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婚約破棄と殺人容疑


「グラツィア。今日を限りに、君との婚約は破棄させてもらう」


 静かな宣告は間違いなく私、グラツィア・クレスケンティアに向けられていた。彼が突き付けた言葉の剣は正確に私の胸を射貫き、身動きを取れなくさせる。パーティドレスの胸に飾った深紅の薔薇がまるでこぼれた血のように見えた。


 私と差し向かいに立つのは目のさめるような美しい金髪をした青年だ。少し線の細いきらいはあるけれども、長身できびきびと動く姿は同い年の誰よりも利発そうで、見栄えがした。


 私は彼の張りのある声を聴いて、かすかに郷愁を呼び起こされた。よく似た響きの声をいつも身近に聞いていたからだ。

 婚約者の彼よりも、折り重ねた年の分だけ艶を失い、ひび割れていたその声。病床にあって衰えた身体のどこからそれほどの情熱がわいてくるのだろうと不思議になるような、力強く淀みのない声。私が懐かしむその声に比べれば、青年の声はまだ生まれたてのように瑞々しく、小さな摩擦や圧力でたやすく傷ついてしまいそうな響きを持っていた。


「代わりに、ニーナ、この子を僕の婚約者とする」


 青年の傍らには学園の制服を身にまとった少女が寄り添っている。丈夫だけれども地味で、最低限の礼服としての機能しか持たないラシャのミニスカートという出で立ちは、彼女が今日のパーティへの参加資格を持たないことを物語っていた。華奢な腰には青年の腕が回されており、ひと目見ただけで両者がただならぬ仲であることを窺わせる。


 場違いな制服の少女は青ざめて震えていた。繊細な薄桃色の花を煮詰めて作ったジャムのような女の子で、話し方も甘ければ、仕草や人格に至るまで、すべてがとろけるように甘ったるい。青年は甘い蜜のような少女を腕に抱いて、励ますようなそぶりさえ見せた。


 青年は、私、クレスケンティア王国の王女・グラツィアの、婚約者――であるはずだった。

 腕に抱かれるのも、やさしく気遣われるのも、本来は正統な婚約者の私であるべき、はずだった。


 糾弾の憂き目に遭っている王女グラツィア――

 つまりそれが、私だ。


 私は傍目にどう見えているのだろう?


 尋ねてみるまでもなかった。ぐるりと矢を射かけるように向けられている無数の視線は、確かに私を冷たく包囲していた。青年の号令一下、いつでも私を死体に変えられるという寸法だ。


「リカルダ王太子殿下」


 私は婚約者の名を呼んだ。

 私は学園内でも、彼のことを同級生の友達として扱ったことはない。身分と爵位を明確にした私の呼びかけは、何を言っているのあなた、という非難の意味も多分に含んでいた。


 私たちの結婚は国事ではなかったの。王族に生まれついたあなたが、どうして私たちの婚約を一方的に破棄できるとまで思いあがったの。


「来月の評議会で、グラツィア、君の悪事をすべて話す」

「悪事……ですって? どういうこと……?」


 ホールには生花のリースとシャンデリアが無数に吊り下げられ、天井を狭く見せている。貴族の子女が集うこの閉鎖空間の、やりきれない息苦しさを象徴しているかのようだった。


 その中央で、私は阿呆のように突っ立っている。蝋のように白いと言われる頬、美しさよりは冷酷さを想起させるきついまなざし、つんととがった生意気な鼻。物語に出てくる魔女のように黒い髪、何かを企んでいるかのように薄く吊り上がった赤い唇。春の花や希望といったようなものを思わせる少女とまっすぐ前を見据えて相対する私は、邪悪な人食いの魔女にも、あるいは売国の毒婦にも見えるに違いない。


 否――売国の毒婦というのは、意外と的を射ているのかもしれないが。


「グラツィア。君の罪状は、君自身がよく知っているはずだ」

「罪状――? なんのことか、わたくしには分かりませんわ」

「君は僕の父を毒殺した」


 ――毒殺。


 穏やかでない言葉が発せられたというのに、周囲の人間は誰一人として驚きもしなかった。すべてはあらかじめ仕組まれた台本のうちだということを、私はこのときにようやく悟った。遅きに失したのだと思う。


