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オペラとマカロニ


 私は午前いっぱいかけて荷ほどきをして、ゆっくりお風呂に浸かり、浸かるのにも飽きてしまうと、マイアの勧めで、娘さんやお手伝いさんたちと一緒にマカロニのパイを作っていた。


 クレスケンティアの女性は料理上手で有名だけれども、貴族に手料理をさせるのは世界的にも珍しいらしい。そんなところがことあるごとにシリウスから田舎の国とからかわれてしまう理由でもあるのだけれど、私自身は料理が好きだった。マイアももとは巨大なワイン商の娘で、ワインにはおいしい料理が欠かせないという父親の信条のもと、いろいろと仕込まれたのだそうだ。マイアの作る料理は祖国の味そのもので、召し抱える料理人たちも一流ぞろいだ。彼女が主催する大使館の夜会は、美食家が宮廷行事を放り出してでも詰めかけるほどだと言われている。


 料理は一心不乱に作っていると気が晴れる。


 予定よりもだいぶどっさりと作ってしまったところで、ヴィルトゥスが顔を出した。


 朝から押し寄せる報道陣への対応でてんやわんやだった彼も、香ばしい匂いにつられて空腹を覚えたらしい。


「やあ、おいしそうだ。俺にももらえるのかな」


 彼は焼きあがったばかりのパイをほんの二、三口つまむと、しみじみと絞り出すように言った。


「うまい」

「この人はいつもそればかりですよ。仮にも大使ならもっと貴族的な言葉で褒めてくれてもいいだろうにさ」


 悪態をつくマイアもまんざらではなさそうだ。

 仲の良い夫婦のありように触れて、私もつられて笑みを漏らした。


「仕方がないだろう。俺が学生の頃は軍人らしい所作こそが貴族の誉れだと言われていた。だが、時代は変わるな。今じゃ名士の子女のみならず、貴族までもがこぞって音楽家になりたがる。宮殿の舞踏会もさながらミニ・オペラの会場だ」


 彼はメッセージカードを携えていた。小さく振った拍子に、箔押しがきらりと光る。赤地の盾形紋章に白い十字が斜めに入った意匠はシリウスの家門、ルガーノ伯爵の紋章だ。


「今夜の宮廷舞踏会のプログラムが一部変更になった。なんでも王太子の恋人がメゾ・ソプラノの歌手としてデビューするのだそうだ」


 私は息を呑むしかなかった。


「ニーナさんが……? 確かに、歌は上手ではあったけれど……」


 学生の中では最優秀の成績が取れたとしても、宮廷のコンサート付き夜会は次元が違う。

 世界に名だたる名演奏家ヴィルトオーゾたちと共演する度胸が彼女にあるだろうか。


「皇太子殿下が今日の夜会にどうしても出席させると言ってきかなかったのだそうだ。歌手デビューというのは苦肉の策だろう。まったく馬鹿げているがな」


 ヴィルトゥスは肩をすくめた。


「それで急遽、今夜出演を予定していたルモンテ公妃にご遠慮いただくことになったらしい。公妃は大層ご立腹だそうだ」


 当然だ。公妃がいくらいい人だからといって、平民の娘に無礼を働かれたのでは威信にかかわると考えるだろう。外交問題にも発展しかねない。


 かといって、レムール宮廷としても愛妾のデビューに公妃を出席させるわけにもいかなかっただろう。公国がニーナの存在にどのような立場を取るかも決めないうちに顔合わせをセッティングするのは、ほぼ騙し討ちに近い。ルモンテ公妃には出席を拒否する権利がある。


