新デートスポットを作ります
朝、目が覚めると体が動かない。
まさか、金縛りというやつでは?
頑張ってモゾモゾと動けば、横で何かが動いた。
あまりの恐怖に悲鳴をあげようと思った瞬間、聞き慣れた声がした。
「起きたのか?」
声がした方に視線を動かすと、殿下の顔が真上にあって心臓が飛び出るかと思った。
「言っとくが、何もしてないからな。バルコニーで海を見てたら君が俺にしがみ付いたまま寝てしまったから仕方なく一緒に布団に入っただけだ」
私は大きく深呼吸を、してから言った。
「すみませんでした」
深呼吸した割に消えそうな小さな声しか出せなかったのは羞恥心のせいだろう。
「頼られて嬉しいって言っただろ」
殿下はそう言って笑ってくれた。
私が照れているうちに殿下はベッドから出て、バルコニーに出て行った。
慌てて追いかけてバルコニーに出ると、すでに殿下は隣の部屋のバルコニーに渡った後だった。
わざわざバルコニーから帰る必要があるのか?
「マイガーに見つかったら煩いからな」
それだけ言うと、殿下は部屋に入っていった。
言われてみたらマイガーさんは煩そうだ。
私はバルコニーから部屋に戻ると、身支度を整えてから部屋を出た。
見れば、マイガーさんの部屋からバネッテ様が出てきたところだった。
こ、これはとんでもないタイミングで部屋を出てしまった。
「お嬢さんおはよう」
凄く冷静に挨拶をされた。
「あ、あの、マイガーさんの部屋から出てきました?」
「ああ」
返事が軽い。
深く追求したい気持ちと絶対に聞いてはいけない気持ちがせめぎ合う。
バネッテ様を見つめて悩んでしまう中、バネッテ様の部屋からマイガーさんが出てきた。
これはどう言うことだろうか?
「あれ? 婆ちゃん?」
「マー坊も起きたかい?」
「婆ちゃん、俺に一服盛ったでしょ!」
マイガーさんの言葉にバネッテ様は優しく微笑んだ。
「ゆっくり眠れただろ」
「せめて横で寝るとかしてよ」
マイガーさんの文句はなんだか違う気がする。
「私だってゆっくり寝たいからねぇ。マイガーの部屋で寝させてもらったよ」
バネッテ様のマイガーさんを回避する能力が上がりまくっている。
「朝から騒がしいな」
そう言って最後に部屋から出てきたのは殿下だった。
「兄弟聞いてよ〜婆ちゃんが俺に一服盛るんだよ〜」
マイガーさんが殿下にすがりつくと、殿下は困った様な顔をした。
「バネッテ様、そんな便利な薬があるならもっと早く使ってくださいませんか? 昨晩は煩くて煩くて」
「ルドの裏切り者!」
マイガーさんは文句を言っていたが、バネッテ様と殿下は楽しそうに笑っていた。
「で、今日は何をするんだい?」
朝食を食べるために食堂に向かう途中、バネッテ様が聞いてきた。
「海に行きます!」
「やったー! 海水浴!」
マイガーさんが喜ぶ中、殿下は首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「あやしい」
疑いの眼差しで見つめるのはやめてほしい。
「あやしいとは、何故ですか?」
殿下はフンと鼻から息を出すと言った。
「君のことだ、ホテルのコンセプトを〝幽霊の出るホテル〟にすると決めた上に温泉施設とプールを作り、温泉とプールは宿泊客以外にも安価で利用できる様にすると決めたところまでが昨日の出来事だろう……そこまでいったなら、君が今日やりたいことはホテルの宣伝のはずだ」
私の心を分析する力が殿下は高すぎて困る。
「そこまでお見通しとは……では、何故私が海水浴をしようと思っているかも解ってくださいますわね」
流石にそこまでは解っていなかったのか、殿下も腕を組んで悩み出してしまった。
「今日は宣伝のために、この近くのリゾートビーチに海水浴に行きますわ! 臨時休業中に宣伝とできれば予約もとりたいと考えています」
硬い表情で固まる殿下を他所に、マイガーさんとバネッテ様は「オー!」と返事をしてくれた。
