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戸惑いのキス

 すっかり暗くなった部屋で、ジュークは規則正しい寝息を立てるキサラをジッと見つめていた。

 明かりといえば月明かりだけだが、吸血鬼であるジュークは夜目が効くため苦にはならない。


(必要無いと思っているか、か……)


 眠る前にキサラが言った言葉を思い出す。

 必要無いと言えば今でも必要は無い。

 一人の女に頼る様な生き方はやはりしたく無いのだ。


 だが、遠くに行って欲しいと思っているのかという質問には答える事が出来なかった。

 何故か今は遠くに行って欲しいとは思っていない。

 だが、理由は自分でも分かっていないため物凄く戸惑った。


 娼館街での事も、正直自分が何をして何を思っていたのかよく分からない。

 ずっと気配はしていたため、キサラがついて来ている気はしていた。

 だがまさか来るわけが無いと思って気にしないようにしていたが……。


 あのとき、馬がキサラに向かって行くのを見た途端頭が真っ白になった。

 気付いたら、キサラを助け出し言いようの無い怒りが込み上げて来た。

 その怒りがキサラに対するものなのか、自分自身に対するものなのかは分からないが。


 ただ、この苛立ちには覚えがあった。

 ジュークはずっと持っていた手紙を取り出し開く。

 昨日クルスから渡された手紙は見るも無残なほどにしわくちゃになっていた。


 見なければ良かった。手紙の事など気にしなくていいのだ。

 そう思っていたのに、すぐに捨てる事は出来なかった。

 キサラに字を教えたという神父からの手紙。

 前半は神父自身の事とキサラがどうやって暮らしていたかが書かれている。

 それだけならば特に心が動くことは無かっただろう。


 問題は後半だった。


『キサラが貴方の元に嫁ぐことになり、私は本当に良かったと思っています』


 そう始まった文章は、ジュークが予想もしていなかった事が書かれていた。


『貴方の側には美しい女性も多いでしょう。ですがデリス村の様な田舎にはその様な女性は珍しいのです。そんな田舎にはキサラは美し過ぎます。村の多くの男達はキサラを放ってはいませんでした。ただ恋心を抱いているだけなら良いのですが、人によっては身体だけが目当て、という者も……。キサラの世話をしていたミラの話では、実際夜家に忍び込もうとした者もいたそうです』


 グシャッ


 そこまで読み返して、ジュークは手紙をぐしゃぐしゃに丸めた。

 読み返す度に同じようにしているため、手紙はもう原形を留めてはいなかった。


 手紙の続きには、忍び込もうとした男達は結局、キサラの不運のとばっちりによって事に及ぶ前に逃げ帰ったと書いてある。

 だが、ジュークは言いようの無い怒りが込み上げ収まらなかった。

 その男達全てを殺してやりたいと思う。

 そんな事も知らずにいた自分が許せないと思う。

 この怒りと、今日の怒りは似ている気がした。


 キサラの事などどうでもいい。

 だが、彼女の周りの出来事に一々イラついてしまう。


(全く、本当に訳がわからない)


 ジュークは自身の心を読み取る事が出来なくなっていた。それがまたイライラの元となる。

 その怒りが行き着く先はキサラで、ジュークは彼女に矛先を向ける事しか出来なかった。


 スヤスヤと眠るキサラに覆いかぶさる様な形でベッドに手をつく。

 まだ幼さが残る顔立ち。

 だが一つ一つのパーツは整っている。

 確かにあと数年もすればいい女になるだろう。

 だが、その数年で中身も変わってしまうのではないだろうか。

 女はほんの少しの間に変わってしまう。


 キサラも今は少女らしく純粋な部分があっても、いずれ女という化け物になってしまうのでは無いのかと思ってしまう。


(こんなに無垢な寝顔をしていても、いずれは……)


 キサラの白い頬を軽く撫でながら、ジュークは先の事に思いを巡らせていた。

 新緑の瞳もいずれはくらい色になり、程よくピンク色をした可愛らしい唇もどす黒い赤に変わる。


(いずれ、そうなってしまうんだ……)


