途上での過去
1
長い長い旅。十数年、数十年、何百年、そんな三桁の数字では済まない長い時間を歩き続けてきた。魔人の書に導かれるままに世界を飛び回り、人が望むままに願いを叶えてきた。地位、名誉、金、権力と世界情勢を動かす大物に出会えば、家族、友人と自分の身の回りを手に入れ、変えようとする庶民派な人達とも出会う。その主の選定基準に一貫性は感じない。戦争を起こし、病原菌を撒き散らして何十万人と殺す時もあれば、病気に掛かった子供の命を助ける時もある。
きっと助けた人より、殺した人の方が多いだろう。最初は抵抗感があったり、罪悪感があったりしたが、自然と事をこなせるようになっていた。慣れというのは恐ろしいものだ。
それも当然、幾度となく繰り返させる残酷な願い、儚い夢は感情を磨り削らせ、丸く鈍らせていくのだ。さらには願った人は例外なく願いの分だけ不幸になる。こんなにやるせないことを何度も経験すれば鈍感にもなっていく。
情を覚える主もいれば、情が付く前に別れる主もいる。何千何万と変わり続ける主につき従い、その度に対応を変える。
「はい、ご主人様」「呼んだかこの野郎」「ご用件はなんでしょうか」「何で呼んだんだよ」
莫大な時間と回数は本来の人格を忘れさせ、自分というのを見失わせた。
私は何でこの人の言う事を聞かないといけないのだろう。次はどんな人だろう。あの人は元気にしているだろうか。
長い時間の孤独な旅は自問自答を上手くさせた。
きっと私が魔人だからこの人の言う事を聞かないといけないのだろう。次は面白い人がいいな。心配した所で、あの人もきっと不幸に違いない。
膨大な時間は過去の記憶をも色褪せさせていく。感覚を鈍らせ、自分を忘れさせる旅はいったいいつまで続くのだろうか。
そういえば私は何で魔人になったんだっけ。忘れてしまった。忘れるということは大して大事なことではなかったのだろう。というか、私はいつから魔人なんだっけ? そもそも私に魔人になる前なんてあったのだろうか。
唯一の自分の持ち物は魔人の書だけ。正直、どっちが持ち物か分からないが。とにかく、それ以外で自分を示しものは何もない。
魔人の書の中に書かれた幾億の願い事の中に自分を見つける願い事が書かれているかもしれないが、探すのも面倒だ。
自分を知れた所で、今の私に自分はない。考えるのはもうやめよう。
そう考えるのも、何度目だろうか。
2
次の国は日本らしい。日本に来るのは久しぶりだ。久しぶりといってもいつ以来かは全然見当が付かないが。
本が閉じている時はそこにはいるが、実体はない。観察は出来ても触れることは出来ない。私はこの時を神様モードと自称している。新しい主が選ばれた時は、そんな神様モードで必ず観察から入ることにしている。空気を読めずにベッドシーンに飛び込んで変な空気になった頃からこうしている。
季節は夏。日本の夏は好きか嫌いかでいうと不愉快だ。蝉の鳴き声も然ることながら、このジメッとした湿気がどこまでもついてくるストーカーのようで気持ち悪い。
本に導かれ、移動すると、施設の構内に着いた。背の高い建物に、賑わう若者の声、遠くからはラケットでボールを打つ音が聞こえる。どうやらここは大学のようだ。近くの掲示板に近寄ると、『長期休みの本の貸し出しについて』と書かれたポスターが貼られていた。
自分の立場も考えず、私も休みがほしいなーと考えてしまうのは全世界人種共通の考えだと思う。
近くに今回の主がいる。感覚で分かる。というのも、選ばれた人の個人情報が全て自然と頭に入ってくるのだ。氏名から最後に聞いた音楽まで全部だ。
桜はとうに散り、揚々に緑を広げて影を作る桜の木。その下にあるベンチで頭を抱えている男子学生がいた
浜井海斗、二十一歳、大学三年生、独身、彼女なし、童貞。
行き交う学生の波がベンチで頭を抱える旦那を尻目に歩いて行く。皆課題に追われているのか掃除機に吸われるゴミのように図書館に吸い込まれていく。
今回の登場の仕方は旦那の頭上から本を落すことにした。登場シーンで主を驚かすのが唯一の楽しみなのだ。
頭上に落ちてきた本に驚いて跳ね起きる。本がぶつかった拍子に眼鏡が地面に落ちてしまった。すぐさま眼鏡を拾い上げるが、レンズにはヒビが入っていた。
「うわっ最悪」
頭を押さえつつ、辺りを見渡す。しかし、旦那に用があるような人は見当たらない。納得いかなそうな顔をした時、地面に落ちた魔人の書をようやく見つけた。旦那はこれが頭にぶつかったのかと推測したのか、上を見上げた。だが旦那の上には木の枝が広がっているだけだ。人が乗っているはずがない。旦那は魔人の書で自分の頭を叩いた。
「イテ…… あ、これか」
どうやら頭にぶつかった時の感触で魔人の書が頭にぶつかった物だと断定したようだ。馬鹿か。旦那が本の持ち主を探そうと辺りをもう一度見渡すが、やはりそのような人などいない。行き交う学生は誰一人として海斗の様子を気にも留めていない。魔人の書を捲り始める。しかし、そこには真っ新なページが続いているだけだ。過去の人の願いは魔人にしか見えない謎仕様である。
「旦那、何してるんだい?」
「何って、急にこの本が上から降って来て困ってたんだよ ……え?」
隣に座り、旦那振り向くと同時に「よっ!」と挨拶をする。
「だ、誰ですか!?」
「魔人」
「魔人!?」
選ばれた人の大抵は同じ行動と言動をする。毎回思うのだが、この本を信じ込ませる所が面倒だ。本に選ばれた人は事前に「当選おめでとうございます! あなたが今回のご主人様です!」みたいな手紙を受取っといて把握しておいてほしい。