「いやいやいや、君の水着姿を不特定多数に見られるなんて」
「控えめなデザインのものにいたしますので大丈夫ですわ! それに、このホテルに宿泊しなければ買うことすらできない水着と銘打てば、女性客を捕まえられますから」
我ながらいい作戦だと思い、口元がニヤニヤしてしまう。
「捕まえるって」
私はクスクスと笑った。
「私の店の名前が何故『アリアド』と言うのかご存知ですか?」
「いいや」
私は口元を片手で覆った。
「実は、蜘蛛の魔物の『アリアドネ』からとった名前なんですの。お客様を蜘蛛の糸で絡めとって逃げられない様にと言った意味合いです」
「聞かなきゃよかったと思うぐらいにはホラーな理由だったな」
呆れ顔の殿下に私は笑顔を向けた。
「ですので、殿下は私の側にずっと居てくださいませ」
殿下がグッと息を呑んだ。
「バネッテ様を守るのは、マイガーさんの役目ですわ」
「勿論さ〜」
マイガーさんはニコニコと笑顔をバネッテ様に向けていた。
「私は危なくなったら飛んで逃げるから大丈夫だ」
「そこは恋人の俺に守らせてよ!」
「……仕方ないねぇ」
なんだかんだマイガーさんに甘いのがバネッテ様のいいところだと思う。
「因みに、バネッテ様の水着はモスグリーンのビキニに透け感のある白地に植物の絵が散りばめられたパニエを巻く最先端の水着で、私のは黒のワンピースタイプの水着です」
私が熱心に説明すると、殿下は渋々了承してくれた。
海に着き、それぞれビーチに併設された着替えるための建物に入り水着に着替えることになった。
バネッテ様と一緒に着替えていると、周りの視線が気になった。
「あの、その水着素敵ですね」
近くで着替えていた女性に言われて、私とバネッテ様はニッコリと笑顔を作った。
「アリアドってブランドの新作なんですの」
「アリアド知ってます! でもこの辺にはお店が無いので買えないですね」
残念そうに眉を下げる彼女に、私はこれ見よがしに言った。
「それが、この町の丘の上の幽霊ホテルにアリアドの支店ができるんですのよ!」
「え!」
信じられないと言いたそうな彼女に、バネッテ様は優しく言った。
「あのホテルでしか買えないアリアドの水着がコレだよ」
バネッテ様が胸を張って見せる。
「でも、幽霊が出るんですよ」
私は秘密を教える様に彼女の耳元に口を寄せた。
「実は優しく驚かせたりしない幽霊さんしか出ないと解っているのに、意中の男性に怖いと言って頼るとグーンと距離が縮まるんですのよ」
彼女は驚いた顔をした。
「優しくて驚かせたりしない幽霊さんなんですか?」
「ええ。実際幽霊さんはいますけど、ホテルの従業員のご両親で、子供達が仕事を頑張れるのかが心配で幽霊になってしまったみたいですわね」
幽霊がいると言うと、彼女はやっぱり嫌そうな顔をした。
そこに、バネッテ様がニコニコしながら言った。
「幽霊さんは死んでもなお一緒にいる夫婦でね、私は二人をこの目で見たんだけど夫婦って素敵だなぁって思っちまったよ」
仲のいい夫婦の怖くない幽霊と言うことが伝わればいいと思う。
そんな話をしていると、彼女の友人らしき人がわざわざ彼女を呼びにきたのを見て、私とバネッテ様は顔を見合わせた。
「ねぇ、ちょっと、更衣室の前にすっごい格好いい人達がいるよ」
「ジロジロ見たら失礼だよ」
そう言いながらも、私達にペコリと頭を下げてから彼女は更衣室を出ていった。
「殿下じゃないのかい?」
「マイガーさんかも知れませんわよ」
私達はしばらく遠くを見つめてからゆっくりと更衣室を出た。
案の定、殿下とマイガーさんは女の子達にキャーキャー言われていた。
「人の水着でブーブー文句言うくせに、上半身裸で大勢の女子に囲まれる彼らをどう思いますか?」
思わず呟いてしまった私は悪くないと思う。
私達が唖然と女子に囲まれる彼らを見ていると、殿下と目が合った。
不満そうに眉間にシワを寄せる殿下とバネッテ様に走ってきて抱きつくマイガーさん。
差がありすぎではないか?
