クルミの王国
翌日の早朝、自由党の超過激派によってばら撒かれたパンフレットはグラツィアのバッシングに終始していた。
『クルミの中の小さな王国からやってきた負債の象徴にして浪費家の悪女Gは、常にきらびやかなパーティのことで頭がいっぱい。学園から戻ってすぐに舞踏会を開催し、美男のオペラ歌手などを物色して楽しんでいた。社交界に浮き名を流す名演奏家たちのうちの一体何人が彼女の手厚い<援助>を受けているのか――』
また、その日は音楽雑誌『ムシケ』が特別号外を発行したことでも話題になった。
ムシケ誌は大物作曲家による未発表の恋愛歌がクレスケンティアの大使館でお披露目されたことを大きなスクープとして報道していた。ページの限りを尽くしてクピドが歌った新しい恋愛歌を称賛し、彼の力強い歌声と色気のある超絶技巧を臨場感たっぷりに書き連ねた。さらに高貴な令嬢Gが飛び入りで披露した歌にも惜しみない賛辞を送り、『深い嘆きの表現で、聞くものの胸を打った』と評した。
一方で、宮廷舞踏会には儀礼的に触れるにとどめ、新しいメゾ・ソプラノの歌手の誕生については、ついに一文字たりとも書くことはなかった。
「どういうことなの? 説明してくれる?」
シリウスはリカルダの詰問からわが身を守るように、両手を軽く持ち上げた。
「だから『ムシケ』は買収されるような雑誌ではないと申し上げたでしょう」
「それにしたって不自然だ。すばらしい歌だったのだから、ひと言くらいは触れるのが筋だろう。それにグラツィアの歌はお世辞にもうまいとは言えないし……これではとても公平な審査とは思えない」
彼の推測は正しい。ムシケの文面はほぼシリウスの筋書通りだからだ。
それでもそんなことを顔色に出すほどシリウスは甘くなかった。
「しかし、ニーナ様の参加自体、公平なものではありませんでしたよね? ムシケ誌はおそらく、参加をご辞退なさった名高きヴィルトオーゾたちに敬意を表したのではないかと。彼ら音楽家たちの神は女神でもレムール王でもなく、偉大なる音楽の神アポロンやミューズたちですから」
ニーナは唇をきつく結んで話の成り行きをうかがっていたが、ふと笑い声をあげた。
「……王太子への阿りよりも自らの信条を取る。それでこそ新しい時代の担い手たちです」
「ニーナ……許してくれるかい?」
「ええ。私は気にしていません。私たちの目的は、もっと高いところにあるのですから」
慈悲を垂れるニーナに、彼は心を奪われたようだった。
「世界中探したって君のような子はいないよ。君こそ僕の運命の人だ」
「殿下……」
ふたりのやり取りをはたで立ち聞きしながら、シリウスはなんとなく、主導権が誰にあるのかを察し始めていた。
「それにしてもシリウス様、ゆうべはありがとうございました。私、あんなに大きな舞踏会に出られて、夢みたいでした」
はにかんでシリウスに礼を言うニーナは、年相応の、純朴な小娘に見える。しかし、見た目通りではないのだろうとシリウスは笑顔の裏で考えた。曲がりなりにも古い伯爵家であるシリウスに対して、親しげに『シリウス様』と名前で呼びかける度胸があるのだ。宮廷における作法の初歩、親しくない貴族に対しては基本的に爵位で呼びかけることも知らないほどの馬鹿か、あるいは伝統を軽視できる鉄面皮か、いずれにしろまともな娘ではないだろう。
「それにしてもシリウス様って、とてもお若い方だったんですね。私、議会の広報や天文学雑誌の論文などでよくお名前を拝見していたので、てっきりおじいちゃんみたいな人かと思っていました」
――天文学の?
