出会い
大学という場所は後悔をする場所だ。こんなことを日本のテレビに出ている人が言っているのを聞くと、せっかくの時間を無駄にしている気がして、逆に後悔をしないように過ごしたいという反骨精神に駆られる。2014年、夏。大学3年生を迎えた僕は、日本を離れていた。
晴れやかな空。気温は30度。しかし湿度がそこまで高くないせいか日本にいるよりも過ごしやすく、Tシャツに長袖のシャツを羽織る程度で十分だった。僕は途中まで読んでいた小説に区切りをつけ、本を鞄にしまった。COSTAのコーヒーを片手に、公園にいる若者たちに目を向ける。自分とは外見も、話す言語も違う若者たち。男女関係なく、どこか楽しげに話をしている。 何について話しているのかはわからない。唯一わかることは、彼らが母国語である英語を使っているということだ。そんな彼らの楽しそうな姿を見ながら、僕は唐突に誰かが言った言葉を思い出した。
「英語が上手くなりたければ、その国の彼女を作ればいいんじゃない?」
誰が言ったのだろう。何故今になって思い出したのだろう。自分でもわからなかった。ただ、その言葉が自分の脳裏に浮かんでは消えていく。僕の思考はそれで一杯になった。
−なるほど、海外の彼女か・・・−
僕は公園の芝生の感触を確かめるように寝そべった。芝生は少し濡れているものの、そのくすぐったい感触が自分の感覚を刺激し、妙に居心地を良くしてくれた。僕は見上げた青い空を遮断するように目を閉じる。“その国の彼女”という言葉から、僕はモデルのような美女を連想した。Victoria’s Secretのランウェイを優雅に歩く金髪の美女。そんな女性と付き合えたなら自分はどれほど幸せかと妄想を膨らます。しかし僕のような英語も話せない男に振り向く欧米の女性なんているのだろうか。考えたのも束の間、そんな女性はいるはずがないと妄想を一蹴し、自分自身を現実に引き戻した。再び青い空が目の前に現れる。どこか空との距離が近くなっている気がして、僕は無意識に手を伸ばした。今日の天気は快晴だった。澄んだ空気、光り輝く太陽、肌身に染みる新鮮な風。僕は目を閉じると再び妄想の世界に飛び立った。海外に来ると心が開けるとはいうが、まさにそんな感覚に浸っていた。全てが自分の可能性を受け入れてくれる気がして、妄想せずにはいられなかった。
−自分は今、日本からはるか遠い地にいるんだよな・・・−
妄想を楽しんでいたのか、いつのまにか鼻の下が伸びていたのだろう。それに気づいたのか、ジュンが笑いながら僕の妄想に割り込んできた。僕は閉じていた目をゆっくりと開け、声がした方向へ顔を向けた。
「リョースケ、日本じゃないからってハメを外しすぎるなよ。ほら、もうすぐカレッジ見学始まるぜ。間に合わなくなるぞぉー」
どこか自分も浮かれた調子でそう言い放ったジュンは、教材を入れたバッグを片手にカレッジへと走っていった。僕は離れていくジュンを目で追いかけた後、腕時計を見た。 次のイントロダクションが始まるまであと5分もない。さすがに遅刻はまずいと自分に言い聞かせ起き上がると、教材が入った自分のバッグを持ち、目線から消えかけたジュンをなんとか視界に捉え、彼の後を追った。走りながら感じる風は心地が良い。自分をどこまででも連れて行ってくれるような気がした。1ヶ月という長いようで短い時間。毎日を大事にしようと自分に語りかけ、これから待っている未知の体験に心躍らせながら、僕は足早に公園を去った。