「婆ちゃん美人過ぎ、このままホテル戻って部屋に閉じ込めたい!」
「それ、褒めてるんだよねぇ? 本気で監禁するつもりじゃないと言っておくれよ」
ニコニコしているだけで、決して返事をしないマイガーさんが地味に怖い。
「思っていた以上にセクシーすぎないか?」
開口一番に文句とは、女心の解っていない殿下の腕を軽く掴む。
「似合いませんか?」
下から見上げる様に聞けば、殿下はグッと息を呑んだ。
「これでも、露出の一番少ないものを選んだんですのよ」
殿下はしばらく黙ると小さな声を出した。
「似合い過ぎだ」
照れた様に私から視線を逸らす殿下の腕にしがみつくと、殿下の首が耳まで赤くなったのが解った。
「ルド様も素敵です」
私がそう言えば殿下はゆっくりと深呼吸をした。
「君は俺の婚約者だよな?」
「はい。そうですが、何か?」
「婚約者でなかったら、この距離は許されないだろ」
ようやくこちらを見てくれた殿下はニカっと笑った。
あまり見ない無邪気な笑顔に、キュンとしてしまう。
「おいおい兄弟、顔緩みすぎ!」
「お前に言われたくない」
マイガーさんがケラケラ笑った。
バネッテ様のお腹に手を回して離れる気ゼロのマイガーさんにバネッテ様はちょっと怯えて見えた。
「マイガーさん、バネッテ様をよろしくお願いしますわね」
「それは勿論だよ! 婆ちゃん楽しもうね」
「あ、ああ」
宣伝のためにここに来たのだから、宣伝してほしいが二人は目立つから遊んでいるだけでも宣伝になるのかも知れない。
「さあ、遊ぼ!」
マイガーさんはバネッテ様を軽々とお姫様抱っこすると、海に向かって走っていってしまった。
「ずっと楽しみにしていたみたいですものね」
私が呟くと、殿下はクスクスと笑った。
「俺達も遊ぶか」
「はい」
私と殿下はゆっくりとマイガーさん達の後を追った。
マイガーさんとバネッテ様は高速で泳いだり魚を手掴みで取ったりと真似できない遊びをしていて、私と殿下は足のつく場所でゆったりと波に揺られながらどうやって宣伝するかについてを話し合っていた。
「す、すみません。ルドニーク様ではありませんか?」
「おお、パレットじゃないか。ユリアス、彼はキャンバー侯爵子息で俺とローランドの学友だ」
侯爵子息は丁寧に頭を下げて、挨拶をしてくれた。
「キャンバー侯爵家長男、パレットと申します」
「ノッガー伯爵家長女ユリアスと申します。お見知りおきくださいませ」
「貴女のお兄さんとはよく、居なくなったルドニーク様を学校中走り回って探したのですよ」
殿下は気まずそうに視線を逸らした。
「ところで、パレットは何故こんなところに居るんだ?」
「ルドニーク様、本気で言ってます? ここ、家の領地ですよ」
殿下はハッとして視線を彷徨わせた。
「ルドニーク様が来るのであれば、家でもてなすのが筋ってものではありませんか? 何処に宿泊予定ですか?」
殿下はしばらく黙るとホテルの方を指差して言った。
「チャロアイトだ」
殿下の言葉にパレット様は目を丸くした。
「チャロアイトって幽霊ホテル?」
本当に誰でも知っている曰く付きのホテルなのだと実感する。
「チャロアイトは止めた方がいいですよ! 家に来てください」
慌てて部屋を用意すると言うパレット様を殿下はあっさりことわった。
「いや必要無い。あのホテルは素晴らしい」
「幽霊ホテルがですか!」
驚いて声の大きくなるパレット様を周りに居た海水浴客がチラチラ見ている。
「チャロアイトの新しいオーナーは俺の婚約者だ」
私は何も言わずに微笑んで見せた。
