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I need you.  作者: ひとばしら
2/7

君のために

 1


 色が芽吹き、揚々と葉を広げ、緑を枯らし、白化粧を身に纏う。季節は順繰りに進み、気付いた頃には大学生活三度目の秋を迎えていた。夏を名残惜しそうに薄着で過ごす者、早々に衣替えをした厚着の者が構内に入り混じる。

 そろそろ僕もコートを出した方がいいかなと身を縮め、足早に教室へと向かった。八人掛けの長テーブルが三列ある中規模の大きさの教室。右側の列、前から三番目、窓際席。そこがいつもの席だ。

 前の方の隅に座る理由としては、他の生徒があまりおらず、静かにゆっくり出来るからだ。後ろの席の方は、集団で来る講義を聞かない生徒達の吹き溜まりになっている。うるさい上に人口密度が高い。「講義を本気で聞く気がないなら前の方に行った方が利口だ」と藤田はよく言っていた。そんな藤田とも二年に上がったと同時に疎遠になり始め、三年になる頃には一切連絡を取らなくなっていた。一年の研究基礎、所謂クラスが同じだったから仲良くなっただけ。二年に上がり、そのクラスがなくなってから連絡を取らなくなったのは、それだけの仲だったというわけだ。

 藤田は最近何しているんだろうな、と考えるのも、秋という季節が醸し出す哀愁な雰囲気からかもしれない。

 教室に入ると、僕が座る用の席を鞄で確保していた愛海の姿が既にあった。

 「遅い!」

 「まだ開始十分前じゃん!」

 「浮気してるかと心配したじゃん!」

 この言い合いも定番である。愛海が鞄を退け、席に着く。席に着くとほぼ同時に愛海の「聞いてよー」が始まった。この台詞から始まった場合、八割方は昨日些細に思ったちょっとイラつく話だ。残りの二割は前に聞いたことのある愚痴で占めている。

 ほぼ毎日会っていると、話す話題は互いに会ってない時に起こった昨日の話か、随分昔の話のどちらかになってしまう。

 「そしたらさ、お母さん何て言ったと思う?」

 三年の後期を迎えていれば、否応にでも就職がどうたらこうたらと重荷を背負わせてくるが、僕達二人の間ではその話題は一度もあがったことはない。二人でいる時ぐらいは重い話はやめようという暗黙のルールがあるのかもしれなかった。

 新鮮味も面白味も中身もない話だ。必死に目くじら立てて話す愛海に適当に相槌を打ちつつ、聞き流す。この退屈に感じる飽きるほど見慣れた光景が、僕は大好きだった。



 2


 それはまたしても水曜の朝の事だった。昨晩愛海が家に来てくれた時に作っていってくれた大量の野菜炒めの残りを消費しようとしていた時だ。レンジの音に誘われ、戸を開けると、そこには当然のように魔人の書が温められていた。

 いろいろなこと疑問が頭に浮かんだが、とりあえず本をテーブルの上に置き、深呼吸。そして、空っぽになった頭に浮かんだ一言目が「何故」だった。

 何故、魔人の書がここにあるんだ。愛海が死ぬ世界を繰り返したことは既に終わったはずだ。終わっていることはあれから二年経った今、愛海が生きていることで証明されている。何故、また魔人の書がここにあるんだ。魔人の書に選ばれる確率は六十三億分の一のはずだぞ。

 次々に浮かぶ疑問だが、本人に聞くのが一番早い。

 そうして僕はもう二度と開くことはないだろうと思っていた本を、もう一度開いた。

 「いやー……こんなこともあるんですね」

 テーブルの向かい側に現れた猿顔が開口一番にそう切り出した。

 「最早これは運命! もう結ばれるしかありませんよ!」

 「誰が魔人なんかと結ばれんだよ」

 猿顔の魔人は親しい友人に久しぶりあったかのようなハイテンションで肩を組んできた。それを僕は邪険にあしらう。

 「やだなー旦那、本当は嬉しい、く、せ、に」

 猿顔が近くて喜ぶの猿だけだ。魔人の調子に合わせていたら話が進むはずないのでさっさと本題に入るとする。

 「何でまたここに来たんだよ」

 「あれ、感動の再会はなしな感じですか?」

 「いいから」

 本題に入ることを催促すると、眉間にしわを寄せた魔人は「私にだって分かりませんよ」と述べた。

 「世界事情、世の理、事件の真相、知らないものはほとんどないですけど、私は唯一私のことは知らないんですよ」

 「それって今回で言う、魔人自身が次に誰が選ばれるか知らないってこと?」

 「そう言うこと。私の存在理由、主の選定基準、この本がいつどこで何のために作られたのか、もうサッパリ」

 「じゃあ魔人の記憶の中で一番古い記憶って何?」

 「逆に聞きます。旦那は自分の最古の記憶をハッキリ覚えていますかい?」

 最古というのは生まれた頃だろうか。そんなもの当然覚えているはずがない。物心が付く前の出来事を覚えている人は全くと言っていいほどいないだろう。

 難色を示すこちらの表情で察したのか「ね?」と魔人は首を傾げた。

 「人が幼少期の話をする時は決まって『物心がついた時には』って言うでしょ。それだけ記憶の始まりは曖昧なんですよ」

 「それじゃあ本当にまた僕が選ばれた理由は分からないってことなのか……」

 「イェス! 分からないことをウダウダ考えてないで六十三億分の一の確率を二回も引いたこの幸運を喜ぶべきですよ!」

 「今すぐにでも死にそうなぐらい怖い幸運だよね」

 「まぁ、主の選定基準に運要素は一切絡んでないと思うんですけどね」

 「え、それってまた何か起きるってことか?」

 「さぁー、それはどうなんすかね。一人の人間の行動はいろんな所に大きな影響をもたらしますからね。大金持ちになりたいって願い一つでも、そのお金を使った先に少なからず影響を与えるってことですからね。ただの盆暗にも選ばれることだってありますよ」

 「それって僕が盆暗ってこと?」

 「違いますよ。これは必然ってことっすよ」

 その後、魔人と雑談を交わし、気付くと家を出る時刻になろうとしていた。積もる話は後にして僕は学校へ向かうことにした。魔人の書は以前と同じように本を開いたまま、家に放置して。

 



 今の僕は幸せだと思っている。好きな人が傍にいて、何不自由なく過ごしている。そりゃ嫌なことや逃げたいこともあるけれど、そんな人並の不幸で「私は不幸だ」と思うのは本当の不幸を経験していない人だ。

 『幸福と幸せは違う。幸福は結果であり、幸せは過程である。幸せを望むのならば、幸福を願うな』

 以前の魔人の書の出来事を思い出す。たった二年前のことなのに、もう二年前のことだと思えるように当時の気持ちは思い出せない。あの頃は必死に彼女の手の感触を覚えて必死に追い駆けていた。だが今はもう、彼女の体温から鼓動まで僕の全身が彼女を覚えている。これ以上、あの時のような出来事は起きてほしくない。そんな思いもあって、今の僕は魔人の書を使う気は一切なかった。

