民衆の蜂起
彼女が乾杯のコップを高く掲げ……ついで床に落とした。
粉々に砕け散るガラスの音を皮切りに、会場に一種異様な沈黙が立ち込める。
そして会場の男たちが一斉に動いた。
懐から赤い三角の帽子を取り出し、めいめいの頭に素早く被せる。
フリジア帽をシンボルにした秘密結社。過激な暴動やデモなどを多発的に繰り返すので、その名はすっかり民衆にとっても恐怖の対象となってしまった。
その悪名が、悲鳴とともに叫ばれる。
「自由党だ!」
「伏せろ!」
銃声が轟き、私のすぐそばにあったテーブルが破裂して小さな木片をばらまいた。私はヴィルトゥスに引き倒されるようにして床に伏せた。
いくつもの銃声があり、フリジア帽の男たちが私のところへと殺到する。殺すつもりはないのか、私の身を乱暴に起こした男が銃をしまって拘束しようとしてきたので、私は遠慮なく相手の足をふんづけてやった。
「動くな!」
大声でその場を制したのはヴィルトゥスだった。
ニーナを人質に取り、こめかみに銃を当てる。
わずかな時間、ヴィルトゥスと赤い帽子の男たちはにらみ合った。
「全員捕縛する! ひとりもこの会場から逃がすな!」
号令が飛んだ直後に、青と銀色の制服を身にまとった男たちがどっと最上階のフロアに乗り込んできた。あの制服は見間違えようもない。宮殿警備をする外国人衛兵たちだ。
旗色悪しと見たのか、私を確保しようとやっきになる赤帽子たちに抵抗して踏ん張っているうちに、あっという間に衛兵たちが割り込んできた。
「おけがはございませんか?」
私に手を貸してくれたのはシリウスだった。
「ええ……なんとか」
衛兵たちに警護されながら、私はシリウスについて宮殿の裏手に進んでいった。
「しかし彼らもずいぶん無茶をしますね」
呆れたように言うシリウスの目線の先で、あらかたの赤帽子の男たちが捕縛されつつある。
「一応捕まえて吐かせてみますが、無駄でしょうね。発砲した犯人は死刑にできるでしょうが、裏側の関与を立証するのは難しそうです」
「真犯人がいるのに彼だけ死罪というのもおかしな話ね」
「ええ、ですから助命嘆願のお手紙くらいは出しておくとよろしいでしょう。グラツィア様の心証がよくなりますから」
「もう、そんな話はしていなくてよ。悪い人ね」
宮殿の奥の部屋にかくまわれて、私はようやく人心地がついた。
入り口は衛兵が固めている。ここなら安全そうだ。
「……けが人が出なくてよかったわ。ルガーノ様が事前に警備を変更しておいてくれたおかげね」
「持ち物検査もさせていたはずなのですが、不覚を取りました」
「仕方がないわ。リカルダ殿下の手引きなら、宮殿のどこでもフリーパスでしょうし」
「次からはこのようなことがないように、検査を厳重化します」
「あまり無理はなさらないでね」
私を匿うための小部屋は、人払いがしてあるのか、無人だった。
遠くの喧騒をよそに、静まり返っている。
「では……」
「ルガーノ様、お待ちになって」
別れのあいさつに、手の甲へキスをするふりをして、すぐに去ろうとするシリウスを、私はつかんで呼び止めた。
「ルガーノ様がこないだ見せてくださった星。惑星オケアノスでしたわね?」
「ええ」
「あれの発見者はあなただって、雑誌で読みましたけれど……いったいどういうことですの?」
シリウスがばつが悪そうに視線をさまよわせる。
「そうですが、それがどうかしました?」
「まあ、おとぼけになるのね! 去年見つかったばかりの星だなんて大嘘じゃない! 一番初めに惑星だと気づいたのは子どものころで、暇を見つけて登録しようと思っていたって、インタビューではっきりおっしゃっていたではございませんか!」
私はヴィルトゥスに頼んで取り寄せてもらった雑誌でそのことを確認して以来、いつ問いただしてやろうかと待ち構えていたのだった。