「彼女の商売に対する手腕は有名だろ? ホテルにはすでに王族の家族とも言えるドラゴンが作ったと言う温泉とプールができている。ドラゴンの加護のあるホテルなんて滅多に泊まれん。実際温泉に入ってみたが、素晴らしかったしプールなんかはデートするのにもってこいの美しさだ」
殿下が褒めちぎるのを茫然と見ていたパレット様は拳を握って聞いていた。
「それでも、残念だけどチャロアイトには幽霊が出るんだ。ルドニーク様を放って置けないよ」
パレット様は一国の王子に幽霊が出るホテルは危険だと考えたようだ。
「パレット、お前はそんな狭い視野で大丈夫か?」
「別に視野は狭く無いつもりだよ」
殿下はフーっと息をついた。
「ドラゴンの加護のある場所に出る幽霊が普通の幽霊だと思っているのか?」
「えっ? 普通の幽霊じゃ無いの?」
驚くパレット様を見るためか、多くの人が近づいてきている様に見える。
「あれはすでに幸福を呼ぶ精霊に近いと思うぞ。現にあのホテルに泊まってから何度か幽霊を見たが、その度に彼女との仲が深まっていると感じる」
チラッと私を見るパレット様の視線に気付いた。
「あのホテルに泊まって、ルド様が本当に頼りになる方だと実感いたしました。最初は怖くて甘えてしまって……お恥ずかしい限りですわ」
これ見よがしに猫を被って言ってみた。
「あれは、君が怯えすぎなだけだと思うが」
「怖かったのだから仕方がないではありませんか! ちゃんと幽霊の一切出てこない部屋があるなんて知りませんでしたから」
パレット様は腕を組みウーウー唸ってから言った。
「俺も婚約者を連れて行ってみようかな?」
殿下の顔が邪悪な笑みの形に変わったのが解る。
普段私に悪い顔とか企んだ顔と言うくせに、殿下だって企んだ顔をするのだと初めて知った。
「旅行の間、絶対に距離が縮まると断言できるぞ」
そう言って殿下はチラッと私がしがみついている腕を見た。
そう言えば、チャロアイトに泊まってから殿下にしがみついている時間が多い気がする。
普通であれば、腕を組むことすら滅多になかったはずだ。
「いつの間にかこの体勢が一番落ち着くのですが、嫌ではありませんか?」
心配になって聞けば、殿下は優しく笑った。
「愛しい人に頼られて嫌な男は居ないと思うぞ」
人前で愛しい人なんてサラッと言われると照れてしまう。
赤くなった顔を見られない様に殿下から視線を逸らすとパレット様と目が合ってしまった。
「ユリアス嬢がこんなに可愛らしい人だと初めて知ったよ」
あまり見られたくなくて、殿下の後ろに隠れるとパレット様に笑われてしまった。
「ユリアスを揶揄うな。あまり調子に乗ると慰謝料請求するぞ」
「王族から慰謝料請求されたら僕払える自信ないからね」
パレット様はそう言って笑ったのだった。
海でたくさん遊んで疲れてグッタリしながらホテルに戻ると、モーリスさんが慌ただしく現れた。
「新オーナー! 大変です!」
モーリスさんの慌てぶりに、トラブルかと思って警戒したがモーリスさんが手渡して来たのは予約帳だった。
「一週間後によ、予約が三件も入ったんです!」
泣きそうなと言うか、すでに瞳に涙を溜めているモーリスさんの声は震えていた。
嬉しそうなモーリスさんを見て殿下が彼の肩をポンポンと叩いた。
「これからさらに忙しくなるぞ」
「は、はい!」
モーリスさんは目元を袖で拭くと強く頷いた。
何だか殿下とモーリスさんが仲良しでモヤモヤとしたものがお腹の中で渦巻いた気がした。
「しかし、これから客が増えだすと二人ではやっていけないだろ?」