「まぁまぁ落ち着いて。周りの人には私は見えていないんだ。傍から見たら、旦那は一人で騒いでる頭のネジが外れたおかしい人ですよ?」
「何馬鹿なこと言ってるんですか」
そういって旦那が三度辺りを見渡すと、冷たい視線を集めているのに気が付いた。しかし、それにめげなかったのか「あなたにはあのサングラスを掛けた猿顔の人が見えますよね!?」とたまたま通り掛かった男子学生に飛び掛かっていた。
「そんなのいねーよ」と即座に冷たくあしらわれる。
「だから言ってんでしょ。ほら、旦那が頭おかしいって噂が広まる前に人気のない場所に移動しましょ」
そう声を掛けるとこちらを見ることすらせず、足早にここから離れ出した。無視を決め込んだのか、人気のない場所に行くのか。とにかく、今回の旦那だということは動かぬ事実なので後をついていくだけだ。ベンチに置かれた魔人の書を持っていく。
「旦那、人気のないとこに行くんすか? もしイエスなら後頭部掻くふりしてください」
後頭部を掻いた。いちよは信じてくれているらしい。この旦那は随分と順応性が高いようだ。図書館裏に着くと、旦那が溜まっていた息を吐いた。
「で、あなたは何なんですか」
「だから、魔人だって」
「そういうことじゃない!」
このやりとりも毎度恒例である。相手が言いたいこともちゃんと分かっているが、事務的にさっさと状況を説明しても、相手との関係が上司と部下みたいなぎこちないものになってしまう。このくだらないファーストコンタクトこそが重要なのだって隋前の旦那が言っていた。
「じゃあどうすれば魔人だって認めてもらえるんすかー、名刺でも必要ですか?」
「そういうことじゃなくて! そんなオカルト的な存在をはいそうですかって認められるわけないでしょ!」
「じゃあ何もない所から魔人の書が降ってきた理由と、突然旦那の横に現れた方法と、通行人から私が見えない理由を、現実的に説明してくださいよ」
「そ、それは……」
相手に口頭で魔法が使えるとか言っても信じてもらうことは出来ない。そこで毎回、現実じゃ不可能なことをやってのけて相手に信じさせることにしている。百聞は一見にしかずだ。
「さっき私のせいで壊れた眼鏡を直してあげますよ」
指を鳴らす。すると眼鏡のヒビが繋がり出し、綺麗に跡を残さず復元させてみせた。本来は一瞬で直せるが、信じさせるためにあえてゆっくりやってみせた。
「これでも魔人って存在を信じられません?」
海斗は開いた口を閉じることも忘れて、首を横に振った。
願い事を三つ叶えるということと五つのルールを説明した。この説明も飽きてきた。
「さて、旦那一つ目の願いをどうぞ」
無言になった旦那。考えているのだろう。大体の人は同じ反応をする。しばらくすると恥ずかしそうに口を開き始めた。
「えっと……ルールその2に違反するんだけど」
「駄目です」
「早いよ! 話しぐらい聞いてよ!」
「分かりました」
「えっと……実は気になる人がいて」
「諦めてください」
「だから早いって! 最後まで聞いてよ!」
「我がままな人ですねー。今回だけですよ?」
「何で上から目線……」
「お前それが人にものを頼む時の態度か!? 日本には頭を地面に擦り付ける頼み方があるだろ!」
「何たる横暴……いきなり現れて、願い叶えてやるから土下座しろって……」
「別に土下座とか興味ないから早く話続けて」
「えぇー……何たる無茶苦茶……まぁいいよ。で、えっと、その……その人と付き合えたらなーって」
「そうですか。頑張ってください」
「うん……え!? 終わり!? もっとこう……ないの! じゃあこうしましょうとか! 代案的なものが!」
「ないよ!」
「キッパリ言うね」
「はい、とりあえず話を最後まで聞くって願いは叶えたから残り二つね」
「え!? そんな詐欺チックなことありなの!?」
海斗の第一印象はリアクションが大きいイケてない人だった。
袖を捲ったチェックシャツにジーパン、眼鏡。まさにクールジャパン文化が生み出した申し子だ。こんなんじゃ彼女のかの字も出来るわけがない。とりあえずは見た目から直していかなければ振り向くどころか目を背けられてしまう。
そうして浜井海斗とのファーストコンタクトは続いた。
3
この前の話を最後まで聞いてやるという願いで一つ目というのはもちろん冗談だ。そこで旦那が望んだ一つ目の願いが『俺を幸せにしてくれ』だった。
「そんなアバウトな願い、叶えかねますな」と返すと「俺の幸せの定義は好きな人と死ぬまで一緒にいることだ」と返された。
つまりは『ルールその五。願いを増やせと言う願いは受け付けない』のルールの隙間をついたのだ。敢えてアバウトに願い、尚且つ最終目標を明確にすることでその過程で必要となる願いを叶えさせるというものだ。全く変な悪知恵だけは持っているようだ。
まぁたまにはそういう詐欺まがいのことに付き合ってもしれない。
「で、どうすんだよ魔人」
「当たって砕けろ」
「砕けちゃ駄目だろ!」
新しい主に変わってから数日。少しばかりの未来を予知し、旦那が気になっている女性が人気のない廊下を通る時を廊下の角で待っていた。来たのはいいが、彼女が来てからどうするかは何も考えていない。
「いいですか旦那、今の旦那は……そう、紳士だ。眼鏡はコンタクトにし、オタク臭いチェックシャツと色褪せたジーパンはまとめてゴミ箱に入れて、上下セットのリクルートスーツだ。今の旦那ならいけるいける!」
「……ずっと前から思ってたんだけど、何でリクルートスーツなの?」