 気がついたら、私の味方はどこにもいなくなっていた。


「ラルウァ様の死因は毒殺なんかじゃありませんでしたわ。あなただってよく知っているはずよ」

「そんなことはないよ。僕はその場にいなかったし、伝聞でしか知らない」


 私は平気でうそがつけるリカルダに目まいを感じたが、なんとかこらえて、別の糸口を探した。


「とうに亡骸も埋葬されている方なのに、今更どうやって毒殺を新発見したというの?」


 そう、死体がなければ毒の痕跡も探しようがない。神をも恐れぬ思想が流行する昨今、医者が実験台欲しさに墓から死体を盗んでくる事件が日常化しているとしても、王の墓を荒らすなどということはリカルダにだってできないだろう。よしんばできたとして、死後二年も経過し、朽ちた死体に内臓や筋肉がきちんと見定められる形で残っているかどうかははなはだ怪しい。


 リカルダが古びた手紙を木箱から取り出して、私に見せつける。


「この書状がなんだか分かるかい? グラツィア」


 古びた書状は手入れが定期的にされているのか、新品同様の美しさを保っていた。人の握り拳ほどもある大きなメダルにはレムールの国章と思しき、複雑な紋章が彫り込まれている。長方形の盾を四分割し、さらにそれを四分割した中にびっしりと書き込まれているのは、レムール王国を統治した王朝の紋章だ。


 私は真っ青になっていたと思う。

 やっと声が出たとき、唇が震えていた。


「そんなものを勝手に持ち出して、許されると思っていて!?」

「不正についてはあとでいくらでも懲罰を受ける。今はそれよりも、この書状の改ざんについて話をしようじゃないか」


 彼は別の用紙を新たに広げて、全員に見えるように掲示する。簡素な手紙で、右隅にサインが入っているのがかろうじて見分けられた。


「こちらは僕が君からもらった手紙だ。照らし合わせてみると、ずいぶんと字が似ている。この書状――父の遺言書に」


 たとえ大きく掲示していたとしても、数歩も離れた距離からでは筆跡などろくに確かめられやしない。

 誰一人、似ているとも似ていないとも判断できない状況なのにも関わらず、リカルダは話を続ける。


「この書状にはミスがある」


 彼は難しい文法を教える教師のように、根気強いやさしささえ見せて手紙の字を指でなぞった。剣よりもヴィオラが似合うその手が、私の罪の形をなぞろうと優美に動く。


「君の名前だ。グラツィア・クレスケンティア。そう書いてあるが……わが国が君の国のことをクレスケンティアと呼ばないことは知っていたかい?」


 クレスケンティアは、私の生国にして懐かしい故郷だ。青い海とブドウ畑がどこまでも広がる、のどかで美しい国。手狭な国土から、『クルミの中の小さな国』とも呼ばれている。レムール王国によって仕掛けられた戦に負け、父は私を人質としてレムール宮廷に献上した。


 私を始めとして、王国民は自分たちのことをクレスケンティアの民と呼びならわし、その呼称に誇りを抱いていた。


 しかし、昔からクレスケンティアの独立を認めていなかったレムールは、少なくとも自国の中では古くからの侮蔑的な名前を用いていた。


 蛮族の住む地域。ダニア地方・・


「きっと父は君に遠慮して、ダニアとは呼ばないようにしていたんだろうね。でも、わが国での公式書類でクレスケンティアのことを書き記す場合には、必ず『ダニア』と書く。これは、我が国の書式を知らなかった君だけが起こしうるミスだ」


 私は呆然とする一方だった。

 説明しようにも、どこから話せばいいものか。


 もっとも、リカルダは結論を急いでいるようで、私が何も言わなくても、気にも留めなかった。


「……そもそも、つじつまが合わない。なぜ父はダニアと和平を結ぼうとしたんだ? すでに打ち滅ぼした相手だ。対等な関係で婚姻を結ぶ必要がどこにある? なぜ君が共同統治の相手として僕と名を連ねるんだ?」