 「何考えてるの?」

 向いに座った愛海が身を乗り出して聞いてくる。

 「今の僕は幸せ者だなーって」

 彼女の手作り弁当を食べながらそう返答する。食べようと思っていた野菜炒めを食べ損なったので丁度いい。

 「どうゆうこと?」

 「好きな人の手作り料理を好きな人と一緒に食べてる僕は幸せ者だなーって思ったの」

 愛海が嬉しそうに顔を俯ける。周りから痛い視線が向けられているのはきっと気のせいだ。

 雑談が一通り終えようとしていた頃、テーブルの上に乗った愛海の携帯が鳴り出した。送り主を確認した愛海は深く溜息を吐いて「またかー……」と僕に反応してほしそうにぼやいた。御期待に応えるように「どうしたの?」と声を掛ける。

 「これ見て」と携帯の画面を見してくる。言われるがままに画面を見ると『今何してんのー?』と可愛い絵文字付きのメッセージが表示されていた。そして送り主の名前を確認して僕は思わず「藤田!?」と声を荒げた。

 心拍数が上がっているのが自分でも分かる。何で藤田が愛海に連絡を入れているんだ。しかも、文面からしても気があるように思える。胃が重くなりだした。

 「何か先月あたりから急に連絡が気始めてね。ちょくちょく『今何してんのー』とか『今どこいるー』ってくるの。何でお前に教える必要があるんだよって感じ」

 そう言いながら愛海が今までのやりとりを全て見してくる。藤田が積極的な発言をしているに対して、愛海からは『へぇーそうなんだ!』『そうかもねー』などと消極的な発言が見て取れた。脈なし会話の正に典型と言った感じだった。とりあえず胃の重みがだいぶ楽になった。

 「これ藤田くんって絶対私に気がるよね……」と愛海は苦虫を噛むように言う。彼氏としては他の男に色目を出さない辺り嬉しい反応である。

 「誠くん、もしかして藤田くんに私達が付き合ってること教えてないの?」

 「妬みが凄そうで教えてない」

 「確かに」と愛海がゲスな笑い声を上げる。事実、「もし彼女出来たら絶対教えろよ?」と言ってきた辺り既に妬みが凄そうな匂いがしている。

 「変に期待持たせるより、私達が付き合ってること教えちゃった方がいいかな」

 別に隠しているわけではないし、悪い虫が愛海に付くのは避けたい。藤田から連絡がなくなった方が僕としても安心出来る。そこで僕は「教えてもいいんじゃない」と返事をした。そうして愛海は僕の目の前で『私、誠くんと付き合ってるから』と藤田に返信をした。

 それが僕達の終わりだとも知らずに。




 その日の夜だった。魔人とベッドの所有権を掛けてトランプしていると携帯が鳴った。時刻は二十一時、愛海のバイトが終わるまでには一時間早い。誰だろうと勝負を中断し、携帯を開くと送り主は藤田であった。きっと昼間のことだと思い、少し面倒になる。

 メッセージを見ると『お前浜井さんと付き合ってんの?』とやっぱり昼間のことだった。

 「藤田ヤる? ヤっちゃう?」

 魔人が指をポキポキと鳴らす。「やめとけ馬鹿」と頭を叩く。

 『付き合ってるよ』と返信するとすぐさま『いつから?』と返ってくる。知ったからどうなると言うんだ。藤田の関与で僕達が別れることはない。

 『二年前からだよ』と返信をすると、先程のような早さの返信はなかった。

 きっと藤田は今、失恋のショックを受けたに違いない。悪いことをしたような、どうでもいいよな、微妙な罪悪感。以前繰り返した時、藤田と愛海が付き合ったことがあったが、その時に嫉妬心を覚えて以来、藤田に好意的に接することが出来なくなっていた。その煽りもあるのかもしれない。

 しばらくすると、藤田から連絡が来た。

 『明日直接話したい』

 「こいつ中々女々しいな」

 携帯を堂々と覗いてくる魔人がそう言葉を溢す。

 「まぁ自分なりにケジメを付けたいんだろ。それぐらい付きやってやるさ」

 「お、出ましたね。勝ち組の余裕」

 余裕とかそんなんじゃない。平たく言えば同情だ。僕だって愛海と付き合う前まではこんな感じだったからだ。ショックの後の心の整理やケジメは誰にだって必要だと思っている。

 いつものように十時を過ぎると愛海からバイトが終わったと連絡が入った。『お疲れー』の返信をしてくだらない会話を始めた。

 「彼女さんには明日会うこと言わないんすか?」

 「愛海にはどうでもいいことで心配してほしくないんだ……過保護かな?」

 「それも含めて、彼女さんが好きになった一面なんじゃないんすか。知らんけど」

 僕は愛海としか付き合ったことがないから他の人はどうとか、一般的にはこう、とかそういう定番の好みが分からない。ただ魔人の言う通り、過保護な面も彼女が僕の好きな一部と見てくれているのだとしたら、これはこれでいいのかもしれない。

 翌日になり、僕はいつも通りに愛海と共に学校で昼間を過ごした。

 藤田との約束の時間は午後五時の鉄橋下である。やっぱり愛海には藤田と会うことを伏せたままにすることにし、四限目が終わるとすぐに僕は「今日はちょっと用事があるから先に帰るね」と声を掛けた。

 「あ、うん、分かってる。またね」

 分かってる?

 愛海の発言を疑問に思いつつ、「またね」と手を振ると、愛海はそそくさと僕の前から姿を消した。愛海も何か用事があるのか?

 大抵の用事ならば僕に話してくれるが、まぁ話してくれない時もあるだろうと、気に留めないことにして鉄橋下へと足を向けた。

 待ち合わせ場所を鉄橋下にした理由としては人目にあまり付かないということだけである。僕としてはどこでも良かったし、藤田が望む場所でならそこを拒否する必要もない。

 鉄橋は家からも結構近いこともあり、待ち合わせ場所に行くには随分時間の余裕があった。のんびり歩いて、途中コンビニにも寄り、鉄橋下には五分前には着く算段だ。

 秋冬の沈みの早い日が既にオレンジ色に変わり出していた。

 遊歩道には人気はほとんどなく、遠くに犬の散歩している人が見えるぐらいだ。土手の階段を降りる。鉄橋上では電車が行き交い、鉄橋下では傾いた夕日によって出来た薄暗い影が延びていた。