シリウスはひそかにいぶかしんだ。それは確かにシリウスの趣味だ。一応、これから馴染もうとしている組織のことを事前に調べてくる程度の知恵は回るらしい。
「とても素敵な人だから、驚いてしまいました」
リカルダが睨みをきかせているのを察知して、シリウスは遠慮するようなそぶりを見せた。
「優雅なリカルダ殿下に比べたら、私なんてもうおじさんですよ」
「そんなこと! 的確な政策を次々に打ち出されるから、五十歳くらいの方なのだろうと思っていたんですよ。それが、こんなに素敵な人で……」
シリウスは鼻白んだ。自身が政治家としてよりも、むしろレムール議会の歌劇無きオペラ俳優として有名だということを知っていたからだ。彼女も噂話を集める過程で、そのことが耳に入っているはず。見え透いた世辞はシリウスを不快にした。
「特にクレスケンティアとの関係調整にはとても気を配ってますよね」
「ええ……難航する場面が多いのは事実です」
「さぞや歯がゆいのではないかと思います。私が思うに、あの『クルミの中の小さな王国』は、時代に取り残されている」
シリウスは思わずニーナを見た。
彼女は微笑みを浮かべていた。何気なく放たれた発言が、実はシリウスを狙った必殺の一撃だということを確信する笑み。
「シリウス様も、本当はクレスケンティアとの合併を望んでいないのでは?」
――見抜かれた。
シリウスは冷や汗を感じた。これまでずっと注意深く隠してきたのに。
世界には新しい思想が吹き荒れ、国の在り方そのものが変革しつつある。
しかしその一方で、クレスケンティアだけは変わらない。住人のほとんどが古い信仰を頑迷に守り、何百年と変わらぬ方法で畑を耕している。
『クルミの中の小さな王国』は、美しいおとぎ話の世界であると同時に、迷信にしがみつく老婆の安楽椅子でもあった。
しかし、レムールの王国民はほとんどそのことを知らない。亡き王やシリウスが注意深く報道から守ってきたからだ。民族性という幻想の高揚で巧妙に目くらましをしているが、クレスケンティアはレムールに国力で大きく劣る。合併を果たすことに、メリットなどなかったのだ。
「今度、私の実家のパーティにお越しになりませんか? 今をときめく名宰相のシリウス様がいらっしゃったら、みんなとっても喜ぶと思うんです。それに私も、シリウス様ともっとお話がしてみたい――」
「ニーナ」
かたわらのリカルダがたまりかねたように声を発した。
このときばかりはシリウスも、彼の無能に感謝したくなった。
「私になにか御用があれば、リカルダ殿下にお伝えください」
シリウスがリカルダにおもねるようにして言うと、彼は満足げにうなずいた。
「そうだよ、ニーナ? 君の婚約者は誰か、思い出させてあげないといけないかい?」
「殿下、これはそういうことじゃなくて……」
「熱中すると周りが見えなくなるところも可愛いけれど、僕のことを忘れるのはひどいな」
「やだ殿下、殿下のことはもちろん一番ですよぅ」
先ほど見せた誘いのときの意味ありげな微笑はどこへやら、彼女は困ったように眉を下げた。賢しらなしゃべり方も、少女らしい我がままな振る舞いと見事に調和し、かわいらしい雰囲気に収まっている。
――無能王子ぐらい手玉に取るのもわけはない、ということか。
「今日はたくさん可愛がってあげるから、覚悟していてね?」
「え、ええー……勘弁してくださいよう……」
リカルダから敵意と優越感の入りまじった一瞥を受けて、シリウスは胸が悪くなってきた。
彼らの事情などどうでもいいが、羨ましいだろうと言わんばかりのリカルダの振る舞いには、少なからず苛立った。
なるほど確かにニーナは美しい娘だ。みごとな歌声も持っている。
しかし、シリウスにとってはひたすらどうでもいいことだった。
「……ああ、私の女神、あなたこそ玉座にふさわしい」
シリウスがだしぬけにつぶやいたオペラの一節に、ニーナは小さく反応した。大方、自分のことを言われたとでも勘違いしたのだろう。目を輝かせる彼女に、リカルダの機嫌がまた少し悪くなったのを感じる。
――何もかもお笑い草だ。
だって、シリウスにとっての女神は、グラツィアに他ならないのだから。