「それが先王陛下おじさまの最後の願いだったからですわ」

「僕にはそうは思えないな。君が書類を偽造して、自国に有利になるように計らったのだと考えたほうがよほど合理的だ」


 彼の推測は大きく外れている。

 私にはそれが分かっても、この場で説明することは憚られた。


「……仮にあなたの言うとおりだったとして」


 リカルダが持ち出した『証拠』なる紙切れに、目をやる。


「どうしてそれが毒殺と結びつきますの?」


 書類の証拠だけでは毒殺は立証し得ない。

 私の指摘は予想の範疇だったのか、彼は近くにいた取り巻きから一冊の本を受け取った。


「君の部屋に置いてあったこのクレスケンティアの本」

「――! それ……勝手に持ち出しましたのね?」


 まさか、リカルダに盗癖があったなんて。

 知っていれば、私物の管理にももっと気をつけられたのに。


「中身はクレスケンティアの博物誌だそうだね? 注目すべきは南方諸島原産のこの毒草……激しい嘔吐作用、黄視症、めまい……不整脈」


 私は胸がつかえたようになって、何も言うことができなかった。

 彼が指し示した毒草は世界中に分布しているが、不整脈の作用が強く出るのはクレスケンティア産の特徴だ。


「……ほら。父の死因とまったく同じだ。この薬を使えば、意図的に心不全を起こすことだってできたろう」

「クレスケンティアの字、お分かりになりますの?」

「ニーナが読んでくれたんだ。ねえ、ニーナ?」


 桃色の蜜を連想させる瞳が不安そうにリカルダを見上げる。

 彼女に向けられた甘いまなざしに耐え切れなくなって、私は彼らから視線をもぎ離した。


「君がニーナをひどく虐めていると聞いたとき、初めは何かの間違いではないかと思ったんだけどね」

「わたくしは、貴族と接する際に必要なことを注意してさしあげただけですわ」

「そこに、嫉妬がなかったと言い切れるかい?」


 私はリカルダから目を逸らした。心臓がえぐられたように痛い。

 彼は私の物思いを見透かしたように、少し笑った。嘲笑的なものを感じて、かっと頬が熱くなる。


「嫉妬のあまりニーナを虐めた君が、同じ意図で父を殺め、遺言を改ざんし、僕との婚約関係を偽造したとしても、なんらおかしくはないよね」

「言いがかりにもほどがあるわ!」

「それが神の前でも証明されることを願っているよ」


 リカルダは私の否定を一切寄せ付けなかった。

 虚しさに心を占領され、目の前が暗くなりかける。

 しかしもうおそらく、ことは感傷に浸っていられる段階を越えているのだろう。


「君はこの本に載っている薬を盛って、父を徐々に衰弱させていって、隙を見て遺言書を改ざんしたんだ。僕と君の婚約を、あたかも父の遺言であるかのようにね」


 たった今、この瞬間から、この舞台は痴情のもつれや学生同士の小競り合いから、政治の場へと変化した。そうさせたのは彼らだ。


「グラツィア。君を殺人の容疑で拘束させてもらう」


 会場の入り口から男が何人か入ってきた。一般庶民と同じ、作業着姿の男は、明らかに学園内部の人間ではない。教師でもなければ、生徒でもなかった。


 彼の闖入は、学園がすでに治外法権の場ではなくなったことを示していた。


 つかみかかる彼の手を、私は信じられない思いで見た。


 私はリカルダに向かって、必死に言い募る。


「本当に、それが証拠になるとお思いですの? わたくしの嫉妬心が証拠だなんて、そんな馬鹿げた空想がまかり通ると思っていらして?」


 リカルダはそっけなく、「通るさ」と答えた。


「国がダニアの売国奴によって乱されようとしているようなときは、とくにね。白いものも黒に変わる」

「冤罪でも?」

「歴史とは、勝者の記録に他ならない」


 リカルダの声には確たる意思がみなぎっていた。

 私を廃して、よき施政をこの国にもたらす。

 この大掛かりな芝居は、最初の偉大なる一歩だ。


 賽は投げられたのだ。


 私に何ができただろう?

 私は先王のラルウァが没してなおも、彼の影響で生かされていて、リカルダのことを慕っていて、庶民の少女のことを不快だと感じこそすれ、排除するほどではないと思っていた。


 耐え忍び、今日この日が来るまで呼吸を止めている以外に、どんな手が打てたというのだろう。


 私は長らく忘れていた呼吸をした。

 久方ぶりに味わう空気は――


 残酷で、ひどく甘ったるかった。


 リカルダは憐れむような微笑みを見せた。


「……君は来月の議会まで僕の私邸に拘留させてもらう。逃げようだなんて思わないでもらえるとありがたい。できれば手荒な真似はしたくないからね」


 それが私の学園生活の、最後の一幕となった。

 私は罪人のように縄を打たれるという屈辱を味わった。


 引き回しの刑を受けた私は、決して泣くものかと思い、上を向いていた。


 学び舎を去るとき、少しだけ後ろを振り返った。大きな窓ガラスが並ぶ、光にあふれた美しい建築物。

 この学園には先王陛下おじさまとの生活では得られなかったすべてのものが詰まっていた。規律正しい生活、学びの時間、美しい夕焼けや暖房を切り詰めた質素な私室。もうそれもなくなってしまうのだと思うと無性に悲しかった。


 リカルダとの関係もここで永遠に終わってしまうのだと思うと、人目も気にせず泣き伏してしまいたい衝動にかられたが、最後の矜持で無表情を貫いた。

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