英語の先生
“Good Morning”
静寂に包まれていた教室に1人の女性の声が響いた。透き通った明るい声だった。後ろの入り口から生徒たちの机をかいくぐり、僕たちの前に立った女性はそのまま自己紹介を始めた。
「おはようございます。今日から皆さんに英語を教えます、ジェシカです。ジェスと呼んでください」
そう言うと彼女は前にあるホワイトボードを使い、今日の授業の大まかな流れを淡々と書き始めた。僕はホワイトボードを見るよりも、昨日の出来事とローラが言ったことを整理し、自分の頭の中にある複雑に絡んだ糸が少しずつ解けていく感覚を覚えた。そう言えば聞いたことがある。英語の人名には短縮形、つまり愛称があり、例えば、キャサリンであればキャシー、ジェニファーであればジェニーといったように略されて呼ばれるらしい。ローラがジェスと呼んでいたのは、彼女を愛称で呼んでいたからであって、昨日渡された紙に書かれてあったジェシカという名前は彼女本人だったというわけだ。頭の中の絡まった糸が完璧に解けた。子どもの頃に祖父の家で知恵の輪を数時間かけてやっとのことで解いた時と同じような喜びを感じたが、今はそんなことはどうでもよかった。ジェスと自己紹介をした目の前にいる女性は間違いなく、昨日会った“彼女”だった。ただ昨日見たレザージャケットにドクターマーチンというロックテイストのファッションとは違った、花柄のドレスに赤いカーディガンを羽織ったガーリーの要素が詰まった装いだった。セミロングの鮮やかなブロンドヘアーをポニーテールに結んでいるところは昨日と変わりはなく、窓から入る光が彼女の装いにさらなる彩りを加えていた。ジェスはホワイトボードに文字を書き終えると、こちらを振り向き笑顔で口を開いた。
「これから皆さんにはお互い自己紹介をしてもらいます。ただそれだけではありません。イギリスの一般知識についての問題もあります。シートはこちらで準備したので、お互い自己紹介しながらシートに書かれてある問題を一緒に解いてみてください」
彼女から配られた紙には10個程度の問題が書かれてあった。イギリス最古の大学はどこか。イギリスの現首相は誰か。シェイクスピアの代表的作品を3つ挙げよ。どうやら全てイギリスに関する一般知識を問う問題らしく、ところどころわからない問題もある。しかしわかるわからないというのは重要ではなく、とりあえず英語を話してお互い“会話をする”というのがこの自己紹介の意図だと彼女は言った。ジェスが合図を出すと僕たちは立ち上がり、5分程度の時間を使い生徒同士で(もちろん全て英語を使ってだが)自己紹介を始めた。僕は人見知りな性格なので、ヤスとコースケ以外の人とは同じ大学とはいえあまり接点がない。僕は出身はどこか、大学でどういった勉強をしているのか、サークルは何に入っているのかというごく普通の自己紹介を数人とした。ある程度時間が経ち、英語での会話にも慣れてきた頃、僕の元に彼女が来た。
「次は私とやりましょう」
たまたま目線が合ったのか、ジェスは笑顔をこちらに向けそう言った。僕は“いいよ”という合図をすると彼女はさっそく自己紹介を始めた。実際に面と向かって彼女を見ると、ブロンドヘアーよりも青い瞳が印象的だった。強いて言えばスカイブルーという表現が正しいのだろうか。雲ひとつない晴れ渡った空のような色だ。ただ、どの絵の具を使ってもその色を表現することはできないだろう。それほどまでに綺麗な色合いをした瞳だった。その青い瞳は見続けると吸い込まれそうなほど魅力的でもあり、僕は思わず目線をずらした。その不自然さに気づいたのか、ジェスは少し眉をひそめる仕草をしたが、気にならなくなったのか彼女はすぐに会話を始めた。彼女は英語が苦手な自分でも理解しやすいようにゆっくりとした口調で話してくれたので、彼女の自己紹介に関してはよく理解することができた。ジェスはどうやら僕の1つ年上で、出身はヨークシャーというロンドンより北にある田舎出身とのことらしい。ヨークシャーと聞くとヨークシャーテリアを思い出した僕は彼女にそれを言うと、驚いた表情を見せていた。高校卒業後、1年間スペインで働いていたらしくスペイン語にも精通しているらしい。大学での専攻は言語学とのことで、何より本を読むことが好きらしく、自身を“本の虫”だと言って笑っていた。ファッションについても興味があるらしく、好きなブランドは“Vivienne Westwood”と言っていたので、僕は彼女の昨日のファッションを急に思い出して話題を切り替えた。
「昨日のレザージャケットとブーツのロックスタイル、とても似合っていたよ」
「え!?」
彼女は急に顔を赤らめた。
「ありがとう。私の好きなスタイルの一つなの。でも一番好きなスタイルは1980年代のオールドファッションよ。ドレスを着るのが好きなの」
「あのブーツはドクターマーチン?」
「そうよ、よくわかったわね!ちなみにレザージャケットはTop Shopなの。何年も着続けているわ」
彼女のスカイブルーの瞳に一段と輝きが増した。青い空に幾多の宝石が散りばめられたような、そんな輝きだ。その瞳を見るにどうやらファッションが好きというのは本当らしい。すると彼女は間髪を入れずに僕に訊いてきた。
「いつ私を見たの?あなたの目線に気がつかなかったわ」
「昨日の夜のパブでかな。僕もそこにいたんだよ」
「ああ、あの時ね!あなたがいたことは知っているわ。実を言うと、私もあなたを見ていたの。なんかクールな人がいるなって。昨日白いTシャツに黒のスキニージーンズ履いていたでしょ?似合っていたわよ」
そう言われた途端、僕は一瞬固まった。体を動かす全ての器官が止まったような感覚だった。僕は彼女の言っていることを理解することができなかった。というのも、僕が一方的に彼女を見ていただけと思っていた。しかし今目の前にいる彼女は、僕が気づかないところで僕を、この何の変哲もない日本人の大学生を見ていたというのだ。それだけではない。彼女は自分の身なりをクールだと褒めてくれた。体中の器官が再び動き出し意識が戻りはじめる。それと同時に自然と僕は思った。きっとお世辞だろう。都合の良いように考える自分の思考に嫌気がさして、僕はそう考えずにはいられなかった。それでも、直接そう言ってくれたことに僕の体は喜びを隠すことができなかった。さっきまで止まっていた体中の器官に血液が濁流のように流れはじめ心臓の鼓動が途端に早くなり、僕は顔が急に赤くなっていくのを感じた。きっと僕の顔は万遍の笑みと火照った表情で不気味になっているだろうと思い、普通の表情を装うことに努めた。僕はこぼれそうな笑みを何とか抑えて彼女に答えた。
「ありがとう。でも夏の時期はTシャツに黒のジーンズばっかだから、別にクールでもなんでもないよ」
「そう?でもシンプルさが重要よ」
ジェスは“そうでしょ?”と片方の眉を上げ、同意を求める表情で僕を見た。たしかにシンプルという単純さが重要だというのは、僕がイギリスに来た理由でも思ったことだ。しかし僕はそのことを彼女に伝えた覚えはない。覚えがないどころか、今この瞬間が彼女との初めての会話だった。ただ彼女の表情はまるで僕が考えていることを全て見透かしているかのように見える。僕は彼女の青い瞳に目線を合わせ頷いた。
「ところで、私の出した問題は難しかった?」
ジェスは腕時計を見た後、すぐに話題を切り替えた。僕はその行動を不思議に思い、自分の腕時計をちらっと見た。気がつくと会話時間の5分までもうすぐだった。僕たちはただお互いの自己紹介をしただけだったが、時間が経つのがここまで早いとはと思い驚きを隠せなかった。しかし、それは彼女も同じらしい。ジェスは手に持った紙を凝視し、何やら慌てふためいた様子でいる。
「大体はわかったけど、難しいよ」
「それは申し訳ないわ。何がわからなかった?今のイギリスの首相とか?」
「それはわかったよ。ジェームス・キャメロンでしょ?彼は良い映画監督だよ」