心配そうな殿下と苦笑いのモーリスさんに私は口元を釣り上げた。
「ご心配には及びませんわ! 明日助っ人が到着する予定です」
「「助っ人?」」
シンクロして首を傾げる殿下とモーリスさんを見て私はクスクス笑ってしまった。
「マイガーさんとバネッテ様にお使いを頼みましたわ。助っ人を連れてきてもらえるように」
海でパレット様と話していて人が足りなくなることが予想できた私は、近くで遊んでいたバネッテ様とマイガーさんに助っ人を呼んできてほしいと、頼んだのだ。
私がバネッテ様に頼むとマイガーさんがついていくと言い張り、お二人に頼むことになった。
まあ、助っ人と言っても、養護施設で接客の訓練を受けた子ども達の中の年長者なのだが、このホテルの新たな戦力になってくれるだろう。
「その助っ人は幽霊が出るホテルでも大丈夫なのでしょうか?」
心配そうなモーリスに私は満面の笑顔を向けた。
「幽霊よりも怖いものを知っている子達ですから」
私を見ていた殿下は何かを思い出したような顔をした。
「ああ、子ども達か! 怒ったユリアスは怖いもんな」
殿下はそう言って笑ったが、失礼ではないだろうか?
「子ども……ですか?」
心配そうなモーリスさんの背中を殿下はバシバシ叩いた。
「心配するな! そんじょそこらの子どもと一緒には到底できない子どもだ」
「私が管理している養護施設の子ども達は、我がノッガー家が誇る最先端の教育を受けていますので心配はいりません」
子ども達は四人来るように伝えてある。
できる子達だが、出迎えるために従業員用の部屋を整えなくてはいけない。
「明日には来ると思いますので、従業員用の部屋をチェックさせていただいてもよろしいかしら?」
モーリスさんは暫くポカンとして、首を傾げた。
「あの、王都からここまで時間がかかるはずでは?」
私が口を開く前に、殿下が苦笑いを浮かべた。
「迎えに行ったのがドラゴンだからな〜。すぐ帰ってくるだろ? むしろ子ども達がドラゴンに乗ることを怖がらないかが心配だ」
モーリスさんの顔色が何だか悪い気がする。
「大丈夫ですわ。バネッテ様は子供が大好きなので、怖がらせたりしません」
その辺は心配する必要が無いと断言できる。
「今、心配すべきことは、子ども達が来た時に何の心配も無く働けるように部屋を整えることですわ! さあ、従業員用の部屋に案内してくださいませ」
私を呆然と見ていたモーリスさんは深く頷いて従業員用の別邸に連れて行ってくれた。
人の居ない別邸は何だか薄暗くて、カーテンも黄ばみよっぽどホラーハウスのようで思わず一緒に来てくれた殿下の服の裾を掴んでしまった。
「どうした?」
不思議そうに私を見る殿下。
散々従業員なら怖くないと言っておいて、幽霊を怖がっている姿をモーリスさんに見られたく無くて、私は手を裾から手を離した。
「いいえ。何でも」
強がってしまったことに、少なからず後悔してしまう。
「それにしても、何だか雰囲気のある建物だな」
「従業員が辞めて行ってから、一階の二部屋と従業員用の食堂しか使っていない状況でして」
何だか恥ずかしそうなモーリスさんに殿下は笑って見せた。
「掃除が大変だと言うことだな」
殿下が明るく振る舞ってくれるおかげで、その場の空気が和む。
「じゃ、中を見せてくれ。それと、ユリアス」
殿下は私にニカっとわざとらしく笑顔を向けた。
「何か出そうで怖いから、手を繋いでもらってもいいだろうか?」