「恋の就活生」
「全然上手いこと言ってないからな! それに俺の服捨てる必要あったの?」
「過去の自分を捨ててこそ、新しい自分と出会えるってもんだ」
「そういうもんなのか……」
勿論口からのでまかせだ。服を捨てたのは態とではない。たまたま服を置いといた場所がゴミ箱の上だったらしくて、気付いたら誰かに持ってかれていたのだ。
「いいですか、ここをあの子が通り掛かったら旦那が角から登場。告白してOKもらって、あの子と旦那がゴールイン。子宝に恵まれ、冷えることない夫婦生活のまま、二人は仲良く墓の中にカップイン。ほら、旦那の人生は薔薇色一色でしょ?」
「でしょ?って、将来設計アバウト過ぎるだろ」
適当なことを言って場を繋げる。あの子が来るまであと少しだ。
「そういや旦那、その女性の名前とか知らないんすか? あの子とか彼女とか、代名詞使うの疲れるんですけど」
「知らない」
「え、何で知らないの」
「話したことないもん」
「は!? じゃあどうやって知ったの」
「講義がたまたま一緒だった」
「一目惚れかよ!」
初対面じゃ話は変わってくるぞ。こんな人気のない場所で偶然出くわしても、たまたますれ違った通行人Aで終わってしまう。あんな見た目だった奴がナンパ的なことが出来るはずがないどうする。
「おい、魔人あの子が来たぞ。どうすんだよ」
覗き見ると奥から彼女がこちらに向かって歩いて来ていた。黒髪を首元で切り揃えた色白の女子大生は一目惚れするには申し分ない可愛さだった。それに比べ、スーツさえまともに着こなせないこの男。まさに月にスッポン。どうすれば付き合えるのか私が知りたい。
「そろそろ教えてくれよ。どうやってあの子に話し掛ければいいんだ!?」
迫りくる彼女。しかし、何の策もない。緊張しているのか旦那が強張った顔を向けてくる。時間がない。どうするどうすると頭の中でいろんな策が駆けめぐったが、唐突に面倒になった。なるようになれ。
「いいから、行けって!」
旦那を突き飛ばす。断末魔を上げながら廊下に飛び出た旦那が彼女とぶつかり、もつれ合った。折れてはいけない物が折れる音が鳴り、どちらかが頭を打ったようで鈍い音が響いた。二人が床に倒れるまでを見届けて一つ思う。
少しやり過ぎたかもしれない。
とりあえずこの場から逃げることにする。指を鳴らし、バックの中に開いたまま入れられた本を閉じ、姿を消した。
次に本を開かれた場所は海斗の部屋だった。不敵な笑みを顔に張り付けた旦那が開口一番に「燃やすぞ?」と言った。
「まぁまぁ落ち着けって。彼女とは知り合えただろ?」
「突き飛ばされて、船本さんとぶつかって病院送りにするとは思わなかったよ!」
「知り合えた上に名前も聞けたのか。良かった良かった。二歩前進だな」
「良くないわ! 病院送りにしたんだぞ!」
「え、もしかして船本さんって人死んだの!?」
「死んでねぇよ! 足を骨折した上に頭部打撲。今頃包帯でぐるぐる巻きだ」
「なら、いいじゃねぇか。死んでないなら何とでもなる」
「何言ってんだよ……第一印象最悪だよ……」
「加害者が被害者と結婚する事例だってあるはず。たぶん。世界広いし、歴史長いし」
旦那がふらふらとベットへと倒れ込んだ。「もぉー……最悪だぁー……」とぼやきながら縮こまる。
女々しい奴だ。これだから日本人は。とはいっても、ちょっとぐらいは罪悪感がある。
それから半月ぐらいが経ったかもしれない。旦那が生まれながらに持ち合わせていた謝る行動は彼を何度も病院へと足を向けさせ、見舞いと謝罪を繰り返した。あんまり謝るもので船本さんの方が罪悪感を覚えるほどだ。その潔さなのか、誠実さか、何かは分からないが、最初は引きつった笑いを見せていた船本さんは次第に自然な笑顔を見せるようになっていた。
「いける。今ならいける。さぁ行け若人よ! 船本さんの連絡先を聞いてくるのだ!」
彼女が退院の日。旦那に命じる。
「そんなの出来るわけないだろ。退院の日に加害者が行った上に連絡先を聞くなんて」
「旦那は一体どこまで小心者なんです。今の彼女にとって旦那今、加害者ではなくお見舞いに来てくれる優しい人なんですよ。ほら彼女のあの天使のような微笑みを思い出してみてください。あれが加害者に見せる笑みと思います? 今日を逃したら、船本さんの連絡先を聞く機会は永遠に来ないですよ」
旦那が難しい顔をする。
「そんな小難しいこと考えても無駄無駄。ほら、人生一度っきりなんだ後悔なく行きましょう!」
指を鳴らし、瞬間移動をする。一瞬にして病院の前に移動した。
「まだ心の準備が……」
「そんな悠長なことをしていたらチャンス何て掴めるはずがない。ほら、行った行った」
背中を押すと、旦那は振り返りつつも、足を止めることなく病室へと向かっていった。
4
私に時間の感覚はない。永久とも言える時間の旅をする私には時間なんて関係ないから自然と時間の感覚は溶けてしまっていた。だから、海斗と船本さんが付き合うまでに何ヵ月経ったかは分からない。とりあえず分かることは海斗と出会ったのは日差しが鬱陶しいと感じる頃で、今はそんな日差しが恋しいと思うから大体約半年が経ったのかもしれない。
こうやって振り返ろうとするのも昨晩の「お、おおお俺、ふふふ船本愛子さんとおおお付き合いすることになななった」と顔を真っ赤にした海斗のせいであろう。
どうして船本さんは海斗を選んだのか分からない。
「なぁ魔人、初めてのデートってのは何着ていけばいいのかな?」
「リクルートスーツ」
