始まりの朝
午前6時30分。黒電話のジリジリジリという音が鳴り始め僕は目を開けた。このまま眠っていたい、そんな欲求を全力で否定するような音だった。僕は眠気からまだ覚めていない体をなんとか起こし、充電された携帯のアラーム機能をオフにする。机の前にかかったカーテンを開け朝日の光を感じると、そこにはイギリスの空が広がっていた。目の前の道路にはすでにランニングに勤しむ男女の姿や、犬の散歩をしている老夫婦が右から左へと過ぎ去っていく。なんとも穏やかな朝だった。夏の季節ではあるもののイギリスの朝は小寒い。今日の天気は晴れ。しかし青空には雲が数多くかかっており、イギリスらしい急変する天気を象徴するような空だった。僕は寒気を感じながらも、寝癖でぐちゃぐちゃになった髪の毛を整え、朝食をとるためさっそく身支度を始めた。朝食はカレッジ内にある食堂で食べることができる。ただ食堂は自分がいるフラットからは芝生がある中庭を挟んだ位置にあるため、一旦外に出て歩いて向かう必要があった。僕は共有キッチンにある裏口を出て、湿った芝生の感触を足元に感じながら歩き始めた。他の生徒たちも眠たそうな表情を浮かべ各々が食堂へと向かっている。
「おはよう」
中庭を歩いている途中、眠たそうな表情をしたジュンとケースケに会った。彼らは偶然同じフラットらしく、2人とも寝間着にサンダルを履いた“たった今起きた”ようなラフな格好だった。
「眠そうだね」
僕が2人に訊く。
「寝ようと思ったのに、ケースケのやつ、俺の部屋に来てトランプやろうって。結局他の友達も誘って夜中までやっちゃったよ」
「せっかく同じフラットなんだし、それくらい良いじゃん。この1ヶ月は寝かさないから」
「勘弁してくれよぉー」
ジュンとケースケは時折大きなあくびをしていたがどこか楽しそうな様子だった。僕たちは今度の休憩時間に芝生でサッカーをしようという話をしながら食堂へ向かった。食堂は芝生を抜けるとすぐに姿を現した。ただその造りはギリシャのパルテノン神殿を連想させるもので、世界史好きの自分としては一気に眠気が覚める思いだった。中ではすでに他の生徒が朝食を食べており、朝から何か騒がしい。というのも、朝食の豪華さだろうというのはすぐにわかった。朝食はビュフェ形式で、そこにはスクランブルエッグ、ベーコン、ハム、ソーセージ、パンといったイギリス式の朝食の他にも、サラダやスープ、デザートといったまるで豪華なホテルに泊まった後の朝食のような品揃えだった。イギリスのご飯は美味しくないという噂は有名ではあるが、これほど豪勢な品揃えを見ればそんな噂は嘘だろうと思えてくる。僕は何にしようか迷っていると、後ろにいたジュンが目を輝かせながら呟いた。
「めっちゃ美味そうじゃん。朝早く起きる意味ができたわぁ」
朝食を食堂で取るか取らないかは個人の自由なので、中には授業ギリギリまで寝ている生徒もいるらしい。しかしジュンの目からは朝食のために朝早く起きるという固い決意が見えた。ただそんな決意も寝間着姿ではどこか滑稽に見えてきて僕は笑みがこぼれた。
「これだけ種類あれば飽きることもないかな」
僕が答える。
「それな。とりあえずデザートは全て制覇しないと」
言い忘れていたがケースケはスイーツ男子だった。目線の先にはデザートが陳列された棚があり、手に持った皿を持ち一目散にデザートへと向かっていった。
「リョースケ、後で一緒の席に集まろうぜ」
ジュンはそう僕に言い残し、彼もまた手に持った皿にさっそくパンを乗せると奥へと消えていった。僕も彼らに遅れまいと皿を手に持ち朝食を選び始める。結局、食堂での初めての朝食はイギリス式、イングリッシュブレークファーストにした。一つの皿にはベーコンにスクランブルエッグ、ポテトにマッシュルームを乗せ、もう一つにはこんがり焼けたパンとヨーグルトを選んだ。コップにはミルクティーを注ぎ、両手一杯になりながらテーブルへと向かった。テーブルは一列に長い作りで、向かい合うように椅子が置かれている。ハリーポッターの食堂といえば説明がつくだろうか。あれはオックスフォード大学をモチーフにしていると言われているが、とにかく長いテーブルに人が向かい合って食べている姿はハリーポッター映画さながらだった。僕はジュンとコースケの姿がないことに気づき、先に場所をとっておこうと思いとりあえず空いているスペースへと座った。他の友達に「おはよう」と挨拶を交わしながらテーブルに置いてあるケチャップを手に取り皿にかけていると、ジュンとケースケ、後に来たユウがそこに合流した。