 いったい何を言われるのだろうか、少なからずあの勝気な性格の藤田のことだ。一発殴ってくるかもしれない。そんな少し気怠い感情をぶら下げて歩いて行く。

 鉄橋下のコンクリの角を曲がった。そして目に飛び込んできた光景に僕は唖然とした。

 夕日が幻想的に差し込む鉄橋下。逆光で伸びる人影。血溜まりの中に沈む藤田。滴り落ちる血。真っ赤な包丁。それを握る夕日に照らされた愛海。愛海の顔や服には血が付いていた。

 何だこれ、何があったんだ……

 こちらに気付いた愛海が顔を向けてくる。逆光で見えない彼女の顔。

 鼓動が速くなっているのが分かる。

 「誠くん、藤田くん殺しといてあげたよ」

 僕の瞳に映る彼女が微笑んだ。

 

 

  3

 

 愛海から包丁を奪い取ると袖で持ち手を拭き、川の中へ投げ捨てた。赤い筋が川の流れに沿って揺らめいた。

 「何してるんだよ」と震える僕の声とは裏腹に「誠くんだって藤田くんのこと煙たがってたじゃん」と愛海はしっかりとした口調で喋った。

 「だからって殺すことないだろ」

 「何で殺しちゃいけないの?」

 「何でって……そりゃ……」

 何でだ。何で人は人を殺しちゃいけないんだ。虫や動物は当たり前に殺すのに、何で人は殺しちゃいけないんだ。法律でそう決まってるから? 悲しむ人がいるから? じゃあもし法律がなかったら殺してもいいのか? 悲しむ人がいなかったらいいのか?

 足元に藤田の血が流れてきた。思わず足を引っ込める。

 何で僕はこんなに冷静なんだ。藤田が本当に死んだとは思っていないからか? 以前に愛海の死を何度も経験したからか?

 愛海は小首を傾げて僕の答えを待っている。だが今は何故人を殺しちゃいけないのか何て哲学的なことを討論している場合じゃない。

 「そんなのは後だ」

 僕は愛海の頬に付いた返り血を手で拭うと、着ていた上着を愛海に着させた。

 「寒くないよ?」

 「違う、返り血を隠すためだよ」

 こんな状況、どうすればいいか何て分からない。愛海の様子もおかしい。とにかく今はこの場から逃げたい。そんな思いに駆り立てられて愛海の手を掴むと、強引に引っ張った。

 「ちょ、ちょっと、どこ行くの」

 「家だよ、今はここから離れないと」

 人がいないのを確認して鉄橋下から脱出する。遊歩道に出ると、何事もなかったように平然と歩いて家へと向かう。誰かに見られていないかと、後ろが気になり執拗に振り返ってしまう。愛海を握る手が小刻みに震える。寒気ではなく、誰かにバレないかと緊張のあまりだ。

 後ろから甲高いベルの音が鳴った。驚きのあまり目をひん剥いて振り向く。その直後、自転車に乗ったおばさんが横を通り抜けていった。

 「誠くん大丈夫? すっごい手震えてるけど……」

 心臓に悪い。一刻も早くここから逃げ出したい足が自然と早足になり、遂に僕は本気で怖くなり、走り出した。

 家に着くと、鍵を全部掛けて玄関に座り込んだ。外にいた時に感じていた誰かに見られている感覚の恐怖から逃れられ、足に力が入らなくなっていた。手の震えは全身に広がり、僕は極度の緊張に体を強張らせていた。

 「誠くん大丈夫!?」

 異常な様子の僕を愛海は抱き起こし、一まず部屋の奥へと運んでくれた。

 何で愛海は平気なんだ。人を殺したんだぞ?

 現場に居合わせた時には感じなかった恐怖に押し潰されそうになる。もしバレたらどうなる。僕のやっていることは良くないことだと分かっている。だからこそ、罪意識が腹を締め付ける。

 「大丈夫? 私の声聞こえる?」

 警察に電話した方がいいのか? でもそうしたら愛海はどうなる。僕だってただじゃすまないだろ。捕まれば僕達の将来なんて簡単に崩れ去る。今の日本はたった一度の過ちが一生付いてまわるんだぞ。

 「誠くん、聞こえる?」

 そういや本当に死んだか確認していなかった。まだ生きているかもしれない。今すぐ救急車を、いや、あの血の量は尋常じゃない。素人の僕でもあれは失血死の量だと判断できる。血飛沫が上がったのかコンクリに落書きされたかのような血。服の色を歪める赤。現場の光景を思い出した直後、胃から湧き上がるものを僕は抑えきれなった。

 

 

 

 昨日の出来事は夢だったのかもしれない。目覚めた時、静まり返った自分の部屋はいつもの様だった。大学に行く前にテレビを点けたがそれらしい報道もない。通学路で餌を探す雀の囀りもいつも通りだ。しかし、現実に引き戻したのは大学に行った時だった。事務がある本館から黒いスーツに鋭い眼光を光らせる二人組の男が出てきた。僕は直感でこの二人は警察だと感じた。すぐに背中を向け、教室へと向かう。怪しまれないように足取りを変えないことに細心の注意を払う。緊張が解けたのはいつもの窓際席に着いた時だった。

 「どうしたの? そんなに冷や汗掻いて」

 いつも僕より先に席に着いている愛海が声を掛けてくる。彼女からは一片の怪しさが出ていない。昨日の出来事が嘘のように思える。

 「何で愛海は平気なんだよ……」

 「誠くんは気にし過ぎなんだよ。今の御時世、殺人事件何て珍しくもない」

 「馬鹿……!」愛海の口を塞ぐ。

 誰かに聞かれたらどうするつもりなんだ。それにどうして他人事のように言えるんだ。

 僕の行動ですぐに察したのか愛海は僕の手を退けると小声で話し出す。

 「そんなに気負いしてたら逆に怪しまれるよ」

 愛海の言うことも最もだが、そもそも愛海は人を殺している。昨日の今日でどうしてそんなに落ち着いていられるんだ。

 「愛海には罪悪感がないの?」

 「信号無視みたいに法律違反なんて誰でも犯すでしょ。それに昨日も言ったでしょ、何で人を殺しちゃいけないのかって」

 「愛海にとって殺人は信号無視と同じぐらい気軽に出来るものなの?」

 「そんな気軽に出来たらそこら辺に死体の山が出来上がってるよ。人を殺しちゃいけない理由で法律しか持ち出せないなら、こんな不毛な会話止めよ」

 ここで負けてはいけない。愛海の考えを改めさせて自分が何を仕出かしたのかをちゃんと理解させる必要がある。まさか、愛海がここまで人とズレているとは思わなかった。

 「殺しちゃいけない理由は法律だけじゃない。死んだら悲しいから、遺族のことを考えてみろ」

 愛海が初めて死んだ時、僕はどん底にいる気分だった。愛海にはそんな想いを経験してほしくはないが、人を殺しちゃいけない理由として理解はしてほしかった。

 「じゃあ家族も友達も恋人もいない、死んでも悲しんでくれる人がいない人は死んでもいいの?」

 「そんな言葉の穴を突っ込むような屁理屈はずるいよ。愛海がそれを言うなら、法律を持ち出すなっていう条件も屁理屈じゃないか」

 「屁理屈、屁理屈って、言い返せないからってこっちが悪いみたいな言い方しないでよ!」

 愛海の大声に教室中の視線が集まっていた。僕はまた愛海の手を強引に掴んで教室から飛び出した。

 藤田を殺した時はあんなに冷静だったのに、どうしてこんな言い合いにムキになるんだ。

 講義のない空き教室へと連れ込む。手を離して、顔を見ると、愛海は今にも泣きだしそうになっていた。

 「……私だって、人を殺しちゃいけないのは分かってるよ……でも、誠くん……昨日学校にいる間、ずっと浮かない顔してたから……きっと私が藤田くんに寄りつかれているのが悪いんだって、思ったから……」