当時のイギリスの首相はキャメロンだったが、ジェームスではなくデイビッド・キャメロンだった。彼はオックスフォード大学を卒業した秀才で、記者会見でスーツを身に纏う様子はまさに“ジェントルマン”という印象だった。一方、ジェームス・キャメロンは「アバター」などの映画監督として有名なアメリカ人で、まったくの別人だ。もちろん僕はそれを知っている。ただ、これは僕の悪い癖でもあるのだが、突然ジョークを言ってみたくなった。これで彼女がどう反応するのかを見てみたかったからだ。ジェスは一瞬口を開けてぽかんとした表情を作った。驚きなのか、大きく見開いたスカイブルーの瞳は、僕をどこか遠くへ吸い込むかのように錯覚させる。
しかし次の瞬間、ジェスはこれでもかというくらいの柔らかい表情を作ると、口を大きく開け笑い始めた。
「あははははは。そうよ大正解!でも今は映画じゃなくて、政治に集中してほしいわね」
どこか笑いのツボに入ったのだろう。そう言った彼女は依然として笑い続けている。その笑顔はどこか幸せそうで、彼女の笑顔なら何時間でも見ていられそうだった。笑い声は小さな教室に響き渡り、それに驚いたのか、他の生徒の視線は僕たちへと向けられた。僕は恥ずかしさを感じ、再び顔が赤くなるのを感じた。しかし、それ以上に彼女を笑わせることができたことが何より嬉しかった。教室のざわめきがどこか僕に向けられた歓声のように聞こえる。僕は何故か勝ち誇ったかのような余韻に浸った。今日の夜は再びパブに行きビールを飲もう。きっと最高の気分に浸れるはずだ。そう自分に言い聞かせ、まだ笑っている彼女を見続けていたかったが、さすがにまずいなと思い彼女に向かって声をかけた。
「冗談だよ、ジェス。デイビッド・キャメロンでしょ?彼は良い政治家だと思うよ」
「冗談だってのはわかっているわ。ただとても面白かった。ここまで笑ったのは久しぶりよ。あなた、本当に面白い人ね」
ジェスは目元を手で拭う仕草をすると、ようやく笑いから解放されたのか、再び冷静になって話し始めた。
「英語を話すのが上手いのね。それにジョークも。これからはリョースケって呼んでもいい?」
「もちろんだよ。ただ英語を話すのが上手いなんて。ジェスこそジョークが上手いよ」
「あら、そう?本当にそう思ったのよ。リョースケはもっと先生の言うことを信じたほうがいいわね」
彼女は再び“そうでしょ?”という表情を僕に向けた。有無を言わせないその表情は僕の考えていることを見透かしている。僕は何も口にせず黙ったまま彼女に対して頷いた。ジェスはそれを見ると、僕に笑顔を向けて言った。
「それじゃ、次の人のところへ行くわ。あっという間だったけど楽しかった。また時間があれば話しましょう」
気がつけば5分という時間がとっくに過ぎていた。僕は「ありがとう」とジェスに言うと、彼女は笑顔で僕の元を去っていった。5分という短い時間。しかしそれでも僕にとっては貴重な時間だった。ジェスと初めて会話をし、彼女のことを少し知ることができた。そして彼女に対してますます好奇心を持つようになった。彼女のことをもっと知りたい、もっと話してみたい。頭の中は彼女ことでいっぱいになった。僕は去っていく彼女を目で追いかけ、ひとつひとつの会話をかみしめるように思い出し、他の生徒と自己紹介を再開した。
昼食の食堂で列を作りながら、ケースケがなにやらそわそわした様子で僕に向かって訊いてきた。
「ジェス、あんな大声出して笑っていたけど、リョースケと何かあったの?」
「いや、僕がジョークを言ったら、それが笑いのツボに入ったんだと思う。それだけ」
「そうなんだ。ジェス可愛いのに、あんなに爆笑してたから驚いたよ」
ケースケの発言にジュンも“そうそう”という表情でこちらを見た。やはり彼女のあの笑い声は皆にとっては驚きだったのだろう。僕との会話後、ジェスはいたって真面目に他の生徒と触れ合っていた。時には笑顔になるものの、あれほどの笑い声を上げることはなく、教師としての体裁を保ったまま授業を続けていた。あの爆笑がまるで幻のようだった。しかしそんな彼女が僕にだけ見せたあの表情は現実に起こったことだ。僕だけに見せたあの笑顔。僕はそれを思い出すたびに口元が緩む。ただ、ジュンとケースケが不思議そうな表情でこちらを見てくるので、僕は必死になって話題を変えた。
「昼ごはん食べ終わったら、サッカーボール買いに行く?確か北のモールの近くにスポーツショップがあったはずだけど」
「お、いいね。ちなみにアメフトボールも買っていい?」
ジュンが“待っていました”と言わんばかりに反応した。
「いいけど、アメフトボールはヤスが全部お金負担してよ」
「全然いいよ、負担する!だからちょっとアメフトに付き合ってよー」
ケースケの辛辣な言葉にも、ジュンの目には輝きが満ちていた。ケースケは仕方ないなという表情でジュンの肩をポンと叩いた。ジュンは少年のような笑顔を浮かべ、「ありがとう」と言うと、皿を持ちスキップにも似た足取りで昼食を選び始めた。僕とケースケもそれぞれの皿を持ち、後で合流することを伝え、各自で昼食を選び始めた。昼食の席にはすでにジュンとケースケがいた。僕は彼らを目線に捉えると、朝と同じようにミルクティーを選び、彼らの元へと向かった。僕が昼食で選んだのはチキンのトマトソース煮にタイ米、キッシュにカスタードプリンだった。僕は使い慣れていないナイフとフォークを手に持ち、ぎこちない手つきでチキンとタイ米を口に頬張る。イギリスにおいてお米を食べるという文化は日本と比べると根付いてはいない。タイ米は日本の米よりも一粒が細長い形をしていて、食感もふっくらではなくパサっとしている。僕はそのタイ米の食感にどこか物足りなさを感じながら、再びチキンを口に入れてミルクティーと一緒に胃の中へ流した。すると、向かいに座ったユウがパンを食べながら訊いてきた。
「リョースケはこの週末、どこか行く予定あるの?」
「どーしようかなって。とりあえずロンドンかな。行きたいところたくさんあるし」
「そーだよな。せっかくイギリス来たから、ロンドンは行かないと。ジュンは?」
ユウがジュンに話題を振った。ジュンは食べながら答えた。
「オレは決めてない。とりあえず、このカレッジにジムがあるらしいから、朝はそこに行くかなー。あとは決めてない」
「ケースケとユウは・・・・」
僕の口が止まった。彼らにも興味本位で週末の予定を聞こうと思った。しかし、僕は悟った。彼らには彼女がいる。2人とも週末は彼女に会いにいくと言っていたので、彼らはおそらくデートをするのだろう。僕はどこか羨ましい気持ちになったが、止まりかけていた口を再び動かした。
「ケースケとユウは・・・・聞くまでもないか」
2人とも幸せそうな表情で“うん”と頷く。やはりそうだった。彼らはロンドンとまでは言わなかったが、イギリスのどこかでデートをする。それがどれだけ幸せかは彼らの笑顔を見れば容易に想像ができ、どこか自分が悲しくなった。僕はそんな思いを払拭するために、デザートのカスタードプリンを口に流し込む。すると透明なカップの底を通して、僕の視線には2人のイギリス人女性が映った。ローラとジェスだ。彼女たちは各々の昼食を持ち、こちらへと向かってくる。
“Hello”
そう言いながら彼女たちは僕たちのテーブルを通り過ぎ、少し離れた席に座った。僕たちは彼女たちに挨拶を返し、再び週末の話題に戻ろうとした。しかし、ジュンは口をぽかんと開けて彼女たちを見つめていた。僕は不思議に思い、ジュンの表情につられ彼女たちを見た。するとローラが再び山盛りのシリアルを食べていた。しかし、それは朝もあったことでもう見慣れた光景だ。僕は目線を戻そうとしたが、ケースケとユウもジュンと同じように口をぽかんと開けて彼女たちを見ている。僕は何事だと思い彼らに問おうとしたが、それよりも先にケースケが彼女たちの方向へ指を向けて“見なよ”といった表情で僕に催促した。僕はその指が指し示す方向、ジェスへと目を向ける。すると、彼女もまた山盛りになったサラダの皿を持っていた。言い忘れたが、ローラとジェスも身長165cmほどの細身の体型であり、たくさん食べるという印象は正直持てない。しかし彼女たちの目の前には、フードファイターもうなるような山盛りのシリアルとサラダがあった。それは僕たちが食べている昼食の2倍以上はあるだろう。僕も驚きで口がぽかんとなった。そして朝と同じように、僕たちは目線を合わせ唖然とした表情で見つめあった。ローラとジェスは僕たちの目線を一切気にすることなく、山盛りのシリアルとサラダを口に頬張っていた。
