雪解けを待つ
かつ、かつ、かつ、かつ。混み合った駅のホームで、私は懐かしい音を聞いた気がした。
気のせいだ。彼がここに居るはずはない。
初恋の人と、よく似た足音だった。タイミングも、遠ざかっていく速さも、あの人によく似ている。なんでそんなものを覚えているのか、自分でもわからないけど。それだけだ。幼かった、青かった、若かった、そんな忘れてしまいたい過去。だけど忘れようとするそれ以上に、私は彼を思い出す。初恋の記憶なんて、ろくなもんじゃない。
忘れることの何が悪いというのだろう。あんな、浮気者のろくでなし。今だに夢に出てきて悔しい思いをするのは、別れ際に変な心で手加減して、あの顔をぶん殴ってやらなかったからに違いない。
コツ、コツ、コツ。どうしてこうもヒールの音は耳障りで、神経を逆なでするのか。すれ違った着飾った女性に心の中で八つ当たりをする。これからデートにでも行くのか、気取ったワンピースに真っ赤なヒールを見て気の強そうな人だと思った。あれで踏まれたら、きっととびきり痛い。
自分の足元を見る。青いローヒールのパンプス。寒々しい色だ。だってあんな赤い靴は私には似合わないから。彼は女性らしさというものに一種の幻想を持っていて、私はそれに時々腹を立てていたことを思い出す。
向かい側からよく知ったあの人が歩いてくる。3日前までの私の恋人だ。私を見送りに来てくれたのか。
あの人は彼に似ていた。写真なんかでは全く似ていないのだけど、低めの声や、ちょっとした癖、視線の動かし方なんかがよく似ていた。だからあの人が傷付いたのは私のせいだった。好きでもないのに、彼を忘れられないから付き合って、彼を忘れられないから別れた。ああ、まったく、何て馬鹿な女だろう。なんて馬鹿な人だっただろう。
正面で立ち止まったあの人は、さよならと零した私に悲しそうに微笑む。俯いたその横を通り過ぎた。少し歩いて振り向いたが、あの人はもう人混みに紛れて見えなかった。
意識して顔をあげる。前を向く。あの人の視線が私を追えなくなるまで、凛としていなければならない。
あ、と声を上げかけて、私は慌てて口を押さえた。何てひどい偶然だろう。視線の先に彼を見つけた。同じ列車に乗るようだ。彼を見るのは高校を卒業して以来だから、ずいぶんと久しぶりだ。一度あったらしい高校の同窓会には私は出席しなかった。連絡を取り合うような仲でもない。本当に、とんでもない偶然だった。
偶然。そうだろうか。私は自問する。答えを探そうとして、馬鹿な期待はやめておけと、もう一人の私が慌てて止める。偶然に運命を感じるなんて、そんな夢見がちなことが許されるのは少女漫画の中だけだ。
この列車は私たちの故郷へと向かっていた。
隣の車両に乗った彼はもう降りただろうか。それともまだ乗っているだろうか。
上京した時とは逆に故郷へと向かう列車。東京で過ごした時間は4年。彼と別れてからも、それだけの時間が経っていた。
窓からの景色はあまり変化がない。ところどころ雪が残っているかどうかというくらいだ。いくつかの駅を通り過ぎる。以前も見たはずだが、名前など覚えていなかった。そんな、小さな駅。
彼にとっての私も、そうなのだろうか。長い道の途中で、ほんのちょっとの時間とまる小さな駅。私にとってのあの人がそうだったように、私にとっての彼も、いつかはそうなるのだろうか。
電車は暖房が効きすぎるから嫌いだ。頭がくらくらする。丁度数分間停車する駅があったので私は電車を降りた。外の空気が心地よく体を冷やしていく。故郷まではあと1時間ほどかかる、さびれた駅だった。
他にその駅で降りたのは一人だけだった。なぜか私に寄ってきたその客と目が合う。彼だった。名前を呼ばれ、咄嗟に口元だけで笑みを作る。だけど昔のようにうまく笑えた気がしなくて、顔を伏せた。
ふわ、と。彼の体温が残るマフラーに驚く。駅舎のコンクリートの壁に手をつく彼の腕に閉じ込められた。あっけにとられる私の肩口に顔を押し付け、彼は懇願する。
白線より後ろに、というアナウンスが流れる。列車は行ってしまった。がたんごとん、がたんごとん。鈍い音が遠ざかっていく。
それを聞きながら、私は思いだしていた。
昔の二人がどれほど愚かで、愛おしかった事か。そしてどれだけ、私が傷付いたのか。
絶対に許すものかと、もうどうにでもなってしまえと。あの時はたしかにそう思っていた。
だけどもう許してしまおうか、そんな甘い考えがよぎったのは、ここが寒いからだ。そうに違いない。私は彼を許しなどしない。忘れることさえもできない。だけど今はほんの少し人肌が恋しいのだ。だから今だけ、私は彼に触れることを許した。
故郷に向かう列車の中。隣に座る彼にマフラーを返す。眠いのだ、と言い訳をしてその肩にもたれかかった。
あと一時間で、この列車は私たちのいたあの場所へ着く。そうすれば、
そうすれば、何かが変わるとでも思っているのか。そんな風に期待を寄せる自分を嘲笑って、それでもまだ冷え切らない感情があった。
がたんごとん、がたんごとん。列車に揺られて、段々と眠気に襲われる。ふわふわとした意識は取り留めもなく記憶の引きだしを散らかしていく。思い出したくもない、彼の笑顔を思い出した。
忘れることの何が悪いというのだろう。甘く都合のいい記憶ばかり残っていて、遠くなった痛みは取り戻せなくて、きっと私は繰り返す。
それならいっそ何もかも、雪がとけるように、跡形もなく消えてしまえばいいのに。