 「……僕のために藤田を殺したって……こと?」

 愛海は今にも大声で泣き出しそうな顔で首を縦に振った。

 いくら何でもやり過ぎだ。そんなの頭ではいくらでも分かっている。理屈が通ってないのも分かっている。でも、目の前で泣きそうになっている好きな人を放っておくことは出来なかった。

 愛海の背中に手を回し、引き寄せると、僕の胸で愛海は泣き始めた。泣きじゃくる彼女の姿はまるで叱られた子供のようで、可愛くて、愛おしかった。

 彼女は人を殺しちゃいけないことをちゃんと理解している。その上でどうして人を殺しちゃいけないのかと、自分でいるためにそれを正当化しようとするための答えを探しているのだ。

 「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」

 僕のため過ちを犯した好きな子を、僕は離すことなど出来るはずなかった。

 「謝るの方は僕の方だ。僕は心のどこかで、こんなにも僕のことを思っている子と別れようかと思っていたんだ」

 「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」

 子供をあやすように僕は彼女の頭を撫でる。

 その翌日、僕は警察に連行された。



 4


 あの時の僕はどうにかしていたと思う。冷静に考えれば、藤田の携帯を調べれば僕と鉄橋下で会う約束がされていたことなどすぐにバレることだったし、そこから愛海の名前が挙がるのも当然。さらに携帯で会話の履歴を見れば、三人の恋の縺れが原因だと簡単に推測がつく。本当にどうかしていた。日本の警察から逃れられるはずがない。情に流され、僕は何をやっていたんだ。

 本館前で見たあの黒スーツを着た二人組、足頼(あしらい)尾方(おがた)に挟まれ、僕の事情聴取が進む。

 「単刀直入に聞くよ。城島くんが藤田くんを殺したの?」

 「違います」

 「じゃあ誰が殺したか知ってる?」

 「知りません」

 「君は鉄橋下に行った?」

 「行ってません」

 「じゃあ藤田くんとの約束を破って君はどこにいたの?」

 「浜井さんと会ってました」

 「近くのコンビニの監視カメラに君は映っていたけど、浜井さんは一緒に映っていなかったよ?」

 「コンビニに寄ってから彼女と会いました」

 「浜井さんとはどこで一緒にいたの?」

 「僕の部屋です」

 「何で藤田くんの約束を破って彼女に会ったの?」

 「面倒になったからです」

 昨日の空き教室で作った設定で話す。この設定で話すは今回だけだ。もし次に僕が容疑者として任意同行するはめになったら、全部を話すつもりだ。今回だけ愛海と作った設定で話すのは彼女への同情でだ。

 それから僕が解放されたのは二日後だった。容疑が固まらなかったようだ。身元引受人として両親がやってくる。夏休み以来だから約二ヶ月ぶりか。何度も警察へと頭を下げる両親を横目に僕は久しぶりの外へと出た。両親は今日、僕の部屋に泊まっていくらしい。きっと口うるさいことを言われるに違いない。気が滅入る。

 僕が帰ってきたその日の夜、あれやこれやと、親に問いただされているとインターホンが鳴った。

 「誰こんな時間に? お友達?」と母親が玄関の方へと目を向ける。

 嫌な予感がしつつも、玄関のドアを開けると予想通りそこには愛海が立っていた。

 「誠くん大丈夫?」

 「ああ」

 玄関先に立つ愛海の口から白い息が漏れる。

 「誰かいるの?」

 「両親」

 「そっか……じゃあ今日は中に入るのやめとくね」

 誰もいなかったら入るつもりだったのか。

 「こんな時間にどうした」

 「どうしたって……私、誠くんのこと心配で、いつ帰ってくるか分からないから毎日来てたんだよ!」

 ストーカーか。

 「そうだったのか、ありがとう……それじゃあ」

 ドアを閉めようとすると素っ気ない態度に腹が立ったのか「ちょっとは心配してた私の気にもなってよ!」と愛海が怒り出す。

 怒りたいのはこっちの方だ。愛海にはずっと振り回されている気がする。

 「今日はもう疲れてるんだ。もう帰ってくれ!」

 そうやって愛海を突き飛ばすと家の鍵を全て掛けた。

 翌日の朝早く、両親は地元へと帰って行った。僕も大学へと向かうと、愛海は昨日のことがなかったように「おっはよ!」と声を掛けてきた。

 いつもの席に座り、いつもの愛海の昨日の話が始まる。今日にいたっては話せなかった三日分が溜まっていて、愛海の舌がよく回っていた。

 どうやら愛海も足頼と尾方の二人に聴取されたようだが、愛海も同様に作った設定で話を進めたらしかった。口振り的に僕の時のような缶詰にされるような事情聴取ではなかったようだ。

 愛海の話が頭に残ったのはこれだけだった。他にも料理の話や、僕がいなかった時の講義の話をされたが、頭には入らなかった。その時僕が考えていたのはいつ別れ話を切り出すか、これだった。

 別れ話を切り出せず、惰性で愛海と一緒に過ごす。事情聴取の解放から丁度一週間の火曜日。一通の手紙が届いた。それは大学からの除名処分の勧告だった。どうやら警察諸々の出来事が学校にバレて容疑が掛かったその時点で除名を決定されてしまったらしい。その連絡は実家にも届いたらしく、血相を変えたように親からの電話が鳴り響いた。

 僕が何をしたっていうんだ。いけないのは愛海じゃないか。何で藤田を殺した愛海が責められず、その場に居合わせた僕が責められないといけないんだ。

 電話に出れば、お金はどうするんだと、これからどうするつもりなんだと責められるに決まっている。そんなの僕に分かるはずがない。ストレスで胃液まで吐いてしまう。

 誰か僕を助けて。そう頭で何度も繰り返された時、部屋の隅に置かれた魔人の書を見つけた。これを使えば僕は救われるかもしれない。手を伸ばしたが、僕は結局手にするのをやめた。