ケンブリッジという街は実に興味深い街だった。各カレッジは中世から近世に建てられたこともあり、その時代をそのまま保存したかのような雰囲気を作り出している。しかしそこから一歩踏み出せば、現代の都会のようなおしゃれな雰囲気で、昼夜を問わず賑わっている。カレッジにあるフラットに住んでいる自分にとって、カレッジの校門を行き来するだけで、それはまるで中世と現代の狭間を旅しているかような感覚になり、歴史を遡るタイムトラベラーのような気分にさせてくれた。
昼休み。僕たちはダウニングカレッジの北にあるスポーツショップに行き、そこでサッカーボールを買った。僕を含めジュン、ケースケ、ユウ4人で折半し合い、ジュンのアメフトボールを持った幸せそうな顔を横目に、僕たちはカレッジへと帰った。ダウニングカレッジの大きな中庭にはすでに昼休みを楽しんでいる生徒が多くいた。2面あるテニスコートでは、ラケットとボールが貸し出されているのか、アヤを含めた女子生徒がテニスを楽しんでいる。芝生では男子生徒たちがスポーツウェアを身にまとい、フリスビーを投げあっていた。一方、中庭の端では僕たちのメンターをしてくれているケンブリッジの学生たちが椅子に座り、何やら真剣に話し合っている。そこにはローラはもちろんのこと、ジェスの姿もあった。一体何を真剣に話し合っているのだろうか。僕はそんなことを思いながら、視線を彼らに向けたまま歩いていた。するとその視線に気がついたのか、ジェスがこちらに目を向けた。僕は一瞬ドキッとしたが、それを隠すためにすぐ視線を外そうとした。すると彼女は笑顔を浮かべながら、まるで遠いところにいる友人に対して呼びかけるように、こちらに向かって大きく手を振ってきた。僕は外そうとした目線を再び彼女に向ける。そしてそれは僕に向けられた合図だと勝手に思い込み、手を振り返そうと自分の手を大きく上げようとした。しかしそれよりも先に、ケースケとジュンが彼女に手を振り返していた。僕はそれを見て大きくあげようとした手を縮こませ、胸のあたりで彼女に小さく手を振り返した。僕は変な思い込みをしていたことが急に恥ずかしくなり、その場から消えたい気持ちになった。ジェスはそれを見ると笑顔を浮かべ、ケンブリッジの生徒の方へと振り返り、再び話し合いに戻った。すると後ろにいたユウが口からぽろっと言葉を発した。
「ジェス、可愛いよな」
「確かに可愛い」
ケースケが頷きながらはっきりと答える。
「でもあれだけ可愛かったら、彼氏ぐらいいるでしょ?」
僕は2人に目線を合わせることなく答えた。海外の恋愛事情はわからないが、彼女のような気さくな女性はモテるだろう。容姿も可愛いとなれば、ジェスに彼氏がいるのは当然だと僕は思った。
「そうか・・イケメンの彼氏いそうだよなぁ」
ジュンがため息交じりの声で呟く。
するとそれを見たケースケが鼻で笑うように答えた。
「ジュン。たとえジェスに彼氏がいなくても、俺たちは眼中にないよ」
「はぁー・・・・」
「日本人の女性は欧米ではモテるけど、日本の男たちはまったくモテないって聞くからなー。俺たちに縁はないんだよ」
僕は歩きながらケースケが言ったことを考える。確かにそうだ。日本でよく見る国際カップルは日本人女性と欧米の男性だ。逆に、日本人男性と欧米の女性のカップルを見ることはあまりない。その理由がなぜかはわからないが、僕はケースケの言ったことがなぜか腑に落ちた。僕は無意識に空を見上げる。晴れていた空も今は流れるように雲が動いており、どうも雲行きが怪しい。一雨来るかも。そんな不安な気持ちを抱きながら、僕は曇った空が自分の心情を表しているのではと思った。相変わらず僕の妄想癖は絶好調だった。僕はそんな妄想をする自分自身をどこかおかしく思い、一人苦笑いを浮かべた。しかしそう思ったのも束の間、自分の足にサッカーボールが当たったのを感じ、僕は視線を戻す。
「リョースケ!サッカーやろうぜぇー!」
ジュンが“来いよ”という仕草で僕を呼んだ。彼はサッカーゴールの近くで、早くも準備万全といった表情で待ち構えている。
「ジュン、サッカーできんの?」
僕はボールを足ですくい上げ、数回リフティングをした後、そのまま彼へとボールを蹴った。ジュンは慣れない足でボールを受け止めようとしたが、ボールは彼の足をかすめ、そのまま後ろへと転がっていった。ケースケとユウがそれを見て笑っている。
「うお、マジかよー」
ジュンは悔しげに、しかしどこか楽しそうな表情を浮かべボールを追いかけた。僕は彼らの楽しそうな姿を見て、それにつられるように笑った。僕は空を再び見上げることなく、芝生の感触を足で確かめながら彼らの元へと走った。曇っていると思っていた空にも太陽が顔を出し始めていた。
「いえーい!次はユウが鬼ぃー」
ジュンはユウが蹴ったボールを取ると、少年のようにはしゃいだ。
「まじかー。ジュンやるなー」
ユウは悔しそうな表情でジュンと鬼を交代する。僕たちはサッカーボールを使い、“パス回し”を楽しんでいた。“パス回し”とはプロの選手も練習で行う、複数人で円形を作り、中心にいる鬼役の人にボールを取られないようにパスを回し続ける簡単なゲームだ。パスが鬼に取られると、そのパスを出した人が鬼になるというシステムで、鬼役だったジュンは見事ユウのパスを防いで、鬼役をユウに交代させたところだった。
「ジュン、絶対復讐してやるからなー」
ユウは鬼役にも関わらず、ジュンから一切目線を外さず徹底的に彼を狙っていた。僕とケースケは笑いながらパスを毎回ジュンへと回し、時には意地悪なボールで彼を困らせた。そしてジュンのボールはとうとうユウに取られ、再び鬼役がジュンにまわった。
「お前ら、ふざけんなよぉー」
ジュンは額に汗を垂らしながら、若干の息切れとともに笑顔で文句を言っていた。僕たちは腹を抱えて笑った。しかし彼は運動をすることがとにかく楽しいらしい。Tシャツの袖をめくり上げ、“次やろうぜ”と僕たちに催促させた。ケースケがボールを蹴ろうと準備をする。するとケースケは突然蹴るのを辞め、視線を僕の後ろへと向けた。
「楽しそうね。私たちも混ぜてくれる?」
どこかで聞いた女性の声だった。僕はすぐに後ろを振り向くと、そこにはジェスを含めたメンター4人がいた。どうやら話し合いも終わり、暇を持て余しているらしい。
「全然いいけど、ルールは知ってるの?」
僕はジェスに目線を向けて訊いた。
「あなたたちの姿を見ていれば、大体わかったわ。誰か1人をいじめればいいんでしょ?」
ジェスは不敵な笑みを浮かべそう答えた。
「まぁ、間違ってはいないけど・・・正解でもないかな」
「冗談よ、冗談。ルールは大体わかったわ。ボールを取られなければいいんでしょ?楽しそうだわ」
ジェスはそう言うと、ケースケとジュンの元へと向かった。どうやら彼らにもお願いしているらしい。2人は照れくさそうに“もちろんいいよ”という表情で彼女に応えた。ジェスは“Yes”とガッツポーズをすると、僕へと一瞬目線を向けて、隣に立った。身長165cmほどの細身の体型をしたその女性は、どうやらパンプスを履いたままサッカーをするらしい。
「フットボールはできるの?」
イギリスではサッカーのことをフットボールと呼んでいる。サッカーがどうやらアメリカ英語らしく、そう呼ぶことを好かないイギリス人もいると聞いたことがある。僕はとっさに単語を変えて、彼女に訊いた。
「あら。こう見えても運動するのは好きなのよ。フットボールはしたことないけど」
ジェスは長袖のカーディガンをまくり、腕を組みながら“何か文句ある?”といった表情で僕を見つめた。僕は半ば不安な気持ちだったが、とりあえず彼女の言葉を信じようと思い正面を向いた。ケースケがボールを蹴り始める。メンターたちは使い慣れていない足でボールを蹴っていた。ジュンは自分の足取りをわざと遅くして、無理にボールを取らないように空気を読んでいる。しばらくパスが続き、僕は自分に来たボールをジェスへと渡した。すると彼女は“Wow”と叫びながら、慌てふためいた様子でボールを蹴った。しかし彼女の足が空を切る。ボールはコロコロと彼女の後ろへと転がった。ジェスは見失ったボールを必死に探し、見つけたボールを蹴ろうとする。しかしその時にはもうジュンが距離を詰めており、彼女の蹴ったボールはジュンの元へと渡った。
