王妃の器
――まるで女神。あなたこそ本物の妃。玉座にふさわしい女性。
きっとニーナは、周囲にそう言わせるためだけに、王太子リカルダと付き合っていた。
愛していたとは思えない。ニーナはおそらく、リカルダに対しても怒りを燃やしていた。
「あの子は初め、本当は法律の大学の公開授業に参加したかったのだと言っていましたわ。彼女はもう学園――中等教育なんて必要ないほどだったのに、世間が許さないから、まずは学園で実績を積むことにしたのね。そこで貴族の閉鎖空間の歪みを全部身に受けることになってしまって……いつの頃からか、大学のことは口にしなくなってらしたわ。代わりに、リカルダ殿下との交際にばかりふけるようになっていったの」
彼を私から寝取ることは、ニーナを完全に無視してすまし顔をしている私への復讐でもあり、そして何よりも、彼女に理不尽を強いた貴族全員に対する復讐でもあった。
「……リカルダ殿下は、ニーナさんに騙されているのだと思いますわ。彼女が本当にリカルダ殿下を愛しているとはとても思えないもの。だから、目を覚ましてくださったらよかったのだけれど……」
でも、私はニーナとの争奪戦に負けてしまった。
リカルダを支えてともにいい王国を築くのが私の使命だったのに、果たすことができなかった。
物思いに沈んでいる私を、シリウスは少し皮肉っぽく笑い飛ばした。
「まるでリカルダ殿下には罪がないようにおっしゃいますね」
「でも……」
「いくらなんでもそれはお優しすぎると思いますよ。彼が自分でした不始末なのですから、グラツィア様が気に病むことはありません。彼は、罰を受けるべきです」
きっぱりと言い切るシリウスに、私は少し心が軽くなったような気がした。
「それにしても、ニーナという娘、要注意ですね」
「ルガーノ様もお気をつけて。あの子は見た目通りの十六、七の娘ではありませんわ」
あの子が庶民でさえなかったら、千年前にもさかのぼれるような名門貴族の輪に入っても決して物怖じせず、綺羅星のように輝く存在感を示していたことだろう。
貴族の令嬢たちも、それが分かっていたから、ことさらに念入りに集団から締め出したのだ。
私はあの子の中に、女神エデアの叡智を見た。
そして亡き王ラルウァ様の面影すらも。
将来は老獪な王をもしのぐ才能に育つのではないかと、思ってしまうほどに。
「わたくしは学園にいる間中、ずっと思っておりましたの。彼女は確かに王妃の器なのかもしれない、と。わたくしは、身を引くべきなのかも――」
「グラツィア様」
シリウスは礼儀作法に逆らって、私の手を強く引いた。
そんな風に乱暴にされるのは初めてだったので、私はびっくりして彼を見た。冷たい青の瞳に刺し貫かれる。
「それは、思っていても決して口にしてはなりません。他の者にも影響して、ついに真実となってしまうでしょうから。それではあなたを信じて支えてきた者たちに示しがつきません。私も含めて」
「ごめんなさい」
「王族が簡単に謝意を口にするのも、いいことではありませんね」
その通りだと思い、ふたたび「ごめんなさい」と口にしかけて、私は黙り込んだ。
卑屈な気持ちに心を占領されてしまった私に、シリウスがふっと笑みをこぼす。
「お疲れでいらっしゃるようですね。無理もありません。パンフレットは連日グラツィア様の下世話な妄想を書き立てていますし、これだけの事態を引き起こした張本人のリカルダは救いようがないほど愚かです。ニーナ嬢も一筋縄ではいかない相手のようですし、神経が参ってしまうのも仕方がありません」
私は自分で思う以上に心が弱っているようだった。
シリウスがねぎらってくれるのでさえ、申し訳ないと思ってしまう。
シリウスは「いいですか」と前置きして、少し長い話をするのだというように、私の傾聴を求めた。それは彼の癖だった。議会、パーティを問わず、彼は演説を始めるときに、あらかじめ「いいですか」と断るのだった。