 願った先、何が待っているか分からない。また愛海が死ぬかもしれない。愛海とは別れるつもりだ。でも、あんなに苦労して助けた愛海をもう一度殺すなんて僕には出来ない。愛海は嫌いじゃない、でもあの頃の強い好きという気持ちを今では思い出せない。

 僕はどうすればいいんだ。葛藤と迷いと矛盾が胃を押し潰し、もう一度胃液を吐かせる。

 外に出るのが怖い。誰かと話すのが怖い。部屋の隅でうずくまり、目を瞑る。誰かが現状を変えてくれるわけがないのに、誰かがこの状況を変えてくれるのではないかと願って目を瞑った。

 

 

 

 何日が経っただろう。外には出ていない。部屋の物の位置は一切変わっていない。食欲も起きない。携帯も電池が切れてから一切充電していない。インターホンやドア越しから愛海の声が聞こえた気がするが、一度たりとも反応していない。

 人は食事を抜いてもしばらくは生きていけるとは本当のことのようだ。さすがに本気で死ぬと思い、僕は気怠い体を動かして買い置きしていたインスタントラーメンを茹でた。

 麺を啜る音を聞いたのはいつ以来だろうか。テレビを点けるとお昼の情報番組がやっていた。最初は何とも思わず、ただ眺めているだけだったが、しばらくして思考が蘇ってきた時、僕は今やっている話題に目を見開いた。

 画面端に映る『警察官と大学職員殺害事件。二つの事件の関連性は』の文字。そして番組で何度も呼ばれる『足頼』の名前。

 『足頼さんは勤務後、帰宅途中に刃物で首を切られ……』『大学職員の橋本さんも同様に勤務後の帰宅途中に刃物で首を切られ、同一犯として捜査当局は……』

 藤田の死体を思い出す。あの血溜まりを作っていたのは藤田の首から流れる血だった。

 もしかして、また……!

 僕は充電器を携帯に挿すと、愛海へと電話を掛けた。数コールすると「もしもし?」と愛海の声が聞こえた。愛海が何か喋ろうとしたのを遮り「またやったのか!?」と怒鳴った。しばしの沈黙の後に「何のこと?」と愛海は返してきた。

 「足頼さんと大学職員の件についてだ!」

 すると愛海は「あぁ! そうだよ! 私だよ!」と雲一つない晴々とした声で返事をしてきた。だから何でそんなに無邪気でいられるんだ。

 「大丈夫だよ! 今回も見られてない!」

 「そういう心配をしてるんじゃない! 何でまた人を殺したんだって意味で電話したんだよ!」

 「……だって……だって」

 電話越しで愛海が泣きそうなのが分かる。

 「愛海、今どこにいる?」

 愛海がもしも人のいる所にいる場合、感情のままに喋って誰に聞かれるかも分からない。

 「大学だけど……」

 大学なら近いなと「今すぐ家に来い」と僕は言った。それから二十分もすると愛海はやってきた。玄関先で喋るのもあれだと思い、中に招き入れる。

 「久しぶり……元気だった?」

 愛海はベッドに座りそう言った。だが、そんな上辺を繕った質問に僕は答える気は一切なかった。

 「何でまた殺したんだ……」

 「誠くんを苦しめたから……だから憎くて……」

 「だから殺したっていうのか…… 憎くいからって殺していいわけないだろ!」

 「何で怒るの!? 私、私誠くんが喜ぶと思ってやったんだよ!? 最近の誠くん様子がおかしいから私何とか喜ばせたくて……!」

 「人を殺して僕が喜ぶとでも思ったのかよ!」

 「違うよ! 誠くんを傷つけた人にその復讐をすれば、誠くんの気が晴れるかと思って私は」

 「愛海のそういうのが、重いんだよ!」

 虚をつかれたように愛海は「え……」と言葉を漏らした。愛海の目が潤み始める。何でそんなこと言うの、と見つめてくる。そんな目で見るな。

 「押しつけがましくて、ウザったくて、粘っこくて、僕がどれだけその気持ちに無理やり応えてきたと思ってるんだ!」

 そんな目で見るな。そんな目で見るな。そんな目で見るな。

 「ずっと言おうと思ってた……」

 感情任せに動く口は、もう歯止めが効かなくなっていた。

 「僕達別れよう」

 

 

 5

 

 僕は愛海に押し倒されていた。泣きながら僕の上に乗る彼女は快楽に訴え、「嫌だ、嫌だよ」と別れるのを拒んでいた。生理的に体は反応するが、気持ちは入っていなかった。

 「私がどれだけ誠くんに尽くしたか……私がどれだけ誠くんが好きなのか……どうして分かってくれないの」

 「それが重いって言ってるんだよ」

 愛海がどれだけ必死に僕のことをきつく抱き締めても、嫌悪感が増すだけだった。

 「じゃあどうすれば許してくれるの……何をすればまた私のことを見てくれるの……」

 そんなの僕が分かるわけがない。僕だってあの頃の愛情を取り戻したい。でも、今は何をされても嫌悪感が増すだけだ。

 愛海のせいにしようとするクズな自分に嫌悪、快楽に身を任せ抵抗しようとしない自分に嫌悪、僕を求める愛海に甘える自分に嫌悪。

 締め切ったカーテンから入る日がなくなり、気付くと部屋は真っ暗になっていた。事が済んだ頃には僕は愛海の肩を抱き、「ごめんね」と上辺でだけで行動していた。結局は愛海を捨てられない。愛海という性の捌け口、愛海という感情の捌け口、愛海という甘えの捌け口、愛海がいないと僕は自分の足で立てなくなっていた。

 真っ暗な部屋の中、部屋の光源はテレビの光だけ。身を寄せる僕達は一つの掛布団を一緒に被り、ただ無言でテレビを眺めていた。テレビの芸能ニュースから連続殺人の話題へと切り替わった。

 藤田、足頼、大学職員で立て続けに三件の殺人が起きているのだ。愛海曰く、ここ数日のこの辺りの警察官の量が尋常じゃないらしい。

 『急展開です。千葉県市川市での連続殺人事件の犯人が判明。さらに犯人が自殺していたことが今日十八時丁度に分かりました』

 「えっ……」

 僕と愛海は口を揃えた。食い入るようにテレビを見つめる。

 『二年前に同市で発生した通り魔事件の犯人が今回の連続殺人事件の犯人の可能性があるとして警察が調べを続けていた所、アパートの一室から異臭がすると住民の通報が入り警察が調べてみると、部屋の一室から首を吊った男性、佐賀(さが)正一(しょういち)容疑者と殺害された足頼氏の財布が見つかったとのことでした』

 二年前の通り魔で思い出す。何度も繰り返した時に愛海は幾度となくあの通り魔に殺された。あの男、遂に自殺をしたのか。でも何故足頼さんの財布を持っていたんだ。

 愛海の方を見ると「私が足頼を殺したのに……」と手柄を横取りされたかのように呟いた。単純な発想だが、愛海が殺した後に通り魔が通り掛かって財布を取っていたのだろう。

 それにしても、不幸中の幸いである。これのおかげで事件はもう調べられることはない。僕も愛海ももう追われることはないのだ。愛海は安堵したのか、力なく僕の肩に凭れ掛かってきた。