「やっぱそういう決める日ってリクルートスーツなのか」
「そうだ」嘘だ。
海斗がリクルートスーツを着て、寝癖を直し始める。
まさか本当に信じ込んでいるとは……これだから女子との交流がない奴は……しかし、訂正する気など微塵もない。
「それじゃあ行ってくるよ」と海斗は雨の中傘を持たずに家を出ようとする。
「待て待て、傘っ傘っ」
「あ、あぁ忘れるところだった」と言って海斗が玄関に置いてあった靴ベラを手に持ち「じゃあ、いってきます」と言い出した。
「待て待て、それ傘じゃない。靴ベラや」
靴ベラを見るとようやく正気に戻ったのか、改めて傘を手にして家を出て行った。海斗にとって船本さんと初めてのデートというより、女性との初めてのデートなのだろう。
これは絶対面白いことになる。
待ち合わせ場所は日曜なのに大学だ。講義でも受ける気かとツッコミを入れたくなる。待ち合わせの正門に着いた海斗が腕時計を見た。時刻は十二時半。待ち合わせの三十分前だ。早すぎる気がするが、相手を待たせるよりはいいとして目を瞑ることにしよう。
そこから彼女来たのは二十五分後のことだった。
「ごめん、浜井くん、待たせちゃったかな?」
「いや、全然、寧ろ俺が待たせちゃったよ」
「?」
緊張の余り海斗が意味不明なことを言い出した。流石だ。さらに間髪を入れずに海斗が喋る。
「そんなことより、今日はいい天気ですね」
船本さんが空を見上げた。灰色の雲に包まれ雨を吐き出す空には一片の青空は見えない。
「……哲学?」
このカップル本当に大丈夫なのか。海斗の方は上がり過ぎて目の焦点が合っていないようだ。
「そんなことより、船本さん今日の服装はオシャレですね」
「え、ホント? ありが」
「ユニクロで買ったんですか?」
「……ん?」
船本さんの笑顔が固まった。
流石だ。アッパレと賞賛を贈りたい。オシャレのオの字も知らない奴が服を褒めようとすると酷いことになる。いや、ユニクロがダサいわけではない。現代日本ではユニクロは見た目のオシャレさより、機能性と安さを特化されているイメージある。それを彼氏との初デートに全身安上がりの服装で決めに来る女子は少ないのでないだろうか。まぁ服が分からない海斗からしてみれば似合えば何でもいいのだろう。
「そんなことより、今日はどこに行きましょうか」
「あ、それならもう考えてあるんだ。えっとねー」
「それなら新しく出来た駅前のショッピングモールに行くのはどうでしょうか」
「……」
おっと。雲行きが怪しくなってきた。船本さんが困り顔をし始めたぞ。デートのイメージをしておけとは言ったが、まさか事前に用意していた台詞を空気を読まずに全部ここで言うつもりなのではないだろうか。
「そんなことり」と再び会話をぶつ切りにする台詞を海斗が言い掛けた時だった。海斗の手を船本さんが握った。突然の出来事に海斗が変な声を上げる。
「新しいショッピングモールもいいいですけど、今日は浜井くんの行き慣れた場所に行きたいな」
「へ?」
「浜井くん緊張し過ぎて会話成り立ってないの気付いてないの?」
「え……あ……ご、ごめん……」
「ほら、深呼吸!」
「え?」
「はい吸って!」
船本さんが深呼吸する。それに釣られて海斗も深呼吸を始めた。思わずこちらも深呼吸をしてしまう。
「落ち着いた?」と船本さんが小首を傾げる。何だあの可愛い生き物は。
「……あ、ありがとう……」という海斗からは明らかに緊張の色はまだ抜けていないが、頑張って緊張が解けたふりをしていた。
「よし、じゃあ行こう」
船本さんが海斗の手を引っ張り、歩き出す。手を繋がれている海斗の顔は真っ赤になってしまっていた。
「ところで、どうしてスーツなの?」
「えっと……男は決める時はスーツだって……」
「え、そうなの? ……私は普段のユニクロの服の方が好きかな……」
本当に船本さんは海斗のどこに惚れたというのだ。頼りなく、カッコよくなく、センスもなく、経験もないあいつのどこがいいのだ。強いて言うなら母性本能を刺激するぐらいだ。
それからの二人のデートは特に面白味の欠片もないものだった。海斗が行き慣れた駅前のデパートをぶらついたり、雑貨屋で物色したり、ファミレスで昼食を取ったりと、スーツが浮いたデートコースだった。結局行った新しいショッピングモールを出る頃には降っていた雨は止み、雲の隙間から月が顔を出していた。
彼らが最後に立ち寄ったのは、人気が一切ない公園だった。二人はベンチに並んで腰かける。時刻は十九時前だが、辺りは夜の帳に包まれていた。
「今日は楽しかったね」
「そうだね」と笑いを含んだ会話を最後に静寂が訪れる。遠くから帰路を急ぐ人々の足音が聞こえる。海斗は高揚していた調子が落ち着き始めたのか、我に返るように息を吐いた。
「あのさ、船本さん」
「何?」
「ずっと気になってたんだけど、どうして俺と付き合ってくれたの」
どうやら海斗自身も気になっていたらしい。自分が駄目人間だと自覚しているようで「頼りないし、カッコよくないし、センスもないし、経験もない」と劣等感を抱いているであろう部分を並べていく。
「何で浜井くんと付き合ったかって、理由知りたい?」
海斗が頷くと、船本さんは海斗の目を見つめて口を閉じる。海斗も口を閉じた。その直後、身を乗り出した船本さんの唇が海斗の唇に当たる。それはほんの一瞬の出来事で、すぐさま身を引いた船本さんは「理由何てないよ」と照れ笑いをした。
「あっ……えっと……俺……その、は、初めてで……」
「私も」
船本さんはベンチから立ち上がるとふらふらと歩き出す。それ釣られて海斗も立ち上がった。
