伯爵の思い 前編
慣れた仕草で赤い雫を舌で拭う。
「ああ……」
すると官能的な女の声がジュークの耳元で零れた。
いつもなら何とも思わないというのに、今日は何故だか癇に障る。
美味なる生き血も、どうしてか不味いものに思えた。
その所為か、いつもならもう少し優しく扱う娘に素っ気ない態度を取ってしまう。
血を飲み終わると、もう用は済んだとばかりに体を離す。
「あっ……」
切なげに漏れた声にも心動かされる事はなく、絡みつく腕を軽く振り払った。
「どうなさったの? 何だか少しイライラしてるみたい」
妖艶な声音に指摘され、ジュークはその通りだと思った。
そしてふと、何故こんなにもイライラするのだろうと疑問に思う。
答えはすぐに行きついた。
(あの娘の所為だ)
思わず顔を顰めた。
ただ一人の女などいらない。
ただ一人の女の血無くては普通に暮らせないなど、冗談じゃない。
一族の者たちに急かされたのと、人の生き血を吸いつくして殺してしまいたくなかったのとで仕方なく花嫁を決めた。
だが、その女を守り血を吸うつもりなど毛頭なかった。
だから花嫁に決めただけで連れて来たりはしなかったというのに……。
結局一族の者たちに追求されて居場所を教えてしまった。
教えれば呼び寄せるのは分かっていたのに。
(その上……あんな風に育っているとは思わなかった)
息苦しさで目を覚ました娘は、当然誰何の言葉を放った。
それは良い。そこまでは良かったのだ。
なのに自分が名乗った後のあの言葉は何だ?
『何で黒髪じゃ無いのよ!?』
「……」
今思い出しても謎だった。
慣れない場所に来たばかりなのにぐーすか眠っていた時点で図太い神経をしていると思った。
だが、身の危険を少なからず感じたであろうにあんな言葉が出て来るとは……。
(天然……。いや、馬鹿なのか?)
あの時も、思い出した今も、呆れてものが言えなかった。
そんな風に黙ってしまったジュークに、妖艶な女はにじり寄る。
「本当にどうなさったの? ジューク様、何だか変ですわ」
そう言って差し伸べた手を、ジュークは少し強く振り払う。
大きな胸を強調する様なドレスを着た女。
妖艶な笑みを浮かべ、男を誘う娼婦。
ジュークは元々、この様な女は好きではなかった。
だが、血を吸うにあたってこの手の女ほど適したものはいない。
多少の事を騒ぎ立てたりはしないし、元々が身寄りの無い者が多いため親が騒ぐ事も無い。
(……まあ、噂話は多いが)
だから夜を共にする事はほとんど無い。
ごくたまに、女に頼み込まれて事に及ぶことはあったが、それも気が乗らなければ無視していた。
そして今日も……いや、今日は特にそんな気分にはなれなかった。
払われた手をさすりながら、女は寂しげに眉を寄せる。
他の男であればそれを見て興奮するのだろうが、ジュークは嫌悪も露わにして無言でその場を去った。
「つれないお方……」
最後に呟いた女の声は、ジュークには届くことなく終わる。
ジュークはいつもの様に足早に娼館を出ると、待機させておいた馬車に乗り込む。
仕事も溜まっているし、どちらにしろ早く帰らなければなかった。
馬車が動き出すと、ジュークは物思いに耽る。
仕事の事など、考えることは他にも沢山あるはずなのだが、頭の中を占拠したのはキサラの事だった。
先程の妖艶な女と比べると随分と質素な娘。
胸はあるのだろうが、恐らくコルセットでもしなければ目立たせることは出来ない程貧相。
だが、ほっそりしているので逆に胸はそれ程大きく無くて良い気もした。
珍しい灰色の髪は地味で、これまた先程の女とは真逆である。
女らしさも見て取る事が難しく、様々な面で劣っていたキサラ。
そんな彼女でも、一つだけ優っているものがある。
爽やかな、新緑色の瞳。
(昔と変わりの無い、穢れのない目だった……)
あの目は結構好きかもしれない。そう思いハッとする。
「何を考えているんだ、俺は……」
意識せず考えていた事に対して焦り、誰が見ているわけでも無いのに頭を振った。
好きかもしれないとか、そんな事はどうだっていいはずだ。
あの娘には何処か遠くへ行って欲しいと思っているのだから。
(こんな事を考えてしまったのは、これの所為か……?)
