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故郷の味


 警備兵が手分けをして交通整理をしてくれたおかげで、馬車はあっけなく大使館の敷地内についた。大使館の敷地内は法律が異なる。この内側であれば、いかに王太子といえども簡単には手を出せない。それが分かっているから、ヴィルトゥスも少し気をゆるめたようだった。


 馬車から降りるのに手を貸してくれながら、ヴィルトゥスは、日光の下で私の顔をよく検めようと、近くに身を寄せた。


「……すっかり見違えたな。最後に会ったのは二年前か」

「マイア様はお元気?」


 私がヴィルトゥスから手を離しながら言うと、彼は少しギクリとした。


「……ああ、もちろん。お前のために包みパイを焼くと言っていた」

「うれしいわ。私マイア様のティンバッロ大好き!」


 ヴィルトゥスの妻、マイアのことは、私がレムールへ人質に取られると決まったときに紹介された。陽気な彼女のクレスケンティア訛りを思い出して、懐かしくなる。


 大使館のゲストルームの扉を開けた瞬間、焼きたてのティンバッロの素敵な香りがして、私は歓声をあげた。

 恰幅のいい女性が振り向き、私はがばりと抱きしめられた。


「グラツィア! ああ、良く戻ってきましたね、どれ、あたしによく顔を見せておくれ」


 マイアの胸には白いエプロンがかかっていて、オーブンからの移り香をいっぱいにまとわせていた。香ばしいバターと小麦粉の香りに包まれて、私は泣きそうになった。


「まったく酷い話だこと! みんなでよってたかってグラツィアをイジメるなんて! あたしは全員殴ってやりたいよ!」


 懐かしい故郷、クレスケンティアの訛り。私にはそれが特別な親しみのこもったもののように聞こえてしまい、余計に涙を誘った。


「泣くのはおよしなさい! たくさん食べて、飲んで、のんびりお風呂にでも浸かって、うんといい服を新しく仕立てれば、きっと気も紛れるはずですからね!」


 マイア特製のパイにナイフが入り、具だくさんの中身が零れ落ちるのを目撃しては、先ほど食べたクロワッサンのことも忘れてしまうというものだ。


 私は半泣きでパイをたくさん食べた。


***


 シリウスが宮殿の門の外に密集している自由党を追い払うべく、衛兵に指示を出していると、ふいに大きな歓声が聞こえた。


 どうやら正門に面したバルコニーで何かがあったらしいという報告が飛んできたとき、シリウスはまさかと思った。正面衝突にはまだ時期尚早だ。しかもバルコニーで?


 シリウスは慌ててそちらに回った。どうやら室内に侵入者はないらしい。注意深くカーテンの陰に隠れて、外の様子を窺う。


 バルコニーに立っていたのは、王太子のリカルダだった。

 シリウスは色を失う。


 ――あの無能……!


 狙撃されたらどうするのだと一瞬大いに焦ったが、そもそもこの暴徒自体が王太子の手の者であろうことは明白だった。となれば、一芝居打つつもりに違いない。大方、サクラの前で世論操作用の演説をぶちあげ、後日美談としてパンフレットを回すといったところだろう。


 シリウスは飛び出していって、リカルダの腕を強引に取った。


「おやめください、王太子殿下、御身に危険が及びます!」

「いい、彼らには私から言って聞かせる」


 そうはさせじと、シリウスは衛兵を大声で呼び集め、『王太子殿下を狙撃から守れ!』と怒鳴りつけた。軽い混乱に見舞われる現場から巧妙に一歩下がり、バルコニーの下に向かって叫ぶ。