「ジュン、それは食い過ぎ。絶対授業中寝るやつだわ」
ユウが笑いながらジュンに言った。
「これくらい普通でしょ。朝食べないと力も湧かないし」
「いや、だからって皿一杯にハムとソーセージはおかしいよ。太るぜー」
ケースケの言うとおり、ジュンが持ってきた皿にはハムとソーセージが山のように盛られていた。しかしケースケとユウのいじりにも動じず、幸せそうな笑みがジュンからは溢れていた。どうやらジュンの目から垣間見ることができた決意は本当のようだった。彼はこの幸せな朝食の時間のために毎日早起きをするだろう。僕はそう思いながらフォークとナイフを使い朝食を口へと運んだ。
「おはよう」
僕たちが会話をしていると、ローラの声が聞こえた。昨日と変わらない身なりではあるものの、メガネの下から見える表情はどこか眠たそうだった。彼女はシリアルが大量に盛られた皿を手に持ち空いている席に座った。僕はローラに挨拶を返すものの、目線は完全に彼女のシリアルに向けられていた。おそらくケースケとユウも同じことを思ったのだろう。僕たちはローラの持つ大量に盛られた皿を見た後、唖然とした表情でお互い目線を合わせた。
「ローラだってあれだけ食べるんだから、俺の食べる量だって別におかしくなくね?」
ジュンが勝ち誇った顔でそう言うと、マスタードがついたソーセージを口一杯に頬張り、幸せそうな表情とともにミルクを一気に飲み干した。僕たちはその満足げな表情を浮かべるジュンをよそ目に、再び会話を始めた。その後は取り留めのない話題で盛り上がった。これからの授業のこと、週末の予定、各々の話題で朝食の時間はあっという間に過ぎていった。
朝食を終えた後、僕はケースケ、ジュン、ユウに一旦別れを告げて再び自分の部屋に戻り、授業の準備を始めた。満足のいく朝食のおかげで半ば満腹ではあるものの、必要なものを一式バッグにつめて、時間に遅れないようにフラットを出た。教室は食堂よりもさらに奥の建物にあるとのことなのでフラットからは距離がある。僕は誰もいない静かな芝生を足早に渡り建物へと向かった。紙に書かれた教室の場所に行ってみると、イギリスの大学における“教室”という空間に驚かされた。日本の大学の教室は履修人数が多いこともあり大教室がほとんどだが、イギリスを含め海外の大学の授業は少人数が基本だ。つまり教室は大きい必要はなく、僕たちが授業を受ける教室も小さかった。またケンブリッジは歴史があるせいか、教室内部もまるで中世の貴族が食事を楽しむ場所のようなオシャレな造りだった。地面には幾何学模様の絨毯が敷かれ、天井にはシャンデリアが一つと絵画が描かれており、棚には何やら高そうな壺やインテリアが並んでいる。大きな窓には太陽からの光が流れ、その光が教室自体を何か神聖な雰囲気にしている。僕はこれが教室かと信じがたい表情を浮かべながら入ったものの、その雰囲気に圧倒されどうしていいのかわからず、とりあえず自分の名前が書かれてあるテーブルの椅子に腰掛けた。他の生徒も日本の教室とはまったく違うことに驚きを隠せず辺りを見渡している。後に来たジュンとケースケも「すげぇ」という言葉を発し、緊張した面持ちで椅子に座った。僕も含め生徒数は10人ほどだろうか。授業時間になり教室は静寂に包まれた。後は教師を待つだけ。僕はどんな先生だろうかと、期待と不安が入り混じった複雑な心情で窓から見える外の景色を眺めていた。
− 僕はこの瞬間を決して忘れないだろう。もしかしたら神様はこの出会いを、僕がイギリスに来る前から、いや、大げさに言うが僕が生まれる前から“人生”というシナリオに準備していたのだと思う。“運命”という言葉があるとすれば、まさにその瞬間が僕にとっての“運命”の時だった −
そこに彼女は現れた。