懐から一通の手紙を取り出し、そう思った。
城の外に出る際、御者が直接手渡して来た。預かり物だと言って。
渡したのはミラという中年女性らしい。
だが、筆跡は男のもの。
当然と言えば当然だ。
あの程度の村だと、それなりの地位の者でも無ければ読み書きなど教えられていないだろうから。
キサラについて大事な事が書いてあると言付かった。
そう聞いて思わず渋面したが、移動中やる事も無いのでなんとはなしに読んでみた。
(読まなければ良かったか……?)
少し後悔する。
だが、あの娘に関する事ならば元々どうでも良い事柄なのだ。
後悔などする必要も無いだろう。
そう思い直し、ジュークは手紙の事を頭の隅に追いやることにした。
あとはもう仕事の事だけを考え城へと向かう。
数分後馬車が止まり城に着いた事を知る。
執事のダンテが待ち構えていたらしく、ドアが勝手に開けられた。
当然の様にそのまま馬車から降りたジュークは、ふと城を見上げる。
(部屋にいる……)
キサラの部屋に明かりがついているのが見えた。
気配を感じてしまう所為か、無意識にそちらに目をやってしまう。
思えば昔からそうだった。
あの娘を花嫁に決めて、この城に帰って来てからいつもそうだ。
ふとした瞬間にデリス村の方角へ視線をやっていた。
それに気付いて表情を渋らせるのもいつもの事。今は近くにいるため、尚更眉間のシワを深めた。
あの娘の事などどうでもいいはずなのだ。
なのに何故無意識に目を向けてしまうのか。
(腹立たしい)
イライラした。
「……キサラ様なら、奥様からマクスウェル伯爵家の話を聞いてお部屋にお戻りになりました」
キサラの部屋を見上げていたジュークに、側にいたダンテは何を思ってかそう話した。
「……そんなことは聞いていない」
ジロリと睨み付け、唸る様に呟く。
「それは失礼致しました」
悪いなどと欠片も思っていないのか、ダンテは淡々と言い頭を下げた。
そんなダンテの行動にもイライラは増し、ジュークはもう何も言わずに城へと入って行く。
仕事が溜まっているのだ。
こんな所で道草をくっている余裕は無い。
そうして真っ直ぐ執務室へ歩いて行ったのだが……。
「…………何故ここにいるんだ?」
気付けばジュークはキサラの部屋の前にいた。
(おかしい! 今は執務室へ向かっていたはずだ!!)
城の入口から執務室へはこの部屋とは逆方向。
自分の部屋に戻るのならばここは通るが、執務室に向かっていたならここへは来るはずがない。
(何故だ? どうしてだ!?)
端から見ればただ無言で突っ立っているだけだが、その実ジュークは物凄く混乱していた。
らしく無い自分に益々戸惑うが、小さく深呼吸をして落ち着かせる。
(落ち着け。とりあえず、ここに来たのは何か理由があったはずだ)
無意識に足が向いたと認めたく無いジュークは無理矢理理由を探した。
微妙に混乱は残っているらしく、深呼吸の意味はあまり無かった様である。
(俺はあの娘にここにいて欲しくは無い。だから夕方にもこの部屋に来て脅そうとしたんだ)
頭の中を整理しようと、とりあえず数時間前の事を思い出す。
夕方来たときは予想だにしない反応を見せられ、結局何も言わずに部屋を出て行ってしまった。
だが、確かあのときは脅して怯えたキサラにこの城から出て行けと言うつもりだったのだ。
(そうだ。夕方に言えなかった事を言いに来たんだ)
と、ジュークはほぼ強引に理由をこじつける。
キサラがどういう娘か少しは分かったので、今度こそはハッキリ言えるはずだ。
ジュークは一拍間を置いて、目の前のドアをノックした。