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僕の彼女はイギリス人  作者: ぐーちょきぱん
3/6

2人のイギリス人

午後7時。イギリスの夜は明るかった。日が長いといった方が正しいだろう。イギリスは日本よりも高緯度にあるため、その分太陽に当たる時間が長いとどこかで調べたことがある。そんなこといつ調べたんだっけと自分に疑問を抱いたが、僕は人々の波をかいくぐり向かうべき場所へと足を運んでいた。というのも僕たちをサポートする現地の学生がパブでの食事を招待してくれるということだったので、ダウニングカレッジを出て少し北にあるパブ「ウェザースプーン」に僕は向かっていた。 周りは明るいものの既に7時を過ぎている。しかしケンブリッジの街は相変わらず賑やかだった。“夜はこれからだ”と言わんばかりに人々で活気づいている。僕はその雰囲気を全身に噛みしめながらパブへと向かった。

「ウェザースプーン」に到着すると、入口には年齢確認をするためのスタッフだろうか、スーツの上からでも体格の良さがわかる黒人男性2人が立っていた。僕は無愛想な彼らにパスポートを見せ、未成年ではないことを証明し、彼らの目線を背中に感じながらお店に入った。「ウェザースプーン」はいわゆるチェーン店で、イギリスに数多く展開している有名なパブの一つだ。全てが初体験の自分にとってパブに入ることだけでも感動的だったのだが、その雰囲気には一段と心惹かれた。映画やドラマで見るようなパブ。店内は人々で溢れ、会話が店内を交差する風景。そこにいるだけで、あたかも自分が物語の主人公の一人であるかのように錯覚し、僕は感情が高ぶった。ふと目を配ると、カウンターには身なりが整った若い男性ウェイターが客と楽しそうに話をしていた。彼は他の客が来るとカウンターにあるビールサーバーからビールを注ぎ始める。ジョッキ一杯に注がれたビールからは泡が滴り落ち、男性客はそれを気に止めることなく、豪快に飲みながら和気藹々とカウンターでウェイターと話をしていた。こんな雰囲気の中だったら一日中いても飽きないだろう、そんなことを思いながら僕は友人たちを探すべく店内を見渡した。ここのパブは中央が吹き抜けになっている二階建て構造で、一階中央はテーブルのみのいわゆる立ち飲みができる場所だ。入り口側の壁に巨大スクリーンが配置されていることから察するに、プレミアリーグやラグビー、クリケットを巨大スクリーンで立ち飲みしながら見られる作りになっているのだろう。その奥には大人数専用の広いテーブルスペースがあり、ケンプリッジ大学の学生であろう若者たちがお酒を片手に楽しそうに笑い合っていた。

「リョースケ!こっち!」

 一階奥のスペースから声が聞こえたのでそちらに目を向けると、広いテーブルスペースに陣取っているジュンが手を振りながら近づいてきた。

「先にあそこのカウンターで注文してきなよ。俺のオススメはジョンスミスだぜ、これは最高だ!」

 万遍の笑顔でしゃべるジュンはすでに顔が赤く火照っており、半分飲み干したジョンスミスのビールジョッキを片手にすでに“出来上がっている”状態だった。

「ジュン、それ何杯目?」

 僕が苦笑いとともに訊く。

「これ?まだ一杯目だよ」

 ジュンが何を言っているんだという表情をしながら答えた。これは確かなことだが、彼はお酒が弱い。初めて知り合ったレセプションパーティーではワインが提供されたが、彼はグラス1杯を飲み終える前に顔が真っ赤になっていた。これまでお酒で失敗してきた友人を何人も見てきた僕は彼の肩に手を当てて、優しく忠告した。