絶対に怖いなどと思っていないように見える殿下が差し出した手を握ると、先を歩いていたモーリスさんが顔をほんのり赤らめて苦笑いを浮かべた。
「独り身にはなかなか眩しい光景ですね」
「こんな時でも無いとイチャイチャする機会がないから見なかったことにしてくれ」
モーリスさんの乾いた笑いが別館に響いた。
気を取り直したモーリスさんが案内してくれた二階は全六部屋で一部屋二人で使用する造りのようで、ベッドとクローゼットと簡単な机と椅子が二組ずつある。
布団は無いので買ってこなくてはならないが、掃除はしやすそうだ。
「前は二階に十人ぐらいが生活していました」
私は部屋の灯りがつくかなどのチェックをしながら言った。
「各部屋にはトイレがありますが、お風呂が無いのですね」
「平民は毎日お風呂に入る習慣がありませんから」
それは衛生的によろしく無い。
「明日、バネッテ様が帰ってきたらこの地下にも温泉を引いていただきます。ここで働けば毎日温泉に入って疲れを癒すことができると謳えば従業員になりたい人も増えると思いますわ」
働きたくなる職場とは大事である。
「後は、昼間だけ働いてくれる従業員も必要です。温泉施設と私の店の支店で働いてもらえる人ですわね」
私が悩む中、殿下は窓枠の埃をフーっと息をかけて飛ばしていた。
「全て、ホテルの従業員にやってもらうことになれば、休みがあって無いようなものですから。温泉施設も夕方からはホテル利用者のみが入ることができるようにすれば管理が楽になりますわ」
仕事のことを話している間、モーリスさんは感心したように頷いていたが話が終わると、深いため息をついた。
「こうして、新オーナーがたった一日でこのホテルのためにしてくれたことの百分の一も自分にはできなかった事実に自信を無くしてしまいますね」
モーリスさんの疲れ切ったような顔に哀愁を感じてしまう。
「私だって、一日でできることには限界がありますわ。だからこそ、より信頼の於ける仲間を作り助けてもらうのです。だから、モーリスさんも私を頼ってくださいませ。私達はもう仲間ですから」
私がそう言ってモーリスさんを見れば、モーリスさんの目から涙が滝のように流れていた。
「ユリアスが泣かした」
殿下の単調な声にチッと舌打ちしてしまったのは仕方がないと思う。
「す、すみません……今まで、ホテルをま、守ることに、必死で……すみません」
エグエグと言いながら泣くモーリスさんの頭を殿下が乱暴に撫でた。
「泣くな。兄ちゃんだろ」
「はい」
モーリスさんは未だ止まらぬ涙を袖で拭うとニカッと笑って見せた。
モーリスさんの苦労が、少しでも減る努力をしなくてはと、その時強く思った。
「さあ、掃除しましょう」
私の発言にモーリスさんは目を見開いた。
「まさか、新オーナーも掃除をするつもりでは無いですよね?」
「勿論、私だけでは無く殿下も手伝ってくださいますわ」
殿下が腕まくりをしながら頷くとモーリスさんは真っ青な顔で首を横に振った。
「滅相もない! お二人は夕飯を召し上がってゆっくりお休みください! 掃除は自分がやりますから!」
私と殿下の顔が不満を隠せずにいると、モーリスさんは困惑したように狼狽た。
「そ、そんな顔されましても……とにかく、夕飯を召し上がってください」
私と殿下はお互いに顔を見合わせた。
「殿下、私は常々モーリスさんは働き過ぎだと思っているのです」
「同感だ」
バネッテ様がいれば催眠効果のあるお茶を淹れてもらって寝かせてしまえばいいのだが、そのバネッテ様は私のお使いで居ない。
殿下の魔法でどうにかならないだろうか?