僕は今、日本からはるか離れた国、イギリスのケンブリッジにいる。日本との時差はサマータイムで8時間。ロンドンから快速電車で約45分。イギリスの東部にあるこの街ケンブリッジは常に若者で賑わっている。しかし、ただの“若者”ではない。ケンブリッジといえば世界的に有名なケンブリッジ大学があり、世界から集まった学生が日々学び勉強している。“大学が街を作った”と言われているように、ケンブリッジ大学には31ものカレッジ(日本でいうところのキャンパスに近い校舎)があり、学生は各カレッジで寮生活をしている。13世紀に創立されたということもあり伝統的な建物が並ぶものの、モダンな雰囲気に溶け込んだこの街の風景は(どこか京都にも似た雰囲気ではあったが)日本にはなく、歩いているだけでも映画の一部を体験しているような感覚に浸ることができた。ではなぜ自分がこの街にいるのかを説明したい。大学3年生になった僕は夏休みを利用して大学が主催するサマースクールに応募した。英語を話せるようになることに越したことはないし、何より刺激のない大学生活にうんざりしていた。イギリスの名門ケンブリッジ大学での留学。自分にとってこれ以上にない経験だと思い、応募し面接を受け、なんとか受かったのだ。アメリカやカナダ、オーストラリアの大学と、英語圏に留学する選択肢はいろいろあったのだが、僕がイギリスを選んだ理由はごく単純だった。それは自分の好きなもの、例えばゴルフ、Burberry、Paul Smithが全てイギリス発祥であり、昔からなぜかイギリスに愛着を感じていたからである。それだけなのか、理由が単純すぎるのではないかと思われるかもしれないが、決断には"単純さ"こそが案外重要だったりもするのだ。ジュンとはその時に出会った。彼は薬学部に在学しておりアメフトをやっているらしく、筋肉質の体に短髪といういかにも体育会系男子という印象だった。無愛想ではあるものの、無垢な少年のように笑い、誰に対しても気さくな青年である彼とは初日のレセプションパーティーで知り合ったばかりだが、すぐに意気投合して仲良くなり、それからは休み時間になると一緒に行動するまでになった。
午後1時。僕とジュンは31あるカレッジの一つであるダウニングカレッジへと戻った。イントロダクションの一つでもあるカレッジ見学が始まろうとしていた。集合場所である中庭にはすでに他の生徒が集まっており、楽しそうに談笑している。僕たちが到着すると、ケンブリッジ大学の教授と思しき男性(ソクラテスのような、もじゃもじゃの髭にメガネをかけたおじさん)が現れ説明を始めた。どうやらこれからカレッジ内を一緒に歩き、ケンブリッジの歴史や今いるダウニングカレッジの歴史を学ぼうということらしい。彼が先行するように中庭を歩き始めると、皆が彼を追うように歩き始めた。生徒たちは皆ワクワクした様子で彼の話を聞いている。しかし、僕の足取りは重かった。というのも、正直なところ僕にとってこのカレッジ見学というのは退屈で仕方がなかったからだ。僕自身ここに来る前から留学が楽しくて仕方がなく、ケンブリッジやダウニングカレッジについてインターネットや本で事細かに調べていたので、彼の説明を聞くということは自分が知っている情報をもう一度始めから聞き直すような感覚で、どうしても気が進まなかったのだ。僕は彼の話をあたかも聞いているように装いながら耳を傾け、上の空でカレッジ内を見渡していた。芝生にはケンブリッジの生徒だろうか、数人がサッカーを楽しんでいる姿もあり、奥のテニスコートではテニスウェアを着た二人組の男子生徒が練習をしていた。目線が自然と彼らの楽しそうな姿に移る。すると痺れを切らしたのか、ケースケが芝生に目を輝かせながら呟いた。
「早くサッカーしてえなぁ」
ダウニングカレッジは寮から教室へと向かう道に広い芝生が生い茂っている。フットサルをするには十分すぎる芝生には休憩用のベンチの他、サッカーゴールまであるのでサッカーサークルに所属しているケースケが目を輝かせるのは当然だった。
「他の友達も誘って後でサッカーやる?」僕が提案する。
「いや、ラグビーボール買ってラグビーだろぉー」ジュンが食いつく。
「ラグビーはない!」