「グラツィア様の魅力は、その身に流れる古い王朝の血と、その王朝が何年にもわたって受け継いできた正義、秩序、正しき信仰の擁護者たらんとする気高いお心です。王の末裔の青い血に眠る、特別な才知を非常に早くから開花させた、涙ぐましいまでの献身です」
レムール王国宰相の演説には定評がある。貴婦人のファンも多い。
美しい言葉の洪水が真実だとは思わなかったけれど、ともあれ慰められていることは分かった。
「六年前の宮廷の朗読会のことを覚えていませんか? あのときもラルウァ様は感心していらっしゃいましたよ。まさか、聖体拝領前の娘が四万行からなる古典名作の朗読会に最後まで耐えるとは思わなかったと。グラツィア様はついにひと言も愚痴をこぼさなかったのだと」
朗読会は大人の貴族でも苦行と認識する人が多い。じっと座って話を聞き続けなければならないからだ。
でも、私はそれほど嫌いではなかった。
「……ただ黙って座っていただけのことが、どうして感心に値するというの」
「覚えていらっしゃいませんか? リカルダ様はいつも隙を見て裏口に回り、ポンチの催促をすると見せかけて、戻ってこないのが常でした。ラルウァ様も連れ戻すために手を尽くしたようですが、無駄だったようですね」
「……リカルダ殿下は要領がいいから」
「しかしラルウァ様は、殿下にこそあの話を聞かせたかったんですよ。グラツィア様があのときに述べたお世辞、『まるで先日の戦争と同じで、改めてあの戦争が意義のあるものだと分かった』を、殿下の口から言わせたかったのです」
「……殿下だって、おじさまの狙いには気づいていたと思うわ。ただ、反発したかっただけで……」
「それは買い被りがすぎるというものですよ。リカルダ殿下は退屈だったから逃げ回っていたにすぎません。朗読の内容など少しも理解できていなかったでしょう。あれはレムールの古語まじりで、子どもには少々難解ですからね。そしてこれが、無能王子とあなたとの決定的な差です」
シリウスが何を言いたいのか、私にはちっとも分からなかった。
「いいですか。年若い敗戦国の王女が、虜囚の辱めを受けながらなお大人顔負けの社交儀礼を見せつけたんですよ。『戦争には勝ったが、レムール王室はクレスケンティア王室の真なる古い血統に敗北した』とラルウァ様が嘆いたのも無理のないことだったでしょう」
「……それこそ買い被りですわ。わたくしは……ただ、生きるのに必死だっただけ……」
誰だって敵国に捕虜として放り込まれ、始終監視される生活を送っていたら、嫌でも礼儀正しく振る舞おうとするだろう。
私はただ、恐怖や不安にかられて、見よう見まねでレムールに馴染もうとしていただけに過ぎない。私が特別に優れているところなんて、何もないのだった。
シリウスは微笑んで、続ける。
「では、今度も必死になってください。あの娘はあなたを蹴落とすためなら何でもするでしょう。殺されたくないのであれば、必死にあがいてください」
「……そうね。あの子は私をおじさまの殺害犯に仕立て上げて、断頭台送りにしようとしているのだものね……」
これは、生き残るための戦いなのだ。
私はもっと、必死になって抗わなければならない。
それこそこの国に人質として連れてこられたときのように。
あのころはなんとかうまくやりおおせた。
でも、今回もうまくやることができるだろうか。
「チャリティコンサートの成功はなんとしても阻止するべきでしょう。いかがいたしましょうか?」
「そうね……」
私は空のカップに目をやった。
庭にしつらえたお茶のセットはあらかたが食べつくされたが、話し合いにはまだ時間がかかりそうだ。
私はお茶を淹れるために、いったん立ち上がった。
シリウスとはその日の午後いっぱい話し込んだ。