「殿下はこのような暴動を起こした者たちに断固とした態度で挑まれる! 貴様らは全員監獄送りだ!」


 暴徒の大半がサクラという見立ては当たっていたらしく、怒りにざわめく群衆にはまだ武器を取る様子が見られない。


「全員捕らえろ! 殿下のお命を狙う不届き者を一人たりとも逃すな!」


 衛兵の間で甲高い笛が鳴らされ、塔の各地に配備されていた大砲が正門に向けて照準合わせを開始する。


 威嚇の空砲が鳴ったところで、パニックが起きた。


 ちりぢりになって逃げる群衆を衛兵が追い、腐ったトマトや卵が飛び交う。


 銃撃戦になる恐れがあったので、シリウスは衛兵に王太子を捕まえさせて、奥の間に引っ込んだ。


「なんてことをなさるのですか! あなたの身に危険が及んだらこの国は終わりですよ!」


 血相を変えて怒鳴りつけるシリウスに、リカルダは苦々しく舌打ちした。


 ――生意気な小僧。


 興奮しやすく、血気に逸ってことを為すが、それ以上に愚行をきつく咎められて育ったので、抑えつけられた者特有の面従腹背が身に染みついている。


 王太子である彼をなだめすかして言うことを聞かせるのは、亡き王からの遺言で摂政評議会の議長に指定されて以来、ずっとシリウスの仕事となっていた。


「ああするのが一番だと思ったんだ。あなたはなかなかやってこないし」


 賢しらな言い訳は彼の特技だ。シリウスには説教してやりたいことが即座に何十と思い浮かんだが、すべて呑み込んで頭を下げた。


「到着が遅れまして申し訳ありません。ですが、猶予をいただけたおかげでどうにか王女殿下は無事に保護しまして、先ほど大使館の方へお連れしました」

「それは……ともかく、無事でよかったよ。心配していたんだ」


 ――よくもぬけぬけと。


 本当に心配であれば、最初から郊外に監禁したりはしないだろう。人目を憚って拘束などせず、宮殿にまっすぐ連れてくればよかったのだ。そうしなかったのは、自由党に襲撃されて、誘拐されるところまでが筋書きだったからだろう。シリウスがあと少し遅ければ、この暴徒たちがあの私邸に押しかけ、グラツィアを誘拐していたに違いない。本当に危ないところだった。


 どさくさに紛れて自分のところに匿う作戦はヴィルトゥスのせいで阻まれたが、あの方がよかったことはシリウスも分かっていた。


 グラツィアが自由党の暴徒によって『偶然』誘拐されたあとは、王女の醜聞を面白おかしく書き立てることもできるし、そのまま行方不明とすることもできる。殺人まで行くと大事になるが、醜聞によって、王妃には不適格だと民衆が思うまで評判を落とせば、それでリカルダの目的は達成される。


 はじめはまさかリカルダにそこまで大胆なことができるとは思っていなかったが、朝方、自由党の蜂起の報を聞いた瞬間に確信に変わった。


 リカルダは今現在、自分の考えで動いていない。

 とびきり優秀で、ときには冷酷にもなれる誰かが、彼を裏から操っている。


 ブレーンは、いったい誰なのか。


 あたりを落ち着きなくきょろきょろと見まわしていたリカルダが、ふいに大廊下の柱の陰に目を留めた。


「ニーナ。そんなところにいたのか」


 薄桃色の艶を帯びたやわらかそうなくせ毛の少女が、おずおずと出てきた。


 リカルダが彼女を抱き寄せ、シリウスに向かって言う。


「ところで、今日の舞踏会にはニーナも連れて参加したいんだけれど」

「……それは……」

「難しいことは分かっているんだ。彼女の父親はウィンクラー国の男爵位とはいえ、これまで宮廷に出入りしていたことはないし」

「ウィンクラー国……ですか」


 かの国が金に困って爵位を乱売していたのはつい先日の話だ。ウィンクラーの男爵、子爵といえば、怪しい成り上がり者の代名詞に他ならない。そんな出自の者が彼の特別な女性として紹介されれば、驚きと嫌悪をもって受け止められるだろう。


「せめて、仲介していただけそうな、仲のいい貴族の方や執政官のお名前にお心当たりなどは……?」

「いたら、宰相殿に相談なんてしていないよ。あなたがいいように手配してくれるのが一番だと思ったんだ」


 ――無茶を言う。


「何かいい方法はないかな?」

「そうですね、少し検討する時間をいただけますか」

「うん。頼りにしているよ」


 話の終わりを察知した少女が、そっとリカルダに寄り添う。甘く笑み崩れて少女の細い背に手を回すリカルダは、幸せそのもの、といった表情だ。


 少女はリカルダに視線を向けながら、ちらりと抜け目なくシリウスを見た。その目つきが異様であるような気がして、シリウスは寒気を覚えたが、見間違いだったのか、彼女はすぐにリカルダへ甘い声で話しかけた。

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