に過ぎる態度だ。
もっと気を引き締めて行動しなければ、と思い直した。
そうでなければ、足元をすくわれかねない。
――そもそも、破談になったとしても、わたくしはクレスケンティアに呼び戻されるだけだわ。
おそらくは父親のもとに保護されて、また別の王族のところへ嫁がされることになるのだろう。千年前から続く名門伯爵家のシリウスの家格が低すぎるということはないが、クレスケンティアの第一王女である私には世界中の王族から縁談が舞い込んでくるだろうし、その中から条件のいい順番に父親が検討していくとなると、シリウスが選ばれる確率は限りなく低い。
そして、そんなことはシリウスもよく分かっているはずだった。
――わたくしは、どうしたらいいのかしら。
寵姫グラツィアのラルウァ王毒殺容疑は、まだゴシップとして地下で囁かれている以外には動きがない。
シリウスはリカルダの廃嫡を言外に匂わせていたけれど、何をするのかは教えてもらえていなかった。
今後のことをあれこれ考えながら、いい加減にパスタを成型していたら、そこでマイアがやってきた。
作業台の上にびっしりと並べられたパスタを見て、彼女は目を丸くする。
「あら、ずいぶん作っちまったこと!」
「あ……つい……」
「いいよいいよ。あとは私がやっとくさね。ちょうどいいから、お客さんにも食べていってもらいなさい」
「お客様って?」
マイアはエプロンを身に着けながら、振り返りもせずに言った。
「レムール宰相のルガーノ伯爵がお見えだよ」
***
私は大急ぎで身支度を人に手伝ってもらったけれど、外に出られるようになるまで三十分もかかってしまった。
小麦粉が髪や服についていないのを確認してから、応接間に向かう。
クレスケンティア風の明るい天使の絵画がたくさん飾られた応接間には、すでにシリウスとヴィルトゥスが向かい合わせに座っていた。
「ご気分はいかがですか? 昨夜あんなことがあったばかりですから、さぞや動揺していらっしゃるだろうと思いまして、お見舞いに参りましたが……ああ、やはり顔色がすぐれないようですね」
――誰のせいよ。
私はそう言ってやりたかったけれど、ヴィルトゥスの手前、沈黙を貫いた。