ユウとケースケが同時に突っ込み、ジュンの顔がどこか悲しそうになる。屈強な体に似合わないジュンのしょんぼり顔に僕たちは面白おかしく笑い合った。ユウとケースケは留学が始まる前に知り合った。ユウは法学部に通う野球マンでありながらもスターバックスでバイトもするというオシャレ男子。ケースケは政策学部に通う身長180cmのイケメンサッカー男子。どうやら二人ともイギリスに留学している彼女がいるらしく、彼女らに会うために留学をしたという。
−なるほど、愛は国をも超えるのか・・・−
留学前に3人で呑んだ時はそんなロマンチックな妄想にふけりベロベロに酔った挙句、最寄駅のトイレで吐いた覚えがある。今になって嫌な記憶が蘇り、ロマンチックに浸っていた自分が急に恥ずかしくなった。僕はすぐにそれを忘れるよう頭を振り払い、目線を遠くに移そうとした。
その時だった。
遠くにある図書館から一人のイギリス人女性が出てきた。身長は160cm程だろうか、黒のドレスにレザージャケットを羽織り、恐らくはドクターマーチンと思われる赤色のブーツを履いた彼女は、その黒のスタイルがポニーテールのブロンドヘアーをより鮮やかにみせていた。肩掛けのバッグを持ち足早に去っていく姿から察するに彼女もケンブリッジ大学の生徒だろうと思いながら、僕は彼女の黒とブロンドの鮮やかなコントラストに見とれていた。するとその気配に気づいたのか、彼女の目線がこちらに移った。僕と目が合ったかどうかは分からない。それでも何か微笑んだ表情を浮かべ、風になびいた髪を手で整え、そのまま振り返りカレッジを去っていった。嵐のような一瞬の出来事だった。時間にして10秒ほどだっただろうか。いや、もっと短かっただろう。しかし恋愛漫画でよくあるような、ヒロイン登場の瞬間をスローモーションにしたかのように、彼女の存在は僕の目にとまった。僕は彼女を見つめながら呆然と立ち尽くしていた。するとある感覚が自分の胸の中に生まれていることに気がつき、僕は鳥肌を感じた。それは自分の体内にある血液をめぐり、全身の感覚を“ビリッ”と刺激するような、今までに経験したことのない感覚。言葉では表現できないような感覚だった。
−今の感覚はなんだったのだろう・・・−
僕はその鳥肌の立った皮膚に目を配った。心臓の鼓動が早くなっているのを感じる。自分自身でも理解不能な感覚だった。僕はその自分の身体の中に芽生えた“何か"を必死に考えた。自分の足が止まっていることはわかっていたが、それよりも今感じた感覚の正体を突き止めるほうが大事なように思えた。
「リョースケ!」遠くの方から自分を呼んでいる声が聞こえた。僕はすぐに我に返り、声の方へと視線を向ける。そこにはコースケが“早くこっちに来い”という仕草でこちらに手をふっていた。僕の周りには誰もいない。気がつけばカレッジ見学を忘れており、集団から1人だけ遅れていたのだ。
−やばい!怒られる・・・−
集団から孤立したことを悟られないように盗み足で集団へと戻る。髭もじゃ教授は何かこちらに視線を向けたが、何もなかったかのように再び説明を続けた。僕はほっと安堵の表情を作り、何事もなかったかのように振る舞った。僕はケースケに小声で「ありがとう」と言うと、ケースケは右手を軽く上げて返事をした。相変わらずジュン、ケースケ、ユウは3人で楽しそうにしている。僕は彼らの楽しそうな姿につられ笑顔を浮かべながら、図書館を振り返った。その場所には彼女はもういない。時折吹く風が芝生に落ちた枯れ葉を揺らし、教授と生徒たちの声がカレッジ内に響きわたっていた。僕は彼女の残像を脳裏にフラッシュバックさせ、一瞬の出来事ではあったが、あの時感じた感覚をなんとか思い出そうとした。心臓の鼓動は元に戻っている。僕はおもむろに空を見上げた。ケンブリッジの空には雲一つすらなかった。今日の気温は30度。これ以上ない晴れやかな空だった。