 「これで終わったんだね……」

 僕は返事をせず、愛海の頭を撫でた。

 テレビの報道は続く。市川駅で道行く人の反応を伺っている。

 『え、死んだですか!?』『あの通り魔が犯人だったんですね』と驚く人がいる一方で、頑固そうなおじさんが『罪を償わずに死んだのか』と怒ったり『裁く前に楽な方へ逃げただけじゃないか』と苦言したりする人もいた。

 それを見ていた愛海は「償え切れない罪をどうやって償うっていうの」と呟きだす。

 「償った所で、許されるはずないのに」

 愛海は自分のしたことの重さを理解しているのだろうか。

 「裁く前に楽な方へ逃げたって、じゃあどうして日本の最高刑は死刑なの」

 どうして人を殺しちゃいけないの、とか愛海はたまに哲学的なことを言う。答えなんてあるはずないのに。そんなことを聞かされると僕も同じように考えてしまう。悪い癖だ。僕はきっと愛海の気持ちを理解することは一生出来ないだろうし、愛海の考えを改めさせることも出来ないだろう。

 僕の諦めは愛海への同情となっていた。それに気づくまで、それほど時間は掛からなかった。そして、それに気付いてしまった時、僕は哀れんで彼女を見ることしか出来なくなっており、彼女を恋人として考えることは出来なくなっていた。

 

 

 

 ここから離れる時がきた。大学の除名処分を言い渡されて、もうここに残る必要性はない。親からは地元に帰ってきて仕事を探せと言われた。面倒だが、そうするしか道はない。愛海と共に部屋の荷造りをする。明日には引っ越しのために親が車でやってくる。

 「見て、懐かしい! 初めてのクリスマスに私があげたマグカップ! 勿体ないから使わないって言ってたけど、箱からも出してないじゃん」

 小物を片付けてく愛海はいちいち物に反応していく。子供じゃないんだから……

 「ちょっと昼買ってくる。何でもいいよね?」

 「うん、いいよー」

 部屋から出て新鮮な空気を吸う。部屋が埃っぽかったからか全然違う空気に感じた。冷えた空気が肺を満たす。コンビニまでの短い道のりを歩く。

 これでこの町のこの風景も見納めか。

 たった二年と半年間だったが、随分と濃い内容だった気がする。自然と歩く早さはゆっくりになった。

 楽しいこと嬉しいことはいっぱいあった。それと同じぐらい、いや、それ以上に嫌なこともたくさんあった。この町を離れれば、愛海とも疎遠になる。そしていつか自然消滅するんだろう。それでいいんだ。僕にとっても彼女にとっても。共依存する僕達は唐突な別れをするよりも、会う頻度が減り、メールだけのやり取りになり、次第にやり取りの数も減り、自分達が気付かぬ内に相手が自分の中からいなくなるのが一番なのだ。

 日が暮れた頃には部屋の物をほとんどなくなり、片付けていないのはベッドとテレビぐらいになった。初めてこっちに引っ越してきた日を思い出す。

 「ガランとしてるね」

 「そうだね」

 「寂しい?」

 「少しね。寂しいって気持ちより、不安の方が大きいかな」

 「不安?」

 「こっち越してきた時と同じだよ。部屋にはほとんど何もなくて、頼る人もいなくて、これからの将来が不安だった。大学生だった頃の将来どんな仕事に就こうとかいう具体的な不安じゃなくて、これから僕はどうなっていくんだろう、大丈夫なのかなっていう漠然とした不安」

 お先真っ暗とは正にこのことだ。大学の除名処分による唐突の無職、一度掛けられた容疑者の肩書、親からのプレッシャー。通り魔が罪を被ってくれたのは本当に不幸中の幸いだが、肩の荷が下りた気にはならなかった。

 「頼る人ならここにいるだろ!」

 「はいはい、ありがと」

 簡易な夜食を済ませると「今日も帰らない」と言い出した愛海と狭いベッドに二人で寝ることにした。真っ暗な部屋の中、僕が愛海に温度を感じられていると彼女が小さな声で語り掛けてくる。

 「帰りたくない?」

 「そりゃね」

 「実家が嫌いなの?」

 「違うよ。全部が嫌いなんだ……口うるさい親も、理不尽な社会も、居場所のないこの町も、僕を否定してくる全部が嫌いなんだ」

 「私は否定しないよ」

 「……何で愛海はそんなに僕のことが好きなの? 今の僕は将来性も価値もない無職なんだよ? 僕に関わるだけ時間の無駄だよ。愛海なら他にもいい人がすぐ見つかるよ」

 「そんなこと言わないでよ。他の男なんて全然興味ない。私は誠くんさえいればそれでいいの。何に私の生きる価値を見出すか何て私の勝手でしょ」

 「僕に生きる価値を見出すほど、僕に価値はないよ」

 「誠くんは自分のこと嫌いかもしれないけど、私だって自分のこと嫌いだよ、価値がないって思ってる。お互いに価値がないっていうなら私達は同価値だよ」

 言い得て妙だ。

 「だから一緒にいさせてよ。誠くんの匂いを嗅ぎたい。誠くんに触れたい。誠くんの声を聞きたい。誠くんの傍に居たい。それだけが私の望みで、唯一の幸せなの」

 自分が分からなくなる。愛海とは関わりたくないと思う気持ちと、一緒にいたいと思う気持ち。愛海なんてどうでもいいと思う気持ちと、ほっとけない気持ち。

 反比例する気持ちが複雑に絡まって、僕の気持ちを覆い隠す。どれが本音で、どれが建前なのかが分からない。僕は結局、愛海のことが好きなのか嫌いなのか。そんな単純な二択にも結論が出せなくなっていた。

 「私も誠くんと一緒に行く」

 「え?」

 「私も大学やめて誠くんと一緒に行くって言ったの」

 「そんなの駄目に決まってるだろ!」

 「私も捨てる。私の持ってるもの全部。家族も友達も、過去も未来も全部捨てて、誠くんと同じ場所にいく」

 「僕のために自分を犠牲にしないでくれ……」

 「犠牲だなんて思ってないよ。誠くんと一緒ならどんなことにも耐えていけるし、どんな場所でも幸せでいられるから」

 どうすればいいのか分からない。愛海の考えも分からない。自分がどうしたいかも分からない。唯一分かることは「頼むから……これ以上僕を嫌いにさせないでくれ……」という自己否定をこれ以上したくないことだった。

 

 

 6

 