シリウスはごまかすように微笑んでいる。
「……どうしてそんな嘘をおつきになりましたの? わたくしも小さなころのできごとでしたから、記憶違いかと思って流してしまうところでしたわ」
「どうしてだと思いますか?」
「分かりませんわ、そんなの……」
私はため息とともに言い、慌てて失言を悔いる。
「違いますのよ、またわたくしがルガーノ様に無関心だなんて拗ねていただいても困りますから、今度はちゃんと調べてまいりましたわ。本当よ。それでも分からなかったの」
私の必死な取り繕いようがおかしかったのか、彼はくすくす笑っている。
「ねえ、ルガーノ様、戦争当時はレムールにいらっしゃらなかったのだそうですわね? 共和制主義者のお父上が危険思想で取り締まられそうになって、ご一緒に亡命中だったのだとか……」
「ええ、そうです」
「もしかして亡命先は、イリュリスだったのではなくて?」
「どうしてそう思ったんですか?」
「わたくしも戦時中はそちらに預けられておりましたもの」
そう、なんのことはない、私が小さなころに見た星はまだ名前が登録されていなかったころのオケアノスで、隣に住んでいた男の子はシリウスだったのだ。
謎が解けたとき、私はどうしたらいいのか分からなくなってしまった。
まるで意味のない嘘のように思えたからだ。
シリウスは私の困惑などよそに、いたずらを成功させて喜んでいるのか、含み笑いをもらしている。
「本当に調べてくださったんですね。感激してしまいます」
「心にもないことをおっしゃらないで」
「まさか。本当にそう思っていますよ。私が黙っていたのは……」
彼はシリウスを探し回るヴィルトゥスの声に反応して、さっと立ち上がった。
「好きな相手の気を引いてみたいあまりの、幼稚な思いつきですから」
にこりと微笑んだシリウスに、私はとっさに何も返事ができなかった。
「もう行かないと」
「待って!」
私の制止には耳を貸さず、シリウスは本当にそのまま出ていってしまった。
しばらくして、入れ替わりにやってきたヴィルトゥスが、私を見るなり変な顔をした。
「……どうした? 何をそんなに驚いた顔をしている? 具合が悪いのか?」
私は何でもないと返しながらも、心に吹き荒れる嵐を抑え込むので精一杯だった。
***
翌日のパンフレットは寵姫のゴシップ一色だった。
『宮廷のチャリティコンサートに宝石尽くしの服で現れた放蕩王女Gは民衆を憂える心など一切なく、犠牲にあぐらをかいて贅沢をする貴族の在り方を体現するかのようだった。レムール国民は、彼女に向かって発砲した青年の勇気を、決して無駄にしてはならない』
『この驚くべき催しは貴族の慈悲の現れなのだという。彼らは困窮した人々を救うために贅沢に着飾って踊る。中でも放蕩王女Gの服は鳩の群れに迷い込んだクジャクのごとしであった。このことが、怒れる民衆の蜂起を促した』
『チャリティコンサートに集った慈善家の女性には新進気鋭の実業家夫人も多数見受けられた。しかし作法に並々ならぬ関心を示す王女Gは王子に近づく少女に辛辣な批判。王子は王女Gに愛想を尽かしていると衝撃発言』
『Gといえば先日学園内でいざこざを起こし王子から婚約破棄宣言をもらったばかりのお騒がせ王女。チャリティコンサートでは王子のお相手A嬢とキャットファイトを繰り広げ、参加者を呆れさせた』
一方で宮廷の御用新聞各紙は、自由党員の発砲事件と、そもそものコンサートの失敗を強調して書き立てた。
『昨日のチャリティコンサートは飢饉にあえぐ民衆のために開催されたが、民衆が困難に陥っているときの贅沢に良心がとがめた慈善家の貴婦人たちはそろって参加を見合わせたのが不幸中の幸いとなった。今回の発砲事件は参加者にけが人はなく、犯人はすみやかに捕縛されたと宮廷は報じた。』