「浜井くんはさ、自分に自信がなさ過ぎるよ。それはもしかしたら自分の嫌いな部分かもしれないし、他人と比較して自分が劣っていると思っている部分かもしれない。だけど、それが浜井くんなんだよ。伸びしろがあるって言ってもいいし、個性って言ってもいい。他人との比較を考えちゃうからこそ、そのスーツで少しでもその差を埋めようとしたんでしょ。でもさ考えてみてよ、もし自分が比較している人と同じ容姿、同じ生活環境だったらって。それでもきっと浜井くんは今と同じ劣等感を感じると思う。だからこそ、そう思ってしまう浜井くんが」
立ち止まった船本さんが海斗の方へと振り向く。
「私は好きかな」
再びニッと笑った船本さんを海斗は見つめて動かなくなった。
あざとい。だが、可愛いから許される。海斗は今見惚れているに違いない。船本さんの方が海斗にベタ惚れならこのカップルはしばらく安泰だろう。
これ以上は見ているのは目に毒みたいだ。先に家に帰ることとしよう。
5
何度も言うが、長い旅をしている私には時間の感覚がない。だから二人が大学を卒業して、仕事を始めて、その間に何度か別れそうになって、その度に海斗が頭を下げて、子供を授かるまでの四年間はあっという間の出来事に思えた。
服のダサさを遂に指摘されて愛子さんと一緒に買いに行ったり、愛子さんを愛ちゃんと呼び始めて本人から気持ち悪がられたり、愛子さんのお父さんと二人で飲みに行って泣かれたり、結婚式で愛子さんのお父さんがまた泣いたり、新居探しで不動産を歩き回ったり、家具を揃えに出掛けたり、疲れ切って二人揃って寝坊したり、恵方巻きを一緒に食べたり、ハロウィンにコスプレしたり、二人でお酒を飲んで馬鹿笑いしたり、それはそれはたくさんの出来事があった。
そんな中で、海斗は二つ目以降の願い事を使おうとしなかった。それが海斗の物欲のなさを表しているのか、私との友情に使い損ねたのかは定かではない。ただ一つ言えるのは、海斗は今、鬼の形相で走っているということだった。
鼻息を鳴らし口から漏れる凍った白い息は、さながら蒸気機関車だ。その必死で走る海斗の横を私は浮遊移動しながら優雅に飛んでいく。
「愛子さんと赤ん坊はベッドで寝てるんでしょ? そんなに急いだって逃げやしませんよ」
「魔人には分からないだろうが、親になるっていうのはこうもジッとしてられないもんなんだよ!」
人が死ぬ瞬間には何度も立ち会ったことはあるが、人が生まれる瞬間に立ち会ったのは数える程しかない。とは言っても両手の指の数では足りない。
横断歩道が青になるのもじれったそうにする海斗。会社を早退したためにスーツ姿だ。スーツ姿で走る男というのは実にシュールだと思いながら、海斗が病院に着くまでを無事見届ける。自動ドアを自力で開けるように院内に入る。受付で病室を聞くと階段を駆け上がった。
院内ではお静かに。エレベータを使え。
海斗は『浜井愛子』と書かれた病室前で立ち止まると息を整えた。緊張の面持ちでドアを開ける。白い病室に白いベッド。ベッドの上には上半身を起こし、眠った赤ん坊をゆっくりと揺らす愛子さんの姿があった。
「あれ、愛子さん激痩せしました? 昨日までは関取もびっくりなお腹をして」と言い掛けた所で海斗の裏拳が鼻を直撃した。
冗談なのに。
近寄った海斗に「今さっき寝たばかりなの」と愛子さんが微笑んだ。海斗が我が子の顔を覗く。
「わぁ、猿みたい。これ成長したら私みたいな猿顔に」と言い掛けた所で思いっ切り顔を振り上げてきた海斗の後頭部が私の鼻を直撃した。
冗談なのに。
「抱っこしてみる?」と囁いた愛子に海斗が頷く。恐る恐ると手を伸ばした海斗の腕に赤ん坊が乗せられた。
「あ、意外と軽い」
「皆生まれる前はこうだったのよ」
海斗は数回揺すると「やっぱり、愛ちゃん持って、俺落しそうで恐い」と赤ん坊を返却する。
「もー、だらしないパパですねー」
カップルだった時の惚気は殺意が湧く時もチラホラあったが、いざこうして結婚して子供まで生まれてしまうと、嫉妬心は生まれない。寧ろ四年間見守って来て情が湧いたのか良かったな、と思ってしまう。
「あ、そうだ、この子の名前どうするの?」
「それならもう決めてあるよ」
海斗が赤ん坊の顔を見る。
「愛子の愛と海斗の海。二人の名前を一文字ずつ取って、愛海」
「愛海……正に私達の子って感じの名前ね」
海斗と愛子さんの視線が愛海ちゃんを中心に交わる。
たった四年で海斗も随分と大人に成長したものだ。もう顔が親の顔になっている。
海斗が肩まで伸びた愛子さんの黒髪を触った。さらさらと揺れる黒髪の中で、シルバーリングの結婚指輪が光った。娘の愛海ちゃんを中心に、仲睦まじいその姿は、まさに幸せを一枚の絵にしたようなものだった。
二人にはこのまま幸せでいてほしいと思ってしまう。それが無理だと分かっていても。
6
「今日は益子さんが来るんだろ?」
「そうよー」
年が明け、愛子さんの妹である益子さん一家が来るらしい。妹さんも結婚していて現在は佐賀という苗字に変わっているみたいだ。
インターホンが鳴ったのはお昼頃であった。
「明けましておめでとうございます」と新年の挨拶をする。結婚式で見た以来だが、益子さんは姉妹というだけあって愛子さんとそっくりだった。双子と言ってもいいかもしれない。その益子さんの隣で頭を下げたのは夫の正一という人だった。初めて見たのだが、短髪にハキハキとした口調は好青年のイメージを植え付けてきた。
「おめでとうござます!」と二人の間で甲高い声を上げたのは佐賀家の一人娘、正花ちゃんだった。