 親の車の中は荷物でいっぱいになった。そのため僕は実家まで電車で帰ることになった。隣には愛海がいる。二時間の電車の旅に疲れたのか眠ってしまっている。愛海越しに見える空は一面が灰色に包まれていた。流れていく景色にも心なしモノトーンが掛かっているように思える。

 十二月二十八日。家を出る前に見た天気予報で、今日は今期初めての雪が降るかもしれないと言っていた。

 暇な時間を持て余し、バックの中身を確認すると魔人の書が顔を出した。ほとんど本を開いていない。魔人ともしばらく顔を合わせていない。魔人に願えば、きっとこの状況を悪い夢だったと笑い話にしてくれるに違いない。でも願うことはしない。願った幸福の先に幸せがないことを僕は知っているからだ。だが同時に魔人の書の存在は本当にどうしようもない時の切り札として、僕の小さな心の支えとないっている。

 「ここが誠くんの生まれ育った場所かー」

 狭苦しい場所から解放された愛海はうんと伸びをして深呼吸をした。

 久しぶりの地元は相変わらず見栄えのしない風景を変えていない。建ち並ぶ住宅に錆びられたシャッター。少し奥の方には名前も知らない山がある。

 田舎を何もないと言うが、実際は都会を惹きつける懐かしさがある。僕が何もないと思うのは、どこにでもあって、昼間から閑静なこういう住宅地こそ指している気がする。

 家に帰ると、早々に両親は愛海に注目した。両親はどちらとも僕が愛海と付き合っているのは知っていたが、家にまで追い駆けてくるとは夢にも思わなかったらしい。僕の方も昨日の夜に愛海が付いてくることになったから家に来ることを話し忘れていた。

 「うちは別に構わないけど……浜井さんのご両親は……」

 「あ、私の両親は放任主義なんで大丈夫です」

 「そう言われてもねぇ……」

 眉をハの字に曲げる母親を無視し、僕は愛海を連れて自分の部屋へと向かった。

 「野球やってたの?」

 「中学生までね。何で分かったの?」

 「玄関に金属バットが置いてあったから」

 「あぁ、母親が不審者用にって、ずっと玄関に置いてあるんだ」

 夜にはきっと話し合いが始まるだろう。それまで英気を養うことにしよう。

 キョロキョロと僕の部屋を見渡す愛海を横目に、重荷から少しでも逃げるように僕はベッドへと倒れ込む。すると、妙にはしゃいだ愛海がベッドに潜り込んできた。

 「何で嬉しそうなんだよ」

 「だってー、誠くんの部屋なんだもん。それにこのままいけば私達結婚するかもしれないじゃん!」

 結婚だなんて考えたことがなかった。愛海といずれ結婚するのか僕は。人を殺した妻を一生匿いながら、世間の目からひた隠しにして、泣き寝入りするしかない遺族を尻目に、僕は生きていくのか。そんなこと考えたくもない。

 やっぱり愛海を警察に突き出すか…… 駄目だ。それじゃあ匿ったことで僕も捕まってしまう。結局は僕が愛海の面倒を見るしかないのか。

 新たな重荷に気付いてしまった僕は、瞼を閉じることで一時の休息をとることにした。

 

 丸テーブルの食卓を囲んだ両親と僕と愛海の晩飯は、それはそれは静かなものだった。張り詰めた空気に重い雰囲気。両親は僕を腫れ物に触るように接してくる。晩飯の揚げ物の味が全くしなかった。

 「食べ終わったらここに残りなさい」

 親父が切りだし、僕は俯くように頷いた。

 食卓の上に広がったものはなくなり、再び空気が張り詰める。

 「お前、これからどうするつもりなんだ」

 「ここで暮らしながら仕事を探すよ」

 「当てはあるのか?」

 「当てがあったら大学なんて行く必要なかったろ」

 「あんたねぇ! いったいあんたが大学行くためにお父さん達がいったいいくら出したと思ってんのよ!」

 金の話。僕が一番嫌いな話だ。昔からすぐに金の話を出してくる両親が僕は苦手だった。そんな話を出されたら、僕に勝ち目はない。金の話に萎縮させられ続け、反抗が出来ないまま反抗期を終える頃には両親が苦手になっていた。親子喧嘩をする家庭が羨ましいとさえ思ったことがある。ここの場合は金の話をすれば僕が怯むことを両親はきっと知っているのだろう。だから僕にいつも勝ち目はなかった。

 「お父さんもお母さんも落ち着いてください。感情的になったら話が進まなくなりますよ」

 愛海がそう助け舟を出すと、火の粉は愛海にも降りかかることになった。

 「そういう浜井さんはどうなのよ! こんな馬鹿息子のケツ追い駆けてきちゃって、きっとあなたのご両親も泣いているわ! 人生棒に振るようなことしちゃって、あなたも少しは心配する親の気持ちを知ろうとしなさい!」

 ヒステリックに陥ったかのように母親の言葉攻めは止まることを知らなかった。相槌を打ち、親父も追い打ちを掛けてくる。僕は泣きそうになっていた。怒られることに泣きそうになっていたんじゃない。申し訳ないという気持ちでいっぱいになっていた。両親が言う事が最もで、クズな自分が嫌になってくる。

 実行犯は愛海だけど、藤田を殺す原因になったのは愛海と付き合っていた僕にあるのではないか、足頼さんも大学の職員さんだって僕がもっと愛海を制することが出来ていれば、死ななかったかもしれない。僕が愛海を匿いさえしなければ僕は大学をやめずに親は泣かなかったかもしれない。理不尽な社会に不満を積もらせていたが、実際は僕が不甲斐なかったせいかもしれない。愛海のせいにするのも、社会のせいにするのも僕がまだ他人のせいにしたがる子供だからなのかもしれない。

 そんな未熟な自分が申し訳なくて、どうしようもない怒りになっていた。手が震える。

 隣に座る愛海が立ち上がった。母親の説教は続いている。

 「何で立ったの、座りなさい!」

 すると愛海は台所の方へ足を向けた。それを追い駆ける母親。その瞬間、嫌な予感が全身に走った。いけない。後を追おうとした直後、母親の甲高い悲鳴が響いた。足音を鳴らし、擦り傷を負った母親が逃げてくる。その後ろには包丁を握った愛海がいた。目から感情が失われていた。親父はどうしていいのか分からずに立ちつくしている。丸テーブルに躓いた母親が倒れる。愛海の目には既に、母親を人とは認識していなかった。悲鳴を上げる母親の上に跨った愛海が包丁を振り上げる。

 「やめろ!」と親父が愛海の腕を掴んだ。僕は無我夢中に親父に体当たりし、床に抑え込んでいた。その時感じたのは、父の力も随分落ちたなと落胆するものだった。横目に映る母親は両手で抵抗するも、ジタバタとするその姿はとても幼稚なものに見えた。愛海は包丁を振り下ろした。鈍い音が鳴る。