『先だって行われたグラツィア王女の募金活動は大成功を収め、合わせて五万リラが民衆のために役立てられることとなった。しかしその一方で今回のチャリティコンサートは不謹慎だとする貴族たちにより不参加運動が繰り広げられ、集まった人数はわずかに八百人、金額は三千リラのみ、国のために貢献した王女に対しては鉛玉が撃ち込まれる騒ぎだった。』
『大失敗に終わったチャリティコンサートの最中、グラツィア王女がリカルダ王太子に向かって諫言する姿も見られた。このコンサートは王子と懇意にしている女優Aの進言で始まったと言われているが、当の女優は公式に定められた席次を無視して着席し、美しくドレスアップした姿で登場するなど、軽薄と取られかねない行動に終始していた。宮廷は彼女と発砲事件の犯人との関連を詳しく調べているとのこと。』
シリウスが一息つけたのは翌日の日が登ってだいぶ経ってからだった。
チャリティ・コンサートの大失敗を派手に喧伝するために、夜通し各紙に指示を飛ばしていたのだ。
そのままうとうとしていたら、王太子からの呼び出しを食らった。
「――どういうこと? よりによってなぜ王党派の新聞が僕を軽んじるんだ! グラツィアはダニアから来た女じゃないか! なぜ――」
「お怒りはごもっともですが」
シリウスは徹夜疲れをおして、彼を諭すためにあらかじめ用意しておいた言い訳を頭から引っ張り出した。
「新聞を目にする外国のことをお考えください。ここでレムールとダニアの結婚政策が決裂寸前だと知らしめれば、政情不安定と見た各国は通商条約を軒並み白紙に戻しますよ。戦後十年かけて建て直したレムール経済の基盤は根本から崩れ去ります」
「経済活動など自然に任せればいい。自由主義とはそういうものだろう」
「その言い訳が折からの不作に苦しんでいるレムール王国民に通用するとでも思っているんですか? ここで穀物の輸入価格まで釣り上げられたら餓死者が出かねない。冗談じゃありませんよ」
――たかが学生のお遊びで人の命をもてあそばないでください。
その声はなんとか呑み込んだ。リカルダには強い諫言がかえって逆効果となる。
「とにかく、これ以上国が乱れて他国からの武力介入など許そうものなら、リカルダ殿下のお立場もなくなってしまいますよ」
シリウスはなるべく優しい声を作って、続ける。
「外国には何が起こっているのか極力隠し通してください。通知が許されるのは一度だけ、すべてが終わったあとです。それまでは動向にお気をつけください。ニーナ嬢も」
「わ……私ですか?」
「新聞にスクープされてしまったのは残念でした。王妃になりたいのでしたら、結婚するまでは宮廷への出入りは控えていただきませんと、グラツィア様が退場する前に、あなたのほうが先に醜聞で消されかねませんよ」
「……はい」
「どこか私邸に身を潜めていただくのがいいでしょう。殿下も、よろしいですね?」
ニーナが不安そうにリカルダの服の裾を握る。この愛らしい仕草は見かけ通りのものではない。ニーナこそがリカルダを操る参謀だ。
はたしてリカルダは簡単にニーナの上目遣いに惑わされ、人目も憚らずにニーナの肩を抱いた。
「宰相どのは酷いな。僕は一分一秒だってニーナを離したくはないのに」
「殿下……私も」
「愛しているよ。ニーナ。君がいないと、いてもたってもいられないんだ」
ニーナはリカルダに可憐な笑みを見せてから、すがるような目でシリウスを見た。
「シリウス様、どうにか私を置いていただくわけにはまいりませんか? 屋根裏部屋でも構いません。従業員の部屋だって……」
「なりません」
このふたりを引き離すことが先決だと思っているシリウスは、容赦するつもりがなかった。
リカルダに了承を取り付けるまで、シリウスは辛抱強く三十分も説得を続けなければならなかった。