「正花ちゃん明けましておめでとう。何歳になったのかな?」
愛子さんの質問に正花ちゃんは指を三本立てる。
「立ち話もあれですから、中にどうぞ」と海斗が言う。
ぞろぞろとリビングに入った一向は、椅子に座ると雑談を始めた。最初は海斗と愛子さんの新居であるこのアパートの感想から始まり、育児の話、仕事の話と移り変わった。四人の尽きない話を遮ったのは、正花ちゃんがぐずり出した時だった。愛子さんが時計を見る。
「もう三時か……そうだ、皆で初詣行かない?」
その意見に反論する人はいなかった。コートで身を包み、二歳の娘は海斗が手を握った。外に出ると雪が降り始めていた。大粒の雪を見て「新年から雪なんて珍しいね」と愛子さんが白い息を吐いた。
歩いて向かったのは近所にある小さな神社である。小さな神社だが、初詣に来ている人は多かった。参拝の作法など微塵も知らない海斗は賽銭箱に五円玉を放り投げると、適当に手を打った。邪魔にならないようにそそくさと列から抜けると、おみくじで今年一番の運を占った。海斗は末吉と何とも言えない結果で終わった。
境内を出ると早々に帰ることになった。
「帰りに何か買って帰る?」
「お雑煮でも作る?」と、愛子さんと益子さんの姉妹が会話を始める。どうやら晩御飯も佐賀家と一緒のようだ。結局、家にあるもので済ませることとなり、買い物には行かずに家に帰ることになった。
歩道を歩く道中「そういえば何お願いしたの?」と愛子さんが海斗に質問した。
「えっと……交通安全」
「え?」
「交通安全」
「いや、聞こえてたから。何で交通安全なの」
「だってー重要じゃん?」
「確かに重要だけど、愛海が良い子に育ちますようにとかってあるじゃん」
「はっ! 確かに!」
「今気付いたの!?」
そんな海斗と愛子さんのやりとりに後ろを歩く佐賀夫妻が笑った。「夫婦漫才かよ」と評され、海斗が照れると「いや、照れる所じゃないよ。馬鹿にされてるからね」と愛子さんがツッコミ、一同は笑った。
その時だった。目の前の公園からサッカーボールが転がってきた。コロコロと転がるサッカーボールを追い駆け公園から男の子が飛び出して来る。
「駄目ぇ! 誠止まって!」
公園内から女性の悲鳴が上がった。直後、海斗が振り向くと、そこには猛スピードで突っ込んでくる自動車の姿あった。一体何が起こるのか。一体どうすればいいのか。海斗に状況を判断する隙も与えず、自動車は迫る。私の視界に映ったのは脇見している運転手の姿だった。
突然の出来事に海斗達が動けない中、咄嗟に動いたのは愛子さんだった。駆け出した愛子さんが子供を抱き上げる。甲高いブレーキ音が響きだす。愛子さんを避けようとハンドルを切られた自動車が大きく曲がり出した。だがブレーキが掛かるのも、ハンドルが切られるのも何もかもが遅すぎた。鈍い衝突音と共に跳ね飛ばされる愛子さん。さらに自動車は歩道の段差を越え、正花ちゃんを巻き添えに公園の鉄柵に突っ込んだ。緑色に塗装された鉄柵が赤く曲がる。自動車からアラームが鳴りつつ、全ては静止した。誰もが呆然とする中。益子の悲鳴に静止が打ち破れ、海斗は我に返った。
「正花!」
佐賀夫妻が自動車と鉄柵に押し潰された正花ちゃんの元へと駆け寄る。それを横目に海斗は愛子さんの方を見た。
「愛……ちゃん……?」
道路の真ん中で倒れる愛子さんの頭部から血が流れ出していた。現実を知るのが怖いと言わんとばかりに足を踏み出さない海斗。それを通り越し「誠! 誠!」と一人の女性が愛子さんの元へと走った。
「誠大丈夫!?」
愛子さんの腕の中にいた子供は泣いていた。生きていることに安堵したのか、愛子さんの腕からすくい上げられた子供は強く抱き締められた。
「……パァパ?」
愛海ちゃんが不安そうに海斗を見上げた。
「大丈夫。愛海、ママは大丈夫だよ」
自分に言い聞かせるように呟いた海斗がようやく歩き出した。子供を抱えた女性がどこかに電話をかけ始めた。近隣の住民が、何があったのかと家から出始めてくる。ざわざわと騒がしくなる中、益子さんの泣き喚く声が際立って聞こえた。愛子さんの元へ辿り着いた海斗が愛子さんへと声を掛ける。
「愛ちゃん……何してんだよ……こんな所で寝ると風邪ひくぞ、なぁ」
海斗が体を揺さぶっても愛子さんは起きようとしなかった。頭から流れ出る血がどんどん広がっていく。それを見た海斗は何を思ったのか掌で必死に掻き集めだした。手を真っ赤に染め、血を集めて愛子さんの頭へ戻そうとする。
「俺、さっき交通安全を願ったばっかだぞ」
指の隙間から逃げ出す血を何度も何度も掻き集める。
「なぁ冗談はやめてくれよ」
愛子さんの顔を無意味に血で汚れていく。跳ねた血が愛子さんの目の中に入るが、彼女は瞬きもしなかった。
「起きてくれよ……なぁ……なぁ」
流石にもう見ていられない。
「旦那、愛子さんはもう……」
肩に手を置くと涙目の海斗がこちらを振り向く。
「丁度良かった魔人、愛子が目を覚まさないんだ。頼む、起こすの手伝ってくれよ」
「それは……出来ません」
「何言ってるんだよ。二つ目の願いを使うからさ、頼むよ」
「無から有を作りだせないんです。愛子さんの魂はもう……」
「なぁ、頼むよ。いつものお得意の指パッチンで愛子を起こしてくれよ」
掛ける言葉が見つからず無言でいると、海斗がしがみ付いてくる。
「頼むよ……指を鳴らすだけでいいんだ……指を鳴らすだけで……」
「……」
「……魔人、二つ目の願いだ……頼む……指を鳴らしてくれ……」