「次はジェスが鬼だよ」
僕が言う。
「リョースケ。やってくれたわねぇ」
ジェスは笑顔を浮かべながら、“やられた”という仕草で円の中心へと向かった。彼女は鬼になると、ボールに向かって一目散に走り始める。どこか楽しそうな、それでいて真剣な様子のジェス。ポニーテールに結んだ鮮やかなブロンドヘアーを風になびかせ、右へ左へと走る彼女の姿は僕の視線を釘付けにした。自分の意識はすでにボール回しというゲームにはなかった。自分のところに来たボールをとりあえず適当に蹴り、すぐに視線を中央にいる彼女へと向ける。僕は自分の目というフィルターを通して、彼女の姿を脳裏に焼き付けていた。今自分の手にカメラを持っていたら、おそらく彼女の写真を何百枚と撮るだろう。それほどまでに彼女の一つ一つの行動や仕草に夢中になっていた。するとユウが蹴ったボールは空に大きな弧を描き、僕の後ろへと転がっていった。
「しまった!リョースケ、ごめん!」
ユウがこっちに向かって大声で謝ってきた。
「全然いいよー!」
僕はユウにそう言うと、自分の背後に転がっていったボールへと走った。なんとかボールへと追いつき僕は皆がいる場所へと振り返ろうとした。しかしその途端、目の前にはジェスがいた。僕と彼女との距離は午前中に自己紹介をした時と同じくらい近かった。ただ今目の前にいる彼女は腕を胸の前に組み、“あきらめなさい”と言わんばかりの気迫でこちらを見ている。
「リョースケ、もう逃げられないわよ」
ジェスは自信たっぷりの表情で僕に言った。今の彼女の目つきは、すぐそこにいる獲物を絶対に逃さないトラそのものだ。一歩でも動けばすぐに襲いかかって来そうなほどで、その眼差しはいつにも増して真剣だ。しかしそのトラも僕にとっては子猫同然だった。僕は余裕の表情で彼女をどう振り切るか考えた。というのも、僕はこの距離でも彼女にボールを取られない自信があった。一応子どもの頃にサッカーを経験した身ではあるし、いくら彼女との距離が近いとはいえ、目の前にいる女性はサッカーの素人だ。すぐに彼女を振り切ってボールを返すことくらい容易いことだった。しかし、ジェスはそんなことを想像もしていない。絶対にボールを取って、あなたを鬼にしてあげる。そんなオーラを醸し出している彼女を見ると、僕はなぜか彼女の期待に応えたいと思った。僕はわざと慌てふためいた様子を演じ、彼女がボールを取れるようにした。その演技や一連の流れは完璧で、おそらく他の人たちも気づいていないだろう。彼女は見事に僕からボールを奪うと勝ち誇ったように腕を上げ、なぜかボールを手に取り皆がいる円へと戻っていった。きっとジェスは自分の演技に気づいていないだろう、僕はそう願いながら彼女の笑顔を横から眺めていた。次の鬼は自分。しかしまったく悪い気分ではなかった。僕は笑みがこぼれそうになるのをなんとか我慢し、すでに鬼のいないボール回しが行われている円へと走って戻っていった。
「リョースケ!」
昼休みがまもなく終わろうとしていた。僕たちはメンターたちに別れを告げて、各々が授業の準備をするためにフラットへと戻っている最中だった。1人の女性の声が僕を呼んでいる。
「リョースケ、ジェスが呼んでるぜー。どうしたんだろう?」
ジュンが不思議そうな様子で後ろを見た。僕はジュンの行動につられるように振り向くと、ジェスがこちらに走ってくる様子がみえた。彼女は手を大きく振ることなく、ネジ巻き人形を歩かせたような足取りでこちらに向かってきた。
「僕に何の用かな?先にフラットに戻ってていいよ。すぐに追いつくから」
僕はみんなにそう言うと、彼らと一旦離れてジェスが来るのを待った。彼女はサッカーをしたせいなのか、こっちまで走ってきたせいなのか少し呼吸が荒くなっている。ジェスはなぜ僕を呼んだのだろうか。自分の頭の中はその理由を考えることでいっぱいになった。
「ジェス、どうしたの?何かあった?」
「ええ、フットボール楽しかったわ。ただありがとうって言いたくて」
ジェスは肩にかけたトートバッグを握りしめながらそう言った。ただそれだけを言うためにこっちに来たのだろうか。僕はすこし疑心暗鬼になりながら答えた。
「それは良かったよ。僕も楽しかったし。ただ疲れて眠たくなったから、授業中に寝ないか不安だけどね」
「きっと大丈夫よ。眠れないほど楽しい授業を準備してるから」
「それは楽しみだね」
僕のジョークを彼女が理解してくれていることが何よりも嬉しかった。どこかアヤと話している時のような親近感が湧いてきて、もっと話していたいという衝動にかられる。しかし授業の準備があるので僕はその場を離れようと思った矢先、ジェスは会話を続けた。
「リョースケ、あの時私にわざとボールを取らせたでしょ?私にはわかってたわよ」
心臓が一瞬止まりかけた。ジェスが言っているのは、おそらく僕がわざと彼女と鬼を交代した時のことだろう。ただそれは完全犯罪と言わんばかりの完璧な演技と一連の流れだったはずだ。気が付くはずがない。しかしジェスにはすべてお見通しなのだろうか。ジェスの目線は一直線に僕へと向けられている。彼女のスカイブルーの瞳というのは人間の本性を暴く特殊能力でもあるのではないかと一瞬疑ったが、そんな馬鹿げた考えもすぐにどこかへ消えていった。ただ僕はどこか彼女に申し訳ない気持ちになり、重たくなった口を開いた。
「ああ、あの時か。あんなことするべきじゃなかったのかな。なんか、ごめんね」
謝罪の言葉に対し、ジェスは依然としてまっすぐな目線をこちらに向けている。
「やっぱりそうだったのね。でもどうして謝るの?」
「ただ申し訳なく思ってさ。ジェスに代わって鬼になりたかったんだよ。ずっと鬼だったわけだし」
「私は大丈夫だったのに。でもありがとう。私のことを考えてくれたのね。リョースケは優しいわね」
「優しくなんかないよ。ただ当然のことをしたまでだと思ってる」
「あなたは優しいわ。イギリスの男性は意地悪な人ばかりだから。なんだが嬉しかった。とにかくありがとう。ただそれを言いたかったの」
これも彼女のジョークの一つなのだろうか。しかし考える隙も与えず彼女は続けた。
「これだけは言わせて。あなたの考えはすべてお見通しよ。なぜかはわからないけど、私にはわかるの。先生の言うことは信じた方がいいわね」
「その方が良さそうだね。ありがとう、先生」
彼女の眼差しには力がこもっていた。それはジョークを言っているようには思えなかった。そんな力強い眼差しに僕は圧倒されると同時に魅了された。
「もう行かなくちゃ。それじゃまた後で。授業には遅れないでね」
ジェスはそう言うと、後ろを振り向き僕の元を去っていった。彼女が滞在しているフラットはダウニングカレッジとは違うカレッジとのことなのでここからは幾分か距離がある。彼女は芝生に足をとられないように注意しながら、こちらを振り向くことなく颯爽とその場を去っていった。
僕は彼女がダウニングカレッジからいなくなるまでその後ろ姿を見送った。その間何を考えていたかは覚えていない。ただ思っていた通り、ジェスには僕の行動が全て筒抜けだった。まるで裸にされるかのように僕の心を読んでいる。こんな感覚は初めてだった。それでもなぜかそれが嬉しかった。ジェスの前で嘘をつくことはできない。これからはありのままの自分の姿で彼女に接しなければいけない。それで彼女に失望されないのなら、僕は喜んで正直者になろうと思った。
右ポケットに入っているスマートフォンがバイブレーションとともに鳴り始め、僕は我に返った。急いでスマートフォンの画面を確認する。ジュンからのLINEの電話だった。言い忘れていたが、ここのカレッジはWi-Fiが通じていることもあって、日本にいる時と同じように連絡を取り合える。この電話から察するに、ジュンは僕に準備を急ぐように催促しているのだろう。もっといろいろ考えたかったが、それよりも今は次の授業の準備が先だった。僕はジュンの連絡に応えることなくスマートフォンをそのままポケットにしまい、ジェスのいないカレッジの校門を数秒見つめた後、振り返ることなくその場を立ち去った。“Good Morning”