「夕飯はハンナが作っていますから! さあ、行きましょう!」
モーリスさんは私達の不穏な雰囲気を感じ取ったのか、慌てたように私達をホテルの食堂に引っ張って行った。
ハンナさんが作ってくれた料理を食べながら、殿下も何やら考えているように見えた。
「新オーナー、私が作った料理はどうですか?」
「とっても美味しいわ」
ハンナさんは嬉しそうに頷くと、壁際に控えているモーリスさんの横に移動しようとしたようだったが、何も無い場所で躓いた。
小さな悲鳴とともに倒れるハンナさん。
「す、すみません」
慌てて立ち上がるハンナさんに何だか不自然に思ってしまった。
「ハンナさん、もしかして眼鏡が合っていないのではなくて?」
ハンナさんは肩が跳ねるほど驚いていた。
「じ、実は、眼鏡が無いとお父さんとお母さん以外にも霊が見えてしまうので、無理にこの眼鏡をしています」
ハンナさんが言いづらそうに言った言葉に、モーリスさんが一番驚いていた。
「ハンナ、そうだったのか?」
「お兄ちゃんに言ったら、心配すると思って……」
ハンナさんはゆっくり俯いてしまった。
「明日、確実に四人は助っ人が来ますから、眼鏡を新しくしに行ってはいかがですか?」
「ですが……」
モジモジして、歯切れの悪い返事に私はフーっと息をついた。
「私がハンナさんにお似合いの眼鏡をプレゼントいたしますわ」
「ユリアスがプレゼント?」
不思議そうに私を見る殿下に私は笑顔を向けた。
「合わない眼鏡でよく転けるイコール備品が壊れると考えれば大した出費ではありませんし、ハンナさんはこれから副支配人になるのですから身嗜みはきちんとしなくてはいけません」
「副……支配人ですか?」
何故かポカンとするハンナさんに私は首を傾げた。
「ええ。モーリスさんが支配人ですからハンナさんは副支配人ですわ」
ハンナさんからポワポワと幸せそうな雰囲気が醸し出された。
「ですから、ハンナさんには備品を壊すことなく他の従業員のお手本になっていただかなくてはいけません。解りますわね」
「はい! 新オーナー!」
とってもいい返事である。
「そう言えば、護衛のお二人の姿が見えませんが?」
モーリスさんが思い出したように聞いて来て、初めてその事実に気づいた。
言われてみたら昨日の夜から見ていない。
「二人は俺の使いで出かけている」
殿下がメイン料理のお肉を切りながらそう言った。
「護衛がいらっしゃらなくて大丈夫なのですか? 王族の護衛なのですよね?」
「あの二人より、俺の方が強いから心配ない。それに、あの二人はユリアスの護衛だ。俺が側にいる間はあの二人が暇になってしまうからな。偵察に行かせてる」
切り分けたお肉を口に頬張り幸せそうな顔をする殿下は可愛いと思う。
「何を探らせているのですか?」
「勿論、アイーノ伯爵家についてだ。ユリアスを手玉に取ろうとするなんてどんな家なのか興味があるだろ?」
実際、アイーノ伯爵家がなんの目的で私にこのホテルを売りつけたのかはいまいち解らない。
「いずれ必要になる情報ですわね」
私が考え込むと、殿下はお水を飲んだ。
「君の護衛を勝手に使って怒ってないのか?」
「元より、殿下がつけてくださった護衛ではありませんか?」
「そうなんだが、護衛二人は滅茶苦茶不満を言っていたから、君にも言われておかしくないと思ったんだ」
私の護衛二人は最近殿下に面と向かって文句を言うようになってしまったらしい。
「護衛は主人に似ると言いたいのですか?」
私が口を尖らせて不満そうにすれば、殿下は楽しそうに笑ったのだった。