「んっ……」


 考え事をしながら頬を撫でていた所為か、いつの間にか指が唇に触れていたらしい。

 少し艶っぽい声がキサラの唇から漏れてジュークは驚く。


 艶やかな女。色っぽい女。

 そういう女はジュークの好みでは無い。女のそういう仕草自体が苦手なのだ。

 なのにどうしてだろう。

 今のキサラの声には嫌悪など感じなかった。


(いや、むしろ……)


 喜びの様な感情が湧き出てくる。

 ドクン、ドクンと、心臓の動きが早くなる。

 何が起こっているのか分からなくて、ジュークはもう一度キサラの唇に触れた。


「ぅっん……」


 少し艶っぽい声に、色っぽい吐息。

 苦手なはずの仕草。

 なのにジュークはその瞬間頭が真っ白になる。


 自分が何をしているのか分かっていなかった。

 ただ何かが枯渇こかつしているかの様で、ひたすらむさぼった。

 気付いたのは一息ついてから。


「俺は今、何をした?」


 自分のした事が信じられなかった。

 だが、その唇には確かに感触が残っている。

 柔らかく、美味しそうな桃色の唇。

 本当に食べてしまいたいほどに美味そうで……。


 ジュークはキサラの唇を味わったのだ。


「っ!」


 自分のしたことが本気で信じられない。


(俺は、なんて事をっ!)


 自分から女にキスした事など無かった。

 なのに、初めて自分からしたキスは寝込みを襲ったもの。

 恥ずかしいやらショックやらで、ジュークは口元を押さえ赤面した。


 だが、その身にあるのは確かな満足感。

 キサラの唇を貪る様に奪い、喜びを感じていた。


(何なんだ俺は。変態か!?)


 そう考えると尚更ショックだった。

 だが、キサラが起きなかったことだけが幸運だ。

 もし起きてしまっていたら、何と説明すれば良いのか見当もつかなかっただろうから。


(本当に、自分自身が分からない)


 そう実感しながら、今日も夜はけて行った。


*****


 フラフラと、おぼつかない足取りで女は路地を歩いていた。

 長い黒髪を揺らし、普段は艶やかな顔には生気が無い。

 夜でも明るい娼館街を嫌う様に細い路地に入ると、視界が一瞬暗転してよろけた。

 壁にもたれ掛かり、視界が安定するのを待ってアンジーはため息をつく。


「こんなんじゃ、あの方はまた他の娼婦の所へ行ってしまうわね……」


 そう呟いた顔は儚げにも見えた。


 こんな風に血がたりなくて体調が悪くなったりしない限り、彼は毎晩の様に自分の所に来てくれる。

 自惚れでは無いけれど、他の女たちよりは気に入られているのだと思う。

 身分が違い過ぎるため、彼が本当に自分を見てくれる事は無いと分かっている。

 だから、この想いは叶わぬ恋なのだ。

 分かっている。分かっているのに……。


『キサラ様はジューク様の婚約者なんですよ』


 クルスの言葉が蘇る。

 普通の村娘だと言っていた可憐な少女。彼女が嘘を言っていたとは思えない。

 でも、クルスの紹介に異を唱えることも無かった。理由は分からない。

 でも全てが本当だとすると、それこそ身分が違い過ぎるのでは無いだろうか。

 ただの村娘だったら、商人の娘だった自分の方がまだ身分としては上なのでは無いのか。

 そう思ったが、すぐに悲しい微笑を浮かべる。


 商人の娘だったのはもう十年以上も前の話だ。

 とうに落ちぶれて、商人だった両親は自分を残して行方不明になった。

 頼れる大人など他にいなくて、娼婦になるしかなかった。

 そんな自分と村娘。

 どちらが上かなど、比べること自体が間違っている。


(そうよ。問題はそこではないもの)