魔法の象徴である指を鳴らす。音を鳴らすだけの意味のない行為。誰も生き返らない無意味な行為。音が鳴ると同時に海斗は振り返ったが、愛子さんは瞬き一つしなかった。突きつけられた現実に海斗は跪き、湿った声を上げる。
遠くから救急車のサイレンが聞こえた。
7
あの日の事故は運転手含め、三人の死者を出した悲しい事故としてニュースでも取り上げられた。それはお昼の五分のニュースの一つして報道され、世間の人々の記憶からは一日と経たずに忘れられた。
正花ちゃんと愛子さんの葬式が行われた。式の最中に益子さんは泣きだし、海斗は数多くの人から同情の言葉を掛けられていた。海斗が何を思っているかは分からないが、一言も発することはなかった。周りの人からは失意のあまり失語症に陥ったのではないかと心配される程だった。
「お腹減った」
愛海に袖を掴まれた海斗が我に返ったように首を上げた。
「ごめんごめん、今お昼用意するからね」
あからさまな作り笑いで腰を上げた海斗が台所へと向かう。昼間なのに部屋はカーテンが掛けられ、光を遮っていた。今までは愛子さんがやっていた家事を全て自分でやるようになった海斗は、家事一つ一つに愛子さんの姿を重ねるようで涙ぐむ場面が多々あった。
愛子さんが死んでから一週間。海斗も死んでいるように見えた。目を瞑ればあの日の出来事を思い出し、起きていれば広く感じるようになったらしい部屋に涙を流す。仕事、家事、子育て、眠れない日々。海斗の精神も肉体も限界のように感じる。これが魔人の書に願った人の末路だ。そろそろ潮時かもしれない。彼が死ねば、新たな主の元へ私は行くだけだ。
雨が降る夜、いつものように海斗は目を覚ました。窓叩く雨が寒い部屋をより一層冷たく感じさせる。本棚から魔人の書を取り出し、テーブルの上で本が開かれた。葬式を期に本は本棚に片付けられていたので一週間ぶりだ。
「久しぶり」
「三つ目の願いを決めたんすね」
海斗とも今日で最後のようだ。
「あぁ……俺を、過去に遡らせてくれ」
「……え」
「何度も考えたんだ。もしあの時ああしていれば、こうしていれば愛ちゃんを救えるんじゃないかって。何度も何度も夢であのシーンを繰り返して、その度に後悔の海に溺れて。それで思いついたんだ、魔人の書のルールに反せずに愛ちゃんを助ける方法を。上手くいけば正花ちゃんだって救えるかもしれない。単純だけど、最も実現可能な方法だ。過去を変えて、今を変えればいい」
「あぁ……なる……ほど……」
「な、名案だろ」
「まぁ……そうだね……」
「何でそんなにノリ気じゃないんだよ」
「いや、別にそういうわけじゃないですけど……」
結果は見えている。救えない。この数千年の過去の中で過去改変を望んだものは何千人といる。だが、自分の望む結末を迎えることを出来たものは一人としていない。魔人の書と関わった時点でその人の運命とそれに深く関わる人の運命は悲惨になると決まっているのだ。だからと言って、海斗にこのことを教えるつもりはない。今までの人にこのことを教えていないのと同様に、いくら付き合いが長いと言って海斗だけを特別扱いをすることは出来ない。
「それじゃあ行きますよ」
「ああ! 事故のあった日の朝に戻してくれ!」
指を鳴らす。海斗の記憶と意識が元旦の日へと飛ぶ。それに合わせて、魔人の私も引っ張られてその日へと飛ばされる。
これで海斗はもう立ち直ることは出来ない。本当に終わりだ。
元旦の日に目覚めた海斗。台所で「明けましておめでとう」という愛子さんに海斗は涙を流した。
「ちょっと、何泣いてるの!? たまねぎ何て切ってないよ?」
驚く愛子さんを無視して海斗は愛子さんを抱き締めた。体温を確認し、匂いを確認し、声を確認する。
「良かった……本当に良かった……」
「もしかして寝ぼけてるの?」
「あぁ、寝ぼけてるよ。君が死んだ夢を見て、辛くて、しんどくて」
「全く……私が死ぬはずないでしょ」
海斗が笑ったのを見るのは久しぶりだった。心から笑っているように見える。その日は以前と同様にお昼頃に佐賀夫妻が家にやってきた。二度目の同じ会話を海斗は笑って過ごす。すると三時手前で正花ちゃんがぐずり始めた。それを確認した後に予定調和の如く愛子さんが「もう三時か……そうだ、皆で初詣行かない?」と言った。以前は反論する者はいなかったが、未来を知る海斗は違った。
「今雪降ってるから止んでから行こうよ」
そう言うと全員が窓を確認した。
「ホントだ。そうだね、後で行くことにしようか」
海斗の意見に賛成したのは正一さんだった。正一さんは「ちょっと窓開けさせてもらってもいい?」と愛子さんに許可を得ると、窓を開けて「ほら正花、雪だよ」とあやし始めた。海斗が安堵の息を吐く。
だが、未来を変えることは出来ない。過程を変えることは出来ても行く着く先は幸せを望む者が最も望まない結末だ。
愛子さんが再び自動車に轢かれて死んだ。今度の原因は正花ちゃんを庇ったことだった。すぐさま海斗は時間を遡った。次にとった行動は家から出ないというものだった。しかし、愛子さんは死んだ。今度の原因は窓からの転落死だった。足を滑らせ、窓から落ち、運悪く頭をコンクリートの角に打ったのだ。
そうして海斗の愛子さんを救うためのループが幕を開いた。
思考錯誤を繰り返し、愛子さんから死を遠ざけようとするが、どうしても愛子さんは死んでしまう。正花ちゃんを救えば愛子さんが死に、正花ちゃんを見殺せば愛子さんも死ぬ。何十回、何百回。数えるのも面倒になるほど海斗は繰り返す。たった一つの救いを求めて。