静寂に包まれていた教室に1人の女性の声が響いた。透き通った明るい声だった。後ろの入り口から生徒たちの机をかいくぐり、僕たちの前に立った女性はそのまま自己紹介を始めた。
「おはようございます。今日から皆さんに英語を教えます、ジェシカです。ジェスと呼んでください」
そう言うと彼女は前にあるホワイトボードを使い、今日の授業の大まかな流れを淡々と書き始めた。僕はホワイトボードを見るよりも、昨日の出来事とローラが言ったことを整理し、自分の頭の中にある複雑に絡んだ糸が少しずつ解けていく感覚を覚えた。そう言えば聞いたことがある。英語の人名には短縮形、つまり愛称があり、例えば、キャサリンであればキャシー、ジェニファーであればジェニーといったように略されて呼ばれるらしい。ローラがジェスと呼んでいたのは、彼女を愛称で呼んでいたからであって、昨日渡された紙に書かれてあったジェシカという名前は彼女本人だったというわけだ。頭の中の絡まった糸が完璧に解けた。子どもの頃に祖父の家で知恵の輪を数時間かけてやっとのことで解いた時と同じような喜びを感じたが、今はそんなことはどうでもよかった。ジェスと自己紹介をした目の前にいる女性は間違いなく、昨日会った“彼女”だった。ただ昨日見たレザージャケットにドクターマーチンというロックテイストのファッションとは違った、花柄のドレスに赤いカーディガンを羽織ったガーリーの要素が詰まった装いだった。セミロングの鮮やかなブロンドヘアーをポニーテールに結んでいるところは昨日と変わりはなく、窓から入る光が彼女の装いにさらなる彩りを加えていた。ジェスはホワイトボードに文字を書き終えると、こちらを振り向き笑顔で口を開いた。
「これから皆さんにはお互い自己紹介をしてもらいます。ただそれだけではありません。イギリスの一般知識についての問題もあります。シートはこちらで準備したので、お互い自己紹介しながらシートに書かれてある問題を一緒に解いてみてください」
彼女から配られた紙には10個程度の問題が書かれてあった。イギリス最古の大学はどこか。イギリスの現首相は誰か。シェイクスピアの代表的作品を3つ挙げよ。どうやら全てイギリスに関する一般知識を問う問題らしく、ところどころわからない問題もある。しかしわかるわからないというのは重要ではなく、とりあえず英語を話してお互い“会話をする”というのがこの自己紹介の意図だと彼女は言った。ジェスが合図を出すと僕たちは立ち上がり、5分程度の時間を使い生徒同士で(もちろん全て英語を使ってだが)自己紹介を始めた。僕は人見知りな性格なので、ヤスとコースケ以外の人とは同じ大学とはいえあまり接点がない。僕は出身はどこか、大学でどういった勉強をしているのか、サークルは何に入っているのかというごく普通の自己紹介を数人とした。ある程度時間が経ち、英語での会話にも慣れてきた頃、僕の元に彼女が来た。
「次は私とやりましょう」
たまたま目線が合ったのか、ジェスは笑顔をこちらに向けそう言った。僕は“いいよ”という合図をすると彼女はさっそく自己紹介を始めた。実際に面と向かって彼女を見ると、ブロンドヘアーよりも青い瞳が印象的だった。強いて言えばスカイブルーという表現が正しいのだろうか。雲ひとつない晴れ渡った空のような色だ。ただ、どの絵の具を使ってもその色を表現することはできないだろう。それほどまでに綺麗な色合いをした瞳だった。その青い瞳は見続けると吸い込まれそうなほど魅力的でもあり、僕は思わず目線をずらした。その不自然さに気づいたのか、ジェスは少し眉をひそめる仕草をしたが、気にならなくなったのか彼女はすぐに会話を始めた。彼女は英語が苦手な自分でも理解しやすいようにゆっくりとした口調で話してくれたので、彼女の自己紹介に関してはよく理解することができた。ジェスはどうやら僕の1つ年上で、出身はヨークシャーというロンドンより北にある田舎出身とのことらしい。ヨークシャーと聞くとヨークシャーテリアを思い出した僕は彼女にそれを言うと、驚いた表情を見せていた。高校卒業後、1年間スペインで働いていたらしくスペイン語にも精通しているらしい。大学での専攻は言語学とのことで、何より本を読むことが好きらしく、自身を“本の虫”だと言って笑っていた。ファッションについても興味があるらしく、好きなブランドは“Vivienne Westwood”と言っていたので、僕は彼女の昨日のファッションを急に思い出して話題を切り替えた。
「昨日のレザージャケットとブーツのロックスタイル、とても似合っていたよ」
「え!?」
彼女は急に顔を赤らめた。
「ありがとう。私の好きなスタイルの一つなの。でも一番好きなスタイルは1980年代のオールドファッションよ。ドレスを着るのが好きなの」
「あのブーツはドクターマーチン?」
「そうよ、よくわかったわね!ちなみにレザージャケットはTop Shopなの。何年も着続けているわ」
彼女のスカイブルーの瞳に一段と輝きが増した。青い空に幾多の宝石が散りばめられたような、そんな輝きだ。その瞳を見るにどうやらファッションが好きというのは本当らしい。すると彼女は間髪を入れずに僕に訊いてきた。
「いつ私を見たの?あなたの目線に気がつかなかったわ」
「昨日の夜のパブでかな。僕もそこにいたんだよ」
「ああ、あの時ね!あなたがいたことは知っているわ。実を言うと、私もあなたを見ていたの。なんかクールな人がいるなって。昨日白いTシャツに黒のスキニージーンズ履いていたでしょ?似合っていたわよ」
そう言われた途端、僕は一瞬固まった。体を動かす全ての器官が止まったような感覚だった。僕は彼女の言っていることを理解することができなかった。というのも、僕が一方的に彼女を見ていただけと思っていた。しかし今目の前にいる彼女は、僕が気づかないところで僕を、この何の変哲もない日本人の大学生を見ていたというのだ。それだけではない。彼女は自分の身なりをクールだと褒めてくれた。体中の器官が再び動き出し意識が戻りはじめる。それと同時に自然と僕は思った。きっとお世辞だろう。都合の良いように考える自分の思考に嫌気がさして、僕はそう考えずにはいられなかった。それでも、直接そう言ってくれたことに僕の体は喜びを隠すことができなかった。さっきまで止まっていた体中の器官に血液が濁流のように流れはじめ心臓の鼓動が途端に早くなり、僕は顔が急に赤くなっていくのを感じた。きっと僕の顔は万遍の笑みと火照った表情で不気味になっているだろうと思い、普通の表情を装うことに努めた。僕はこぼれそうな笑みを何とか抑えて彼女に答えた。
「ありがとう。でも夏の時期はTシャツに黒のジーンズばっかだから、別にクールでもなんでもないよ」
「そう?でもシンプルさが重要よ」
ジェスは“そうでしょ?”と片方の眉を上げ、同意を求める表情で僕を見た。たしかにシンプルという単純さが重要だというのは、僕がイギリスに来た理由でも思ったことだ。しかし僕はそのことを彼女に伝えた覚えはない。覚えがないどころか、今この瞬間が彼女との初めての会話だった。ただ彼女の表情はまるで僕が考えていることを全て見透かしているかのように見える。僕は彼女の青い瞳に目線を合わせ頷いた。
「ところで、私の出した問題は難しかった?」
ジェスは腕時計を見た後、すぐに話題を切り替えた。僕はその行動を不思議に思い、自分の腕時計をちらっと見た。気がつくと会話時間の5分までもうすぐだった。僕たちはただお互いの自己紹介をしただけだったが、時間が経つのがここまで早いとはと思い驚きを隠せなかった。しかし、それは彼女も同じらしい。ジェスは手に持った紙を凝視し、何やら慌てふためいた様子でいる。
「大体はわかったけど、難しいよ」
「それは申し訳ないわ。何がわからなかった?今のイギリスの首相とか?」
「それはわかったよ。ジェームス・キャメロンでしょ?彼は良い映画監督だよ」