「それくらいにしておきなよ。顔が真っ赤じゃん」

 するとジュンは僕の言葉を受け止めたのか、相槌を打ちながら笑顔で答えた。

「俺ホント酒に弱いんだよな。自分でも分かってるんだよ。明日から授業だから・・・・“あと一杯”で終わりにしとくよ!」

 するとジュンは半分残っていたジョンスミスを勢い良く飲み干し、手の甲で口を拭うとカウンターへ歩いていった。僕はカウンターでウェイターにもう一杯と注文している彼に苦笑いを向けながら“やれやれ”と思い、席へと向かった。席にはすでに他の生徒がお酒を飲みながら楽しそうにしており、そこにはケースケもユウもいた。彼らも僕の存在に気づいたのかこちらに目線を向けて手を振る。ほとんどの席が埋まっている状態だったので、僕は開いている席をやっと見つけてそこに座り、メニューを見た。フィッシュ&チップス、ハンバーガー、ステーキ。昼にサンドイッチしか食べていない僕はメニューを見た途端口の中からヨダレが出るのを感じた。メニューには写真は載っていないが、そこからでも美味しさが伝わってきた。ちなみに頼むビールは決まっている。ハイネケン、フォスター、ジョンスミス、バドワイザーと有名どころのビールが羅列されている中で僕が選んだのは黒ビールのギネスだった。何故ギネスが好きなのかを口で説明するのは難しい。しかし、あの苦さの中にある旨みが僕の味覚を刺激し虜にするのだ。僕自身もそこまでお酒が強いほうではないが、ギネスであればジュース同様何杯でもいけるほどだった。僕はしばらくメニューと睨めっこをしながら食べるものを何にしようかと迷いに迷っていた。すると相席から英語が聞こえ、僕は飛び上がるように目線を上げた。

「リョースケ、席開いてなくて・・・隣いい?」

 リキュールの定番ピムズを片手に持ち、控えめな声でそう言ってきた女性はローラだった。彼女は僕たちの留学をサポートしてくれる現地の学生の一人で、いわゆるメンター的な存在だった。ローラは癖っ毛のあるブロンドヘアーを無造作に束ねたヘアースタイルとメガネをかけているのが特徴で、年もそこまで僕とは変わらないはずなのにとても落ち着いた、しかしどこか緊張もしているミステリアスな一面を持つ女性だった。話し声も小さく早口で、どちらかというと控えめな女性であるローラからまさか声をかけられるとは思わず、僕は一瞬状況が理解できなかった。おそらく彼女も今来たせいか席が見つからず、ここが開いていたから仕方なく来たといった感じだろうか。僕は夢中になっていたメニュー表を閉じて、すぐに彼女に答えた。

「もちろんいいよ、ローラ。何を食べるかもう決めた?」

「私は大丈夫、お腹空いてないから。ピムズだけでいいわ」

 ローラは早口にそう言うと、前にかかった髪を耳元までかきあげ手に持っていたピムズを飲み始めた。

「なるほど。それなら僕は注文してくるよ」

 なんとなく気まずい雰囲気を感じた僕はそう言い残すと、席を離れカウンターに向かった。僕はギネスとフィッシュ&チップスを頼み、ウェイターがギネスをジョッキに注ぎ始めるのを眺めた。ローラの英語は聞き取りやすいがとにかく早い。これ以上早く話されると聞き取れないなという不安感を抱きながら、ウェイターが準備したギネスを片手に席に戻った。

「ビールが好きなのね。何を注文したの?」

 ローラが話題を作るかのように訊いてくる。

「ギネスとフィッシュ&チップスだよ。イギリスっぽいでしょ?」

「そうね、良さそうだわ」

 会話が終わった。微妙な間が二人の間に流れる。僕は人見知りの性格を今になって恨んだ。それと同時にこの空気を変えようと何を話すべきか話題を頭の中で必死に探した。気がつくとギネスを半分も飲み干している。どうしても話題を見つけることができず途方に暮れていた僕だったが、そこに救いの手がのびた。