嫌気が差してきた海斗が公園から飛び出した子供を助けてみたこともある。しかし、海斗は生き残り、愛子さんは死んだ。
「この世界は俺を生かして彼女だけを殺す」
そうぼやいた海斗は再び元旦へと戻る。
何度も死ぬ愛子さんにその内海斗は「またか」と言葉と溢すようになった。精気を失った虚ろな目をぶら下げだす。その目でさらに愛子さんの死を何度も目撃した海斗は「俺はもう駄目かもしれない」と言った。
そうして元旦の日に戻った海斗は抗うことを止めた。上辺で笑い、流されるままに歩く。そして神社の帰り道で子供が飛び出し、愛子さんが庇って死んだ。
「……パァパ?」
「……俺はもう駄目かもしれない。愛ちゃんの死に何も感じなくなってきている。誰かの泣き声もただのうるさい戯言に聞こえる」
繰り返すことを止めた海斗の目は依然として虚ろで、ただ生かされているという状態だった。
葬式が終わって、もうすぐで一ヶ月になる。海斗は全財産の入った通帳と、愛海ちゃんの手を繋ぐと、家を後にした。
「どこ行くのー」
愛海の衣服が大量に入ったバッグを担ぐ海斗を、愛海ちゃんは見上げた。
「益子さんの所だよ。愛海にとったら叔母さんってことになるね」
「おばさんー?」
電車を乗り継ぎ、益子さんの家に着く。インターホンを鳴らし出てきた益子さんはやつれたように見えた。
「……本当に来たんですね」
「はい……」
「辛いのはあなただけじゃないのよ」
「すみません……でも、俺はもう限界みたいです……」
「実家に帰ればいいじゃないの」
「両親には頼りたくないんです」
「でも私には頼るのね」
「被害者の仲間意識ですよね」
「……そういうのやめて」
「……すみません」
何の話か分からない愛海ちゃんが二人の顔を交互に見る。
「それじゃあ、これ愛海の衣服です。あと少ないですけど、俺の全財産です」と海斗がバッグと通帳を渡す。
「そんな、お金なんて」
「愛海の養育費のために使ってください」
そうして最後に海斗は愛海ちゃんの手を益子さんへと渡した。
「愛海、いい子にするんだよ」
海斗が愛海ちゃんの頭をくしゃくしゃと撫でる。
「それじゃあ後は、よろしくお願いします」
「お姉ちゃんをよろしくお願いします……」
去っていく海斗に愛海ちゃんが泣き始める。益子さんの手から逃れようとする。しかし、大人の力に二歳児の子供が勝てるはずもない。鼻水を垂らし、本気で泣き始める愛海ちゃんを益子さんは放そうとはしなかった。
「旦那、いいんですか?」
「愛海もためでもあるんだ。生きる気力もない俺みたいな親に育てられるよりは」
「それは旦那の都合を押し付けてるだけでしょ。愛海ちゃんは旦那を求めて泣いていますよ!」
「……もう俺は疲れたんだ」
電車で帰宅した部屋は売れる物は全て売り払ったため、何もなくなっていた。大家とも話して今月分の家賃を払い契約が終わる予定だ。
コンビニで買った弁当を食べ、海斗は窓から外を眺めた。他にすることもなく、ただ雲の流れを見送り、日が沈む。室内にあるのは月の光だけとなった。
「この部屋に住みだした日、カーテンを買い忘れていて、こうやって二人で月を見上げたんだ」
静止した部屋でようやく動いた口が昔話を語り出す。出会いから今日に至るまで。空を見上げる海斗の姿は私に語るのではなく、まるで愛子さんに語り掛けているようで、私は一言も返事をしなかった。
初めて講義で見かけた日のこと、廊下でぶつかった日のこと、お見舞いに行った日のこと、告白した日のこと、初めてデートに行った日のこと、服を指摘された日のこと、誕生日を祝った日のこと、ハロウィンの日のこと、クリスマスの日のこと、初詣の日のこと、バレンタインの日のこと、大学を卒業した日のこと、海に行った日のこと、二人で酔い潰れた日のこと、プロポーズした日のこと、両親に挨拶に行った日のこと、新居に引っ越した日のこと、家具を揃えに行った日のこと、結婚式の日のこと、愛海が生まれた日のこと、愛海が誕生日を迎えた日のこと。
六年間分の語りが終わる頃には、私も海斗も涙で顔は赤く腫れがっていた
「俺は幸せを願った。それが叶ったんだから、もう充分だ」
震える声で海斗が手を伸ばしくる。私はそれを拒んだ。拒んでも無意味なのは分かっているが、海斗との別れを嫌がる私がいた。
「まだ、まだ旦那は幸せになっていませんよ! だからまだ」
「よく言うだろ。幸せは失って初めて幸せだと気づくって。今昔話をしていて気付いたんだ。俺は幸せだったんだなって。幸せってのは途中にあるものなんだ。結果にある幸福とは違うんだ。だから幸せを願った俺には幸福は訪れなくいい」
「でも……でも……」
「愛子のいない世界なんて、俺にとっては地獄なんだ」
「旦那……」
「魔人、三つ目の願いだ。……俺を、殺してくれ」
海斗は笑っていた。愛子さんを殺す世界を呪い、虚ろな目をし、涙を流した海斗は最後に笑おうとしたのだ。楽しいとか面白いとか嬉しいとか何て感情ではない。諦めて笑うしかないと、全てを放棄した者の顔だった。
指を鳴らす。
脳が止まり、心臓が止まり、血が止まる。
海斗が倒れていく中、ルールに基づき、魔人の書は新たな主を探しに旅に出た。
私もそれに引っ張られ、この部屋を後にする。
もうこんな苦い思いはしたくない。ルールに時間を遡ることは出来ないと追加したいほどだ。しかしそんなことは出来ない。だからせめて、魔人の書の最後のページに書き残す。
『幸福と幸せは違う。幸福は結果であり、幸せは過程である。幸せを望むのならば、幸福を願うな』と。