当時のイギリスの首相はキャメロンだったが、ジェームスではなくデイビッド・キャメロンだった。彼はオックスフォード大学を卒業した秀才で、記者会見でスーツを身に纏う様子はまさに“ジェントルマン”という印象だった。一方、ジェームス・キャメロンは「アバター」などの映画監督として有名なアメリカ人で、まったくの別人だ。もちろん僕はそれを知っている。ただ、これは僕の悪い癖でもあるのだが、突然ジョークを言ってみたくなった。これで彼女がどう反応するのかを見てみたかったからだ。ジェスは一瞬口を開けてぽかんとした表情を作った。驚きなのか、大きく見開いたスカイブルーの瞳は、僕をどこか遠くへ吸い込むかのように錯覚させる。
しかし次の瞬間、ジェスはこれでもかというくらいの柔らかい表情を作ると、口を大きく開け笑い始めた。
「あははははは。そうよ大正解!でも今は映画じゃなくて、政治に集中してほしいわね」
どこか笑いのツボに入ったのだろう。そう言った彼女は依然として笑い続けている。その笑顔はどこか幸せそうで、彼女の笑顔なら何時間でも見ていられそうだった。笑い声は小さな教室に響き渡り、それに驚いたのか、他の生徒の視線は僕たちへと向けられた。僕は恥ずかしさを感じ、再び顔が赤くなるのを感じた。しかし、それ以上に彼女を笑わせることができたことが何より嬉しかった。教室のざわめきがどこか僕に向けられた歓声のように聞こえる。僕は何故か勝ち誇ったかのような余韻に浸った。今日の夜は再びパブに行きビールを飲もう。きっと最高の気分に浸れるはずだ。そう自分に言い聞かせ、まだ笑っている彼女を見続けていたかったが、さすがにまずいなと思い彼女に向かって声をかけた。
「冗談だよ、ジェス。デイビッド・キャメロンでしょ?彼は良い政治家だと思うよ」
「冗談だってのはわかっているわ。ただとても面白かった。ここまで笑ったのは久しぶりよ。あなた、本当に面白い人ね」
ジェスは目元を手で拭う仕草をすると、ようやく笑いから解放されたのか、再び冷静になって話し始めた。
「英語を話すのが上手いのね。それにジョークも。これからはリョースケって呼んでもいい?」
「もちろんだよ。ただ英語を話すのが上手いなんて。ジェスこそジョークが上手いよ」
「あら、そう?本当にそう思ったのよ。リョースケはもっと先生の言うことを信じたほうがいいわね」
彼女は再び“そうでしょ?”という表情を僕に向けた。有無を言わせないその表情は僕の考えていることを見透かしている。僕は何も口にせず黙ったまま彼女に対して頷いた。ジェスはそれを見ると、僕に笑顔を向けて言った。
「それじゃ、次の人のところへ行くわ。あっという間だったけど楽しかった。また時間があれば話しましょう」
気がつけば5分という時間がとっくに過ぎていた。僕は「ありがとう」とジェスに言うと、彼女は笑顔で僕の元を去っていった。5分という短い時間。しかしそれでも僕にとっては貴重な時間だった。ジェスと初めて会話をし、彼女のことを少し知ることができた。そして彼女に対してますます好奇心を持つようになった。彼女のことをもっと知りたい、もっと話してみたい。頭の中は彼女ことでいっぱいになった。僕は去っていく彼女を目で追いかけ、ひとつひとつの会話をかみしめるように思い出し、他の生徒と自己紹介を再開した。
昼食の食堂で列を作りながら、ケースケがなにやらそわそわした様子で僕に向かって訊いてきた。
「ジェス、あんな大声出して笑っていたけど、リョースケと何かあったの?」
「いや、僕がジョークを言ったら、それが笑いのツボに入ったんだと思う。それだけ」
「そうなんだ。ジェス可愛いのに、あんなに爆笑してたから驚いたよ」
ケースケの発言にジュンも“そうそう”という表情でこちらを見た。やはり彼女のあの笑い声は皆にとっては驚きだったのだろう。僕との会話後、ジェスはいたって真面目に他の生徒と触れ合っていた。時には笑顔になるものの、あれほどの笑い声を上げることはなく、教師としての体裁を保ったまま授業を続けていた。あの爆笑がまるで幻のようだった。しかしそんな彼女が僕にだけ見せたあの表情は現実に起こったことだ。僕だけに見せたあの笑顔。僕はそれを思い出すたびに口元が緩む。ただ、ジュンとケースケが不思議そうな表情でこちらを見てくるので、僕は必死になって話題を変えた。
「昼ごはん食べ終わったら、サッカーボール買いに行く?確か北のモールの近くにスポーツショップがあったはずだけど」
「お、いいね。ちなみにアメフトボールも買っていい?」
ジュンが“待っていました”と言わんばかりに反応した。
「いいけど、アメフトボールはヤスが全部お金負担してよ」
「全然いいよ、負担する!だからちょっとアメフトに付き合ってよー」
ケースケの辛辣な言葉にも、ジュンの目には輝きが満ちていた。ケースケは仕方ないなという表情でジュンの肩をポンと叩いた。ジュンは少年のような笑顔を浮かべ、「ありがとう」と言うと、皿を持ちスキップにも似た足取りで昼食を選び始めた。僕とケースケもそれぞれの皿を持ち、後で合流することを伝え、各自で昼食を選び始めた。昼食の席にはすでにジュンとケースケがいた。僕は彼らを目線に捉えると、朝と同じようにミルクティーを選び、彼らの元へと向かった。僕が昼食で選んだのはチキンのトマトソース煮にタイ米、キッシュにカスタードプリンだった。僕は使い慣れていないナイフとフォークを手に持ち、ぎこちない手つきでチキンとタイ米を口に頬張る。イギリスにおいてお米を食べるという文化は日本と比べると根付いてはいない。タイ米は日本の米よりも一粒が細長い形をしていて、食感もふっくらではなくパサっとしている。
僕はそのタイ米の食感にどこか物足りなさを感じながら、再びチキンを口に入れてミルクティーと一緒に胃の中へ流した。すると、向かいに座ったユウがパンを食べながら訊いてきた。
「リョースケはこの週末、どこか行く予定あるの?」
「どーしようかなって。とりあえずロンドンかな。行きたいところたくさんあるし」
「そーだよな。せっかくイギリス来たから、ロンドンは行かないと。ジュンは?」
ユウがジュンに話題を振った。ジュンは食べながら答えた。
「オレは決めてない。とりあえず、このカレッジにジムがあるらしいから、朝はそこに行くかなー。あとは決めてない」
「ケースケとユウは・・・・」
僕の口が止まった。彼らにも興味本位で週末の予定を聞こうと思った。しかし、僕は悟った。彼らには彼女がいる。2人とも週末は彼女に会いにいくと言っていたので、彼らはおそらくデートをするのだろう。僕はどこか羨ましい気持ちになったが、止まりかけていた口を再び動かした。
「ケースケとユウは・・・・聞くまでもないか」
2人とも幸せそうな表情で“うん”と頷く。やはりそうだった。彼らはロンドンとまでは言わなかったが、イギリスのどこかでデートをする。それがどれだけ幸せかは彼らの笑顔を見れば容易に想像ができ、どこか自分が悲しくなった。僕はそんな思いを払拭するために、デザートのカスタードプリンを口に流し込む。すると透明なカップの底を通して、僕の視線には2人のイギリス人女性が映った。ローラとジェスだ。彼女たちは各々の昼食を持ち、こちらへと向かってくる。
“Hello”
そう言いながら彼女たちは僕たちのテーブルを通り過ぎ、少し離れた席に座った。僕たちは彼女たちに挨拶を返し、再び週末の話題に戻ろうとした。しかし、ジュンは口をぽかんと開けて彼女たちを見つめていた。僕は不思議に思い、ジュンの表情につられ彼女たちを見た。するとローラが再び山盛りのシリアルを食べていた。しかし、それは朝もあったことでもう見慣れた光景だ。僕は目線を戻そうとしたが、ケースケとユウもジュンと同じように口をぽかんと開けて彼女たちを見ている。僕は何事だと思い彼らに問おうとしたが、それよりも先にケースケが彼女たちの方向へ指を向けて“見なよ”といった表情で僕に催促した。僕はその指が指し示す方向、ジェスへと目を向ける。すると、彼女もまた山盛りになったサラダの皿を持っていた。言い忘れたが、ローラとジェスも身長165cmほどの細身の体型であり、たくさん食べるという印象は正直持てない。しかし彼女たちの目の前には、フードファイターもうなるような山盛りのシリアルとサラダがあった。それは僕たちが食べている昼食の2倍以上はあるだろう。僕も驚きで口がぽかんとなった。そして朝と同じように、僕たちは目線を合わせ唖然とした表情で見つめあった。ローラとジェスは僕たちの目線を一切気にすることなく、山盛りのシリアルとサラダを口に頬張っていた。