 身分の違いがどうとか、そういう問題では無いのだ。

 問題はクルスの言葉。

 キサラがジュークの婚約者だと紹介した後の言葉だ。


『ジューク様が直々に選んだ花嫁なんですよ』


 直々に選んだ。彼が、あの子を。

 キサラ。

 小さくて細くて、可愛らしい少女。

 自分とは正反対な娘。

 あの子がジュークの好みなのだとしたら、自分が気に入られているというのはただの思い込みということになる。


「っふ……。私、馬鹿みたいじゃない……」


 涙は堪えたが、声は震えてしまった。

 ジュークは本当に自分の事など全く見ていなかったのだ。

 叶わぬ恋だと諦めていても、ずっと想い続けていたのに……。


 それに、このままではジュークは娼館街に来なくなるのではないだろうか。

 ジュークの一番の目的は血を吸う事だ。

 本当は愛する者の血が少しあれば大丈夫なのだと、以前チラリと彼が口にした。


 その愛する者がキサラだとしたら、彼女と結婚すれば他の女の血は要らなくなるということではないか?

 ただでさえ、ジュークが血を吸う相手として娼婦を選んだのは色々と都合が良いからだろう。

 詮索する様な事は話さないし、一々騒ぎ立てる事もない。

 しかも後腐れもない。

 突然顔を出さなくなっても、何の問題も無いのだ。


(彼が、来なくなる……?)


 一切、会えなくなる。

 それは、一番恐れていた事だった。

 叶わぬ恋でも、自分を見て貰えなくても、会って話が出来るだけで良かったのに……。

 それすらも出来なくなるのだ。


「いや……」

(そんなのは、嫌)


 溢れ出そうになる涙。こらえようとして、出来なかった。

 両手で泣き顔を隠す様に顔を覆う。


(どうして……っ!)


 いずれは来なくなるのは分かっていた。

 だが、それはまだ何年も後の事だと思っていた。

 なのに、こんなに突然そのときが来るとは……。


(あの子が来なければ良かったのに……)

「あの子さえ……」


「いなければいい?」


「っ!?」


 心を読んだ様な言葉を掛けられ、アンジーは涙をピタリと止める。

 聞き覚えの無い声。

 女の様な、男の様な、不思議な声音。


(誰?)


 顔を覆っていた手をずらし、声の主の姿を確認した。

 だが相手は全身を黒のマントで包んでおり、フードを目深に被っているので性別すらよく分からない。


「マクスウェル伯爵の婚約者、キサラ。彼女などいなければいいと思いましたね?」


 アンジーは見ず知らずの人間に自分の言いかけた言葉を口にされ、驚きと怒りが込み上げてきた。


「何なの貴方。勝手な事を言って! 私はそんな事思って無いわ!」


 意地を張って全てを否定するアンジーだったが、フードの人物は本当に何もかもを見透かしている様だった。


「本当に?」

「っ!」


 動揺を見せたアンジーに、その人はフードの下から見える口をニヤリと歪める。


「あまり警戒しないでください。私は貴女の味方です」

「味方ですって?」


 突然現れ、自分の心を見透かす謎の人物。

 味方だなどと言われてもすぐに信じられる訳が無い。


「怪しい者ではありません。私はジル、旅の占い師です」

「……」


 フードを目深に被っている時点で怪し過ぎるくらい怪しいのに、占い師とはまた怪しい。

 なのに怪しい者では無いとはよく言えたものだ。


「キサラがいなければ、マクスウェル伯爵は今まで通り貴女の下へ通うでしょう」

「っ……」


 話を戻され、またカッとなりかける。

 でも、ジルの言葉は不思議なほどに心に響く。


「死んで欲しいとかいうわけでは無い。ただ、いなくなってくれさえすれば良い」

(そうよ。ただ、いなくなってくれさえすれば良いの……)


 さっきまで警戒していたというのに、アンジーは操られているかのようにジルの言葉に聞き入ってしまう。


「何処か遠くに行って、戻って来なければいい」

(ええ、その通りだわ)


「大丈夫。貴女なら出来ます。私も手伝いますよ」

(私なら、出来る?)

「でも、どうやって……?」


 本当に、こんな事を考えても良いのだろうか。

 そんな思いもまだあって、アンジーは不安げに聞いた。

 するとジルは口角を上げ、優しく答える。


「大丈夫。全て私に任せて下さい」

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