「待って、他の貴族の方々は……?」


 公妃のみならず、レムールの貴族たちにももちろん、出席を拒否する権利がある。


「ほとんど参加を見合わせるようだ。それで、シリウスが困り果ててうちのホールを貸してくれないかと言ってきている」

「あら、いいじゃない?」


 反応したのはマイアだった。


「今から支度すれば四、五十人くらいは引き受けられるさね」

「助かる。公妃と共演予定だった音楽家たちも同時にボイコットするようなんだ。名前は、ええと、確か――オルナメンタ、アポロニア、クピド……」

「クピド様がうちに来るの!?」


 目を輝かせたのは、今年十歳になるマイアたちの娘だった。


 クピドというのは本名ではない。古代の愛の神から拝借した芸名だ。非常に名声を博したオペラ歌手で、彼よりも低い声で歌える人はいないとも言われている。


 美男としても有名で、社交界きっての人気者だった。


「すごいわ、クピド様の歌が聴けるなんて!」


 はしゃぐ彼女の頭をひと撫でしてから、ヴィルトゥスは『忙しくなるぞ』とつぶやいた。


***


 ニーナがピアノの横でわき目もふらずに譜面を読んでいる。


 練習にはげむ彼女の邪魔にならないよう、シリウスとリカルダは少し離れた位置に陣取っていた。


「出席者が三分の一になったっていうのは、どういうことだい?」


 シリウスは視線をさげて、恐縮しているようなそぶりを見せた。


「なにぶん急なことですから……」

「愚かなことを。今日の宴で次の王妃を紹介しようとしているのに気づいていないのかな?」


 ――愚かなのはあなただ。


 女神教徒は原則として異なる身分間での結婚を認めていない。平民のニーナが王妃の資格を持たないのはもちろんのこと、王族のグラツィアを差し置いて新たな女性を紹介するのは、クレスケンティアを始めとした各女神教国家への侮辱と受け取られかねない愚行だった。


 この夜会で、リカルダの国際的な評判は地に落ちるだろう。


 もっとも、この状況を利用して、なるだけ出席者をクレスケンティアの大使館に誘導したのはシリウスなのだが。


 各方面への連絡だけで、シリウスの午後の仕事は吹っ飛んだ。


 ――私だって暇ではないというのに。


「今日、来た貴族と来なかった人たちのリストを回しておいて。あとでお礼をしなくちゃね」


 シリウスはただ、無心ではいと返事をした。何も考えないようにしていないと、とてもやりきれなかった。


 会話の切れ目に、ピアノが鳴り響く。

 ニーナがピアノ教師の指導に合わせて短く歌った。


 ――涙の川を越え、苦しみの谷を渡ってきました……


 歌声は本物のオペラ歌手に比べればか細く拙いが、音は正確で胸に迫る美しい響きを持っており、難易度が高いコロラトゥーラもぎりぎりでよく保っている。


 ――けれど甘い恋の魔法が私の運命を変えてしまったのです……


 貴族令嬢がものするアリアは聞くに堪えないものが多いが、彼女の歌は耳を傾けていても不快となるほどではない。


 しかし、選曲がシリウスにははなはだ不敬で大胆だという風に映るせいか、素直に聞くことができなかった。


 オペラ『灰かぶりチェネレントラ』の『涙の川と苦しみの谷』は、灰まみれで継母と姉たちにこき使われていた不遇の娘が、王子から求婚され、一躍妃となったときに、喜びいさんで歌うアリアだ。


 彼女の心の美しさが威厳となって表れ、周囲で見ていた民衆も口々にこう歌う。


「……まるで女神だ。われらの愛しき女神エデア。ああ、あなたこそ妃にふさわしい……」


 シリウスがアリアの一パートをつぶやくと、ニーナがすばやく振り返ってにこりとした。


「私の、一番好きな歌なんです」


 晴れの舞台にこの曲を選んだ彼女の心理はいっそ無邪気といってもいいほどで、シリウスは暗澹たる気分だった。


 ――自分たちの関係がオペラのように祝福されると信じているのか。


 彼女は知らない。オペラがただの夢物語であることを。

 うっとりするような美しい成功譚は、現実には起こりえないのだということを。


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