「リョースケさん、こんなところにいたんですか!」

 どこか調子の外れた甲高い声で僕の名前を呼んだのはアヤだった。彼女は僕と同じ学部の後輩でこの留学前から知っている仲だった。彼女はぽちゃっとした愛くるしい体型とボブスタイルの黒髪が特徴で、空気が読めて冗談も通じる友達の一人でもあった。

「ローラもいるのなら一緒にしゃべりましょうよ!隣いいですか?」

 アヤに対しては冗談を言って笑わせるのがいつものパターンだが、今回ばかりは彼女が救いの女神に思えた。僕は“どうぞどうぞ”と救いの女神を招き入れ隣に座らせた。アヤはいつもの僕の態度とまったく違うことに一瞬違和感を感じながらも、ローラに笑顔を向けて僕たちのテーブルに座った。

「リョースケさん。何かおかしいですね。どうかしたんですか?」

「いや、別に。アヤちゃんに見惚れていただけだけど」

「はいはい。すぐそーやって私をいじめるんですから」

 アヤはぷくっと口を膨らませ、僕を睨みつける。僕は笑いながら彼女に“ごめん”という表情を作った。するとアヤはいつものように“仕方ないですね”といった顔で、膨らませた口から空気を抜き、一転して笑顔を見せた。僕たちがしばらく2人で笑いあっていると、そこに今まで口を閉ざしていたローラが興味津々な顔でこちらに質問を投げかけた。

「あなたたち仲が良いのね。いつから知り合いなの?」

 僕は彼女へと顔を向け答えた。

「この留学のちょうど前だよ。アヤは僕の後輩なんだ。なんでここまで仲が良くなったのか僕もわからないけど」

「リョースケさんは冗談を言って私をいじめるんです!ローラ、そういう男性って最低じゃないですか?」

アヤが冗談まじりの笑顔を浮かべてローラに訊く。ローラはくすくすと笑いながら“そうね”といった表情でアヤを見た。彼女の目はさっきとは違った、どこか緊張のほぐれた優しそうな目になっていた。するとローラは何か聞きたいといった表情を浮かべ、僕たちに質問した。

「二人は大学でどういったことを勉強してるの?」

 アヤと僕は同じ学部だが、いわゆる多様性に富んだ学部であり個人で研究テーマを決めることができる。アヤはフランス語・ドイツ語を学んでおり言語コミュニケーションに関した研究を、僕は犯罪心理学について研究をしていた。するとローラはその話題に興味を持ったのか、詳しく聞きたいとのことだったので、僕たちはしばらく各々の研究テーマについて語り合った。


 気がつけば3人で会話もはずみ、お酒も自然とすすんでいた。僕は飲み干したギネスに物足りなさを感じ、もう一杯注文するため彼女たちの楽しそうな姿を背に席を立った。周りを見渡すと現地の人も増え、お酒がすすんでいるせいか声のトーンも大きくなり、皆かなり楽しそうにしている。壁に付けられた大画面のスクリーンにはいつの間にかサッカーの試合が流れており、店内には歓声も上がっていた。僕は本場のパブの雰囲気を肌で感じながら立ち飲みしている人をかいくぐり注文に向かった。ちなみに2杯目はハイネケンを注文した。世界的にも有名なドイツビールの1つ。シンプルなビールの味ではあるものの、ギネスの苦さが残る口の中を見事に中和するあの感覚は一種の快感でもあった。僕は泡が滴り落ちるジョッキに目を配りながら急ぎ足で席に戻る。すると頼んでいた自分のテーブルにフィッシュ&チップスが準備されているのを確認し、ゴクリと喉をうならした。