ケンブリッジという街は実に興味深い街だった。各カレッジは中世から近世に建てられたこともあり、その時代をそのまま保存したかのような雰囲気を作り出している。しかしそこから一歩踏み出せば、現代の都会のようなおしゃれな雰囲気で、昼夜を問わず賑わっている。カレッジにあるフラットに住んでいる自分にとって、カレッジの校門を行き来するだけで、それはまるで中世と現代の狭間を旅しているかような感覚になり、歴史を遡るタイムトラベラーのような気分にさせてくれた。
昼休み。僕たちはダウニングカレッジの北にあるスポーツショップに行き、そこでサッカーボールを買った。僕を含めジュン、ケースケ、ユウ4人で折半し合い、ジュンのアメフトボールを持った幸せそうな顔を横目に、僕たちはカレッジへと帰った。ダウニングカレッジの大きな中庭にはすでに昼休みを楽しんでいる生徒が多くいた。2面あるテニスコートでは、ラケットとボールが貸し出されているのか、アヤを含めた女子生徒がテニスを楽しんでいる。芝生では男子生徒たちがスポーツウェアを身にまとい、フリスビーを投げあっていた。一方、中庭の端では僕たちのメンターをしてくれているケンブリッジの学生たちが椅子に座り、何やら真剣に話し合っている。そこにはローラはもちろんのこと、ジェスの姿もあった。一体何を真剣に話し合っているのだろうか。僕はそんなことを思いながら、視線を彼らに向けたまま歩いていた。するとその視線に気がついたのか、ジェスがこちらに目を向けた。僕は一瞬ドキッとしたが、それを隠すためにすぐ視線を外そうとした。すると彼女は笑顔を浮かべながら、まるで遠いところにいる友人に対して呼びかけるように、こちらに向かって大きく手を振ってきた。僕は外そうとした目線を再び彼女に向ける。そしてそれは僕に向けられた合図だと勝手に思い込み、手を振り返そうと自分の手を大きく上げようとした。しかしそれよりも先に、ケースケとジュンが彼女に手を振り返していた。僕はそれを見て大きくあげようとした手を縮こませ、胸のあたりで彼女に小さく手を振り返した。僕は変な思い込みをしていたことが急に恥ずかしくなり、その場から消えたい気持ちになった。ジェスはそれを見ると笑顔を浮かべ、ケンブリッジの生徒の方へと振り返り、再び話し合いに戻った。すると後ろにいたユウが口からぽろっと言葉を発した。
「ジェス、可愛いよな」
「確かに可愛い」
ケースケが頷きながらはっきりと答える。
「でもあれだけ可愛かったら、彼氏ぐらいいるでしょ?」
僕は2人に目線を合わせることなく答えた。海外の恋愛事情はわからないが、彼女のような気さくな女性はモテるだろう。容姿も可愛いとなれば、ジェスに彼氏がいるのは当然だと僕は思った。
「そうか・・イケメンの彼氏いそうだよなぁ」
ジュンがため息交じりの声で呟く。
するとそれを見たケースケが鼻で笑うように答えた。
「ジュン。たとえジェスに彼氏がいなくても、俺たちは眼中にないよ」
「はぁー・・・・」
「日本人の女性は欧米ではモテるけど、日本の男たちはまったくモテないって聞くからなー。俺たちに縁はないんだよ」
僕は歩きながらケースケが言ったことを考える。確かにそうだ。日本でよく見る国際カップルは日本人女性と欧米の男性だ。逆に、日本人男性と欧米の女性のカップルを見ることはあまりない。その理由がなぜかはわからないが、僕はケースケの言ったことがなぜか腑に落ちた。僕は無意識に空を見上げる。晴れていた空も今は流れるように雲が動いており、どうも雲行きが怪しい。一雨来るかも。そんな不安な気持ちを抱きながら、僕は曇った空が自分の心情を表しているのではと思った。相変わらず僕の妄想癖は絶好調だった。僕はそんな妄想をする自分自身をどこかおかしく思い、一人苦笑いを浮かべた。しかしそう思ったのも束の間、自分の足にサッカーボールが当たったのを感じ、僕は視線を戻す。
「リョースケ!サッカーやろうぜぇー!」
ジュンが“来いよ”という仕草で僕を呼んだ。彼はサッカーゴールの近くで、早くも準備万全といった表情で待ち構えている。
「ジュン、サッカーできんの?」
僕はボールを足ですくい上げ、数回リフティングをした後、そのまま彼へとボールを蹴った。ジュンは慣れない足でボールを受け止めようとしたが、ボールは彼の足をかすめ、そのまま後ろへと転がっていった。ケースケとユウがそれを見て笑っている。
「うお、マジかよー」
ジュンは悔しげに、しかしどこか楽しそうな表情を浮かべボールを追いかけた。僕は彼らの楽しそうな姿を見て、それにつられるように笑った。僕は空を再び見上げることなく、芝生の感触を足で確かめながら彼らの元へと走った。曇っていると思っていた空にも太陽が顔を出し始めていた。
「いえーい!次はユウが鬼ぃー」
ジュンはユウが蹴ったボールを取ると、少年のようにはしゃいだ。
「まじかー。ジュンやるなー」
ユウは悔しそうな表情でジュンと鬼を交代する。僕たちはサッカーボールを使い、“パス回し”を楽しんでいた。“パス回し”とはプロの選手も練習で行う、複数人で円形を作り、中心にいる鬼役の人にボールを取られないようにパスを回し続ける簡単なゲームだ。パスが鬼に取られると、そのパスを出した人が鬼になるというシステムで、鬼役だったジュンは見事ユウのパスを防いで、鬼役をユウに交代させたところだった。
「ジュン、絶対復讐してやるからなー」
ユウは鬼役にも関わらず、ジュンから一切目線を外さず徹底的に彼を狙っていた。僕とケースケは笑いながらパスを毎回ジュンへと回し、時には意地悪なボールで彼を困らせた。そしてジュンのボールはとうとうユウに取られ、再び鬼役がジュンにまわった。
「お前ら、ふざけんなよぉー」
ジュンは額に汗を垂らしながら、若干の息切れとともに笑顔で文句を言っていた。僕たちは腹を抱えて笑った。しかし彼は運動をすることがとにかく楽しいらしい。Tシャツの袖をめくり上げ、“次やろうぜ”と僕たちに催促させた。ケースケがボールを蹴ろうと準備をする。するとケースケは突然蹴るのを辞め、視線を僕の後ろへと向けた。
「楽しそうね。私たちも混ぜてくれる?」
どこかで聞いた女性の声だった。僕はすぐに後ろを振り向くと、そこにはジェスを含めたメンター4人がいた。どうやら話し合いも終わり、暇を持て余しているらしい。
「全然いいけど、ルールは知ってるの?」
僕はジェスに目線を向けて訊いた。
「あなたたちの姿を見ていれば、大体わかったわ。誰か1人をいじめればいいんでしょ?」
ジェスは不敵な笑みを浮かべそう答えた。
「まぁ、間違ってはいないけど・・・正解でもないかな」
「冗談よ、冗談。ルールは大体わかったわ。ボールを取られなければいいんでしょ?楽しそうだわ」
ジェスはそう言うと、ケースケとジュンの元へと向かった。どうやら彼らにもお願いしているらしい。2人は照れくさそうに“もちろんいいよ”という表情で彼女に応えた。ジェスは“Yes”とガッツポーズをすると、僕へと一瞬目線を向けて、隣に立った。身長165cmほどの細身の体型をしたその女性は、どうやらパンプスを履いたままサッカーをするらしい。
「フットボールはできるの?」
イギリスではサッカーのことをフットボールと呼んでいる。サッカーがどうやらアメリカ英語らしく、そう呼ぶことを好かないイギリス人もいると聞いたことがある。僕はとっさに単語を変えて、彼女に訊いた。
「あら。こう見えても運動するのは好きなのよ。フットボールはしたことないけど」
ジェスは長袖のカーディガンをまくり、腕を組みながら“何か文句ある?”といった表情で僕を見つめた。僕は半ば不安な気持ちだったが、とりあえず彼女の言葉を信じようと思い正面を向いた。ケースケがボールを蹴り始める。メンターたちは使い慣れていない足でボールを蹴っていた。ジュンは自分の足取りをわざと遅くして、無理にボールを取らないように空気を読んでいる。しばらくパスが続き、僕は自分に来たボールをジェスへと渡した。すると彼女は“Wow”と叫びながら、慌てふためいた様子でボールを蹴った。しかし彼女の足が空を切る。ボールはコロコロと彼女の後ろへと転がった。ジェスは見失ったボールを必死に探し、見つけたボールを蹴ろうとする。しかしその時にはもうジュンが距離を詰めており、彼女の蹴ったボールはジュンの元へと渡った。