「リョースケさん来るの遅いから、ポテトちょっと貰っちゃいました!」

 アヤがポテトをつまみながら“してやったり”といった表情でこちらを見ている。

「アヤちゃん、こちらのポテト£8になります」

 僕が冗談まじりで言う。

「えー、ポテトだけなのに高くないですかー?」

 ローラは日本語がわからないが楽しさが伝わったのか、くすくすと笑い続けている。僕は熱々のフィッシュ&チップスを口に運びながらハイネケンと一緒に胃の中へ流す。目を閉じ最高の感覚に浸っているとアヤとローラは話の途中だったのか、再び話題を戻し2人で盛り上がっていた。どうやらロンドンの観光名所について話しているらしい。僕も週末にはロンドンに行く予定があったのでその話には興味があった。僕は口の中でいっぱいになったポテトとビールを素早く飲み込み、彼女たちの話に割り込んだ。そこからは僕も加わり、しばらく3人でロンドンの話で盛り上がった。


 夜も更けますます店内が賑わってきたころ、僕がいたテーブルにはアヤの友達2人も加わり5人になっていた。5人もいると会話が途切れることはなく、進んで話題を持ち出す必要もなかったので、正直なところホッとしていた。いわゆるガールズトークに花を咲かせる4人は常に笑いあっており、その笑い声がテーブルの周りにこだまする。僕はその笑い声の余韻を肴にビールを楽しんでいた。するとアヤと友達2人はトイレに行くということで席を外し奥へと歩いていった。

「今日はとても楽しいわ」

 ローラはピムズのジョッキにストローを回しながら、お酒で若干赤くなった顔に笑みを浮かべてそう言った。僕は“それは良かった”という表情を彼女に返し、残り少なくなったハイネケンのジョッキを口に含んだ。頼んでいたフィッシュ&チップスも残り少なくなり、お腹の状態も満腹に近くなっていた。僕はゆっくりとポテトを口に運びながら、視線を店内に向ける。熱狂的なイギリス人にサッカーの試合。ビール片手に楽しむ現地の学生たち。遠くに見える楽しそうなケースケやジュン達。僕は視線を平行に移動させながらパブの景色を楽しんでいると、そこに見慣れた格好をした女性が僕の視界に入った。レザージャケットにブロンドヘアーの女性だ。


−あれ、あの人は・・・?−


 僕は目線を彼女に戻した。世界が再びスローモーションになり、彼女の姿だけがそこに残った。僕は酔いが一瞬で冷めたかのように冷静になった。アヤたちがいたせいか奥の席が見えなかったので彼女の姿にまったく気がつかなかったが、僕は彼女の姿に身に覚えがあった。彼女は紛れもなくカレッジ見学の時に出会った(いや、僕が一方的に夢中になっていただけだが)、図書館から出てきたイギリス人女性だった。僕は自分の心臓の鼓動が早くなっていくのを感じた。酔っているせいだろうか、彼女と再び会えたことが嬉しかったからだろうか、それはわからない。彼女は両手にナイフとフォークを持ち、器用に食事をとりながら日本人学生と楽しそうに話をしている。その姿を見るに彼女もローラと同じ僕たちをサポートする現地の学生だろうか。僕は惹きつけられるように彼女を見つめた。もちろん彼女が僕の目線に気づくことはなく、テーブルを囲う女子生徒と共に楽しそうな笑みを浮かべている。

「どうしたの?」

 ローラが不思議な表情で訊いてきた。僕は火照った顔をお酒でごまかしながら冷静さを保とうとした。もしかしたらローラは彼女のことを知っているかもしれない。これは絶好の機会だと思い、勢いにまかせてローラに尋ねた。

「あそこにいるブロンドヘアーの女性って誰か知ってる?」

「ああ、彼女?ジェスよ。私の友達でもあるわ。確か英語の先生としてこのプログラムに参加しているはずよ」

 彼女の名前はジェスというらしい。今日の午後に配られた教師のリストにはそんな名前はなかったはずだったが、今はそんなことはどうでもよかった。彼女の名前を知ることができ、心の中の自分は小さくガッツポーズをしている。僕はにやけそうになった顔を隠すのに精一杯だったので、ローラの言葉に反応することができなかった。僕は再び彼女に目線を写す。ジェスと言われる彼女は今日の午後に会った時とは変わりなく、一目見れば引き込まれるような綺麗なブロンドヘアーをポニーテールに結び、しゃべる女子生徒一人一人に取り繕うことなく笑顔を向けていた。なんとも気さくな、それでいて女性らしい可愛さを持つ人。これが彼女に対して初めて持った印象だった。僕はビールジョッキを無意識に口元へ運んだ。しかしそれが空になっていることに気がつき、僕はふと我に返った。どれほどの時間が経ったかはわからないが、僕は彼女の姿に釘付けになり、無意識のうちにビールを飲み干していた。僕はローラに目線を移した。僕が彼女に夢中になっていたことにローラが気づいていないかが心配だった。しかし彼女は自分のスマートフォンでメッセージを打っているのか画面を凝視している。おそらくこちらには気づいていないだろう。僕は自分の心配が杞憂だったことにほっと胸をなでおろそうとしたが、その瞬間酔いの入った聞き覚えのある声が僕の背中をツンと刺激した。

「いやー、イギリスって最高ですね!」

 振り返るとアヤが友達とステップをしながらこちらに帰ってきた。店の照明のせいか彼女の顔は赤く火照って見えたが、それがライトのせいではなくお酒のせいだと気づくのに時間はかからなかった。イギリスに来てまだ2日目。これといってあまりイギリスっぽいことを体験していないはずだが、彼女の火照った顔はなぜか幸せそうだった。アヤは空になっている僕のビールジョキに気づくや否や食い気味に訊いてきた。

「リョースケさん、もっと飲まないんですかー?」

 先までとは違い、彼女の声のトーンは高かった。僕は彼女のトーンに合わせるように答えた。

「アヤちゃんが奢ってくれるなら何杯でも飲むけど?」

「えー、リョースケさんが奢ってくださいよー、ねー?」

 アヤは友達の体に手を絡ませながら、賛同を求めるように語りかけた。友達は若干の苦笑いをかえし、僕に“助けて”という目線を向けた。友達は酔っているアヤの対応に困っているらしい。僕は週末の予定の話題をアヤに振り、彼女の注意を僕に向けさせた。するとアヤは席に座ると"聞いてくださいよー”いう口調で楽しそうに話始める。アヤの友達は安堵の表情を浮かべ、僕に控えめなお辞儀を向けた。そこからは再びローラも含め5人で多くのことを語り合った。一番の話題はローラには彼氏がいるということ。会話中、時折スマートフォンを見てメッセージを打っていた相手は彼氏だったらしい。相手もケンブリッジ大学の生徒らしく、馴れ初めはフォークダンスの活動だったと言っていた。僕たちは誘導尋問のようにローラを追い詰め、不思議なオーラに包まれていた彼女の身包みを剥がしていった。ローラはこれといって嫌な顔をすることもなく、それどころか彼氏の話題に対して幸せそうな表情を浮かべていた。帰るころになるとローラの笑顔は絶えることがなく、出会った時とは別人のようになっていた。


「明日からとうとう始まりますね」

 フラットの入り口に着くとアヤが落ち着いた様子でそう呟いた。8月だというのに、冷たい風が肌身にしみる。その風が彼女の酔いを冷ましたのだろうか、アヤはパブにいた時とは違ったいつものトーンで僕に語りかける。フラットというのは一戸建てに個別の部屋、共同のキッチンやトイレ、シャワールームを完備した、日本でいうところのいわゆる“寮”のような宿泊施設で、僕とアヤは隣同士のフラットだった。