「次はジェスが鬼だよ」
僕が言う。
「リョースケ。やってくれたわねぇ」
ジェスは笑顔を浮かべながら、“やられた”という仕草で円の中心へと向かった。彼女は鬼になると、ボールに向かって一目散に走り始める。どこか楽しそうな、それでいて真剣な様子のジェス。ポニーテールに結んだ鮮やかなブロンドヘアーを風になびかせ、右へ左へと走る彼女の姿は僕の視線を釘付けにした。自分の意識はすでにボール回しというゲームにはなかった。自分のところに来たボールをとりあえず適当に蹴り、すぐに視線を中央にいる彼女へと向ける。僕は自分の目というフィルターを通して、彼女の姿を脳裏に焼き付けていた。今自分の手にカメラを持っていたら、おそらく彼女の写真を何百枚と撮るだろう。それほどまでに彼女の一つ一つの行動や仕草に夢中になっていた。するとユウが蹴ったボールは空に大きな弧を描き、僕の後ろへと転がっていった。
「しまった!リョースケ、ごめん!」
ユウがこっちに向かって大声で謝ってきた。
「全然いいよー!」
僕はユウにそう言うと、自分の背後に転がっていったボールへと走った。なんとかボールへと追いつき僕は皆がいる場所へと振り返ろうとした。しかしその途端、目の前にはジェスがいた。僕と彼女との距離は午前中に自己紹介をした時と同じくらい近かった。ただ今目の前にいる彼女は腕を胸の前に組み、“あきらめなさい”と言わんばかりの気迫でこちらを見ている。
「リョースケ、もう逃げられないわよ」
ジェスは自信たっぷりの表情で僕に言った。今の彼女の目つきは、すぐそこにいる獲物を絶対に逃さないトラそのものだ。一歩でも動けばすぐに襲いかかって来そうなほどで、その眼差しはいつにも増して真剣だ。しかしそのトラも僕にとっては子猫同然だった。僕は余裕の表情で彼女をどう振り切るか考えた。というのも、僕はこの距離でも彼女にボールを取られない自信があった。一応子どもの頃にサッカーを経験した身ではあるし、いくら彼女との距離が近いとはいえ、目の前にいる女性はサッカーの素人だ。すぐに彼女を振り切ってボールを返すことくらい容易いことだった。しかし、ジェスはそんなことを想像もしていない。絶対にボールを取って、あなたを鬼にしてあげる。そんなオーラを醸し出している彼女を見ると、僕はなぜか彼女の期待に応えたいと思った。僕はわざと慌てふためいた様子を演じ、彼女がボールを取れるようにした。その演技や一連の流れは完璧で、おそらく他の人たちも気づいていないだろう。彼女は見事に僕からボールを奪うと勝ち誇ったように腕を上げ、なぜかボールを手に取り皆がいる円へと戻っていった。きっとジェスは自分の演技に気づいていないだろう、僕はそう願いながら彼女の笑顔を横から眺めていた。次の鬼は自分。しかしまったく悪い気分ではなかった。僕は笑みがこぼれそうになるのをなんとか我慢し、すでに鬼のいないボール回しが行われている円へと走って戻っていった。
「リョースケ!」
昼休みがまもなく終わろうとしていた。僕たちはメンターたちに別れを告げて、各々が授業の準備をするためにフラットへと戻っている最中だった。1人の女性の声が僕を呼んでいる。
「リョースケ、ジェスが呼んでるぜー。どうしたんだろう?」
ジュンが不思議そうな様子で後ろを見た。僕はジュンの行動につられるように振り向くと、ジェスがこちらに走ってくる様子がみえた。彼女は手を大きく振ることなく、ネジ巻き人形を歩かせたような足取りでこちらに向かってきた。
「僕に何の用かな?先にフラットに戻ってていいよ。すぐに追いつくから」
僕はみんなにそう言うと、彼らと一旦離れてジェスが来るのを待った。彼女はサッカーをしたせいなのか、こっちまで走ってきたせいなのか少し呼吸が荒くなっている。ジェスはなぜ僕を呼んだのだろうか。自分の頭の中はその理由を考えることでいっぱいになった。
「ジェス、どうしたの?何かあった?」
「ええ、フットボール楽しかったわ。ただありがとうって言いたくて」
ジェスは肩にかけたトートバッグを握りしめながらそう言った。ただそれだけを言うためにこっちに来たのだろうか。僕はすこし疑心暗鬼になりながら答えた。
「それは良かったよ。僕も楽しかったし。ただ疲れて眠たくなったから、授業中に寝ないか不安だけどね」
「きっと大丈夫よ。眠れないほど楽しい授業を準備してるから」
「それは楽しみだね」
僕のジョークを彼女が理解してくれていることが何よりも嬉しかった。どこかアヤと話している時のような親近感が湧いてきて、もっと話していたいという衝動にかられる。しかし授業の準備があるので僕はその場を離れようと思った矢先、ジェスは会話を続けた。
「リョースケ、あの時私にわざとボールを取らせたでしょ?私にはわかってたわよ」
心臓が一瞬止まりかけた。ジェスが言っているのは、おそらく僕がわざと彼女と鬼を交代した時のことだろう。ただそれは完全犯罪と言わんばかりの完璧な演技と一連の流れだったはずだ。気が付くはずがない。しかしジェスにはすべてお見通しなのだろうか。ジェスの目線は一直線に僕へと向けられている。彼女のスカイブルーの瞳というのは人間の本性を暴く特殊能力でもあるのではないかと一瞬疑ったが、そんな馬鹿げた考えもすぐにどこかへ消えていった。ただ僕はどこか彼女に申し訳ない気持ちになり、重たくなった口を開いた。
「ああ、あの時か。あんなことするべきじゃなかったのかな。なんか、ごめんね」
謝罪の言葉に対し、ジェスは依然としてまっすぐな目線をこちらに向けている。
「やっぱりそうだったのね。でもどうして謝るの?」
「ただ申し訳なく思ってさ。ジェスに代わって鬼になりたかったんだよ。ずっと鬼だったわけだし」
「私は大丈夫だったのに。でもありがとう。私のことを考えてくれたのね。リョースケは優しいわね」
「優しくなんかないよ。ただ当然のことをしたまでだと思ってる」
「あなたは優しいわ。イギリスの男性は意地悪な人ばかりだから。なんだが嬉しかった。とにかくありがとう。ただそれを言いたかったの」
これも彼女のジョークの一つなのだろうか。しかし考える隙も与えず彼女は続けた。
「これだけは言わせて。あなたの考えはすべてお見通しよ。なぜかはわからないけど、私にはわかるの。先生の言うことは信じた方がいいわね」
「その方が良さそうだね。ありがとう、先生」
彼女の眼差しには力がこもっていた。それはジョークを言っているようには思えなかった。そんな力強い眼差しに僕は圧倒されると同時に魅了された。
「もう行かなくちゃ。それじゃまた後で。授業には遅れないでね」
ジェスはそう言うと、後ろを振り向き僕の元を去っていった。彼女が滞在しているフラットはダウニングカレッジとは違うカレッジとのことなのでここからは幾分か距離がある。彼女は芝生に足をとられないように注意しながら、こちらを振り向くことなく颯爽とその場を去っていった。僕は彼女がダウニングカレッジからいなくなるまでその後ろ姿を見送った。その間何を考えていたかは覚えていない。ただ思っていた通り、ジェスには僕の行動が全て筒抜けだった。まるで裸にされるかのように僕の心を読んでいる。こんな感覚は初めてだった。それでもなぜかそれが嬉しかった。ジェスの前で嘘をつくことはできない。これからはありのままの自分の姿で彼女に接しなければいけない。それで彼女に失望されないのなら、僕は喜んで正直者になろうと思った。右ポケットに入っているスマートフォンがバイブレーションとともに鳴り始め、僕は我に返った。急いでスマートフォンの画面を確認する。ジュンからのLINEの電話だった。言い忘れていたが、ここのカレッジはWi-Fiが通じていることもあって、日本にいる時と同じように連絡を取り合える。この電話から察するに、ジュンは僕に準備を急ぐように催促しているのだろう。もっといろいろ考えたかったが、それよりも今は次の授業の準備が先だった。僕はジュンの連絡に応えることなくスマートフォンをそのままポケットにしまい、ジェスのいないカレッジの校門を数秒見つめた後、振り返ることなくその場を立ち去った。