「アヤちゃん、急に感慨深くなってどうした?」

「別にいいじゃないですかー。全部が楽しみなんですから」

「わからないことがあったら何でも聞いてくれたまえ」

「はいはい、ありがとうございます。リョースケ先輩」

 アヤはニヤリとした顔でこちらを見つめている。今までは僕がアヤをいじる一方だったが、最近になって彼女もそれに慣れてきたのか返答が上手くなってきた。その自信が彼女の口角をわざとらしく上げた笑顔から窺うことができる。僕はアヤに別れを告げ、自分のフラットへと戻った。フラットの1階には部屋が2つと奥に共有キッチンがあった。共有キッチンは思いの外広く、6人ほどが座れるテーブルに大きな冷蔵庫、洗濯機と乾燥機があり、もちろん料理も十分できるキッチンがあった。夜も遅いせいかキッチンには人の気配はなく電気も消えていたが、誰かが洗濯をしているせいか洗濯機がガタガタと音を立てている。僕はキッチンの明かりをつけ冷蔵庫から午前中に買ったオレンジジュースをコップにつぎ一口で飲み干した。一呼吸した後、僕は自分の体が予想以上に疲れていることに気づき急に睡魔に襲われた。僕は自分の重たい体をなんとか動かし2階にある部屋へと戻った。今回僕に与えられた部屋は大きい方であった。午前中にジュンやケースケに部屋を見せたが、2人ともその大きさに驚いていたほどだ。おそらく10畳以上はあると思う。そこには勉強机が一つと服を収納するクローゼットが一つ、人一人眠れるベッドが隅に寄せられているだけで物静かな佇まいだった。自分のキャリーケースには荷物が乱雑に置かれており、時間を見つけ整理整頓する必要があったが、僕は見て見ぬ振りをしてすぐに部屋着に着替えた。シャワーを浴びようと思ったがそれさえも面倒くさく感じるほど疲労を感じている。僕はスマートフォンのアラームを設定した後、そのままベッドに向かい寝そべった。ベッドの居心地は正直そこまで良くはない。しかし寝るには十分な居心地だった。僕は真っ暗な天井を見上げ、今日1日を振り返った。思い返すと今日は激動の1日だった。僕は自分自身が疲れているのも当然だろうと思いながら、そっと目を閉じた。


 − 頭の中は真っ暗で何もない世界だった。虚無といった表現が正しいのだろうか。全てが色を失い、音もなく、何の感情も存在していない世界。もちろん周りには何もなく、僕はその世界に取り残された、たった一人の存在だった。しかし、何もないその世界にひとつの光が差し込んでいた。それは暖かく、森羅万象に色や音を与え、自分の存在を肯定してくれる温もりさえもあった。僕はその光を見て、ふと思った。その光を発している存在は何なのだろうか。僕はその存在へ近づこうと歩みよる。しかしそれはまるで自分の影のように、近づいては離れ、離れては近づいてくる。手を伸ばしても届く気配はない。ただずっと側に寄り添い、自分自身の存在に意味を与えてくれていた。それは人間なのか、それともそれ以上の存在なのかもわからない。ただその存在を考えようとした途端、僕は彼女のことを考えた。彼女というのは、ジェスと呼ばれている、あのイギリス人女性だ。図書館で初めて彼女を見た時に感じたあの感覚。何もない自分の世界に、“光”という感覚をもたらした存在。もしかするとその光を発する存在は彼女なのかもしれない −


 僕は唐突に目を開けた。そこにはまた真っ暗な天井があった。見つめ続けると自分をどこか別の次元に引きずり込むような、そんな暗さだった。あの感覚は何だったのだろう、僕は再び考える。しかし、深く考えたところで正解を見つけることはできない。なぜなのか、その理由さえもわからない。ただ一つだけわかることは、あの時感じたものはこれまで一度も感じたことのない、経験したこともない感覚だということ。すると僕は真っ暗な天井を見つめながら無意識にこう思った。


 − 彼女にもう一度会いたい −


 そう思った後のことは覚えていない。おそらく疲労が最高潮に達したのだろう。僕は真っ暗な天井に引きずり込まれるように再び目を閉じると、静かに眠りに入った。

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