 一回。二回。三回。四回。五回。

 何度も振り下ろされる包丁に合わせ、悲鳴が上がる。血で喉を詰まらせ、母親が咳き込んだ。その血が愛海の白い顔に纏わり付く。親父は僕を蹴飛ばした。食器棚にぶつかる。親父は愛海を押し倒すと、包丁を奪い取った。耳を劈く愛海の悲鳴。僕は無意識に玄関に走っていた。

 「よくもやったなぁ!」

 唾を撒き散らし、親父が包丁を愛海へと向ける。そこに僕は金属バットで渾身の一撃を親父の頭に当てた。鈍い音が響く。倒れ込んだ親父に僕は構わずにバットを振り下ろした。

 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。骨が砕け、血が糸を引き、床の模様を変える。

 「もういいよ」

 愛海に抱きつかれた時、僕はようやく停止した。顔の判別も出来なくなった親父。腹から血を流して動かなくなった母親。血だらけになった居間。僕はただ立ち尽くした。肩で息をし、真っ白になった頭で状況を理解することが出来なかった。

 「ほら、力を抜いて」

 僕の両手に赤い手が乗せられる。血は温かいのに、乗せられた手は酷く冷たかった。硬直し金属バットを離せなくなった僕の手を愛海は指を一本ずつ優しく解していく。

 体が酸素を求めていた。空気を吸うと生臭い匂いが肺に広がった。母親の腹からは見覚えのある晩飯がドロドロになって垂れていた。グロテスクな親父の死体に思わず嘔吐した。

 殺してしまった。衝動に駆られて母親を見殺しにし、実の親父を撲殺してしまった。動悸が激しくなる。そんな中、背中に温もりを感じた。

 「……助けてくれてありがとう」

 助けたのか、僕は。何で愛海を。両親より、何で僕は愛海を選んだんだ。

 「誠くんは一人じゃない。やっぱり私達、同価値なんだよ」

 同価値。僕が。愛海と。同じ。一緒。

 

 僕達は血の付いた服を脱ぎ棄てると手荷物をまとめた。ストーブ用の灯油を家の中に撒き、ライターを手にする。

 「本当にいいの?」

 「うん」

 外に並んだ僕達。愛海の手から家の中にライターが投げ込まれる。すると、瞬く間に火は炎となって家の中に広がった。

 家の中から燃える音が聞こえてくる。

 これで僕は全てを失った。思い出も、家族も、家も、帰る場所も、全て失った。愛海を除いて。この手に掴む愛海だけが唯一僕の手元に残ったものだ。燃えていく家を脳裏に焼き付けながら僕は口を開く。

 「なぁ愛海は前にどうして人を殺しちゃいけないのかって聞いてきたよね」

 「うん」

 「それはきっと、人を殺した人はもう、人として生きていけなくなるからだと思うんだ。社会からも殺され、親しい関係でさえも人として疑われてしまう。人は一人では生きていけない。そして殺人は人を孤独にする。一緒に笑うことも一緒に泣くことも出来なくなる。それはもう死んでいるのと同じだよ」

 人を殺していけない理由は一つじゃない。たくさんの理由が絡んで人を殺してはいけないことになっている。そんな中で、これが僕の見つけたその内の一つの答えだ。

 「じゃあ私達は生きてるの? 死んでるの?」

 「僕達は……」

 続きを言おうと愛海の方を見たとき、隣の家のカーテンが動いた。

 もしかして見られた!?

 僕は愛海の手を掴んだまま、走り出した。

 「どうしたの急に!」

 「見られたかもしれない。とりあえずここから離れよう!」

 僕達の足音が静かな住宅街に反響する。遠くから消防車のサイレンと、それに混じる警察のサイレンも聞こえた。人気の多い場所を目指して走る。息が切れてきて口から白い息が止めどなく溢れ出す。無言で走る僕達の頬に冷たいものが触れた。空を見上げると、ひらひらと急ぐ僕達をあざ笑うかのように雪が降り始めていた。

 家の角を飛び出そうとした時だった。目の前をパトカーが現れた。轢かれそうになり立ち止まる。パトカーの方も急停車をした。このタイミングでの警察に心臓がドキリとする。怪しまれないようにお辞儀をして足早に横切って立ち去ろうとした。

 「ちょっと待ちなさい」

 振り返ると警察官の一人が車から降りて来ていた。鼓動が早くなっていく。轢かれそうになった件か、それとも……

 警官が車の中の人と一言二言会話を交わすと警官は近づき、こう言った。

 「君達、もしかして城島くんと浜井さん?」

 名前を知っている!?

 僕が動き出すより先に愛海が僕の手を引き、走り出した。

 「走って!」

 「あ、おい! 待て!」

 名前を知られていた。ということは轢かれそうになった件でも家を燃やした件でもない。轢かれそうになった件ならば僕達の名前は分からないだろうし、家を燃やした件なら近隣住民の通報だろうから僕の名前は割れていても、愛海のことは分からないはずだ。つまり、市川での三件の殺人がバレたということだ。

 事件は通り魔が犯人ってことで片付かなかったのか。

 後ろからけたたましいサイレンが鳴り始める。角を何度も曲がり、車のスピードをあげられないようにする。適当な家の庭を横切り、反対側の道に出る。サイレンは依然として近い。パトカーが入って来られないような道を探していくと、山道に入っていた。それでも僕達は走り止めることをしなかった。雪は既に地面を真っ白に染め始めていた。

 「そろそろ止まろ」

 愛海の台詞に僕はようやく足を止めた。振り返ると大分山道を上ってきたみたいでサイレンの音は随分遠くから聞こえた。煙は見えない。

 「隠れる場所を探そう」

 息が上がっているが、焦る気持ちが少しでも遠くへと足を動かす。木々の中へと歩を進める。冬場なため虫はほとんどいない。枯葉を踏みしめる音だけが鳴る。しばらくすると小さな山小屋が見えた。鍵は壊れており、入ることが出来た。

 「今日はここに隠れよう」

 逃げるなら人気に混じった方が見つかり難いだろう。木を隠すなら森の中だ。明日は通勤時間を見計らってこの町を脱出しよう。小屋の中にはロープやら古いストーブなどが埃に塗れていた。汚いが雪と風を凌げるだけましだ。

 奥に行き、腰を落ち着けた。薄い壁な上、隙間風が入っているようで小屋の中は外とあまり変わらない寒さだ。風を諸に受けないだけ体感気温は随分変わっているだろう。

 身を寄せて落ち着き始めると、体の節々が悲鳴を上げ始めているのに気付いた。足の関節とふくらはぎが熱を帯びていた。そして何より金属バットを振った手が熱を発していた。

 手を気にして閉じ開きを繰り返していると「手、痛いの?」と愛海が手を握ってきた。白く柔らかい手。右手の薬指にはシルバーリングが輝いている。寒さで冷えていたがその冷たさが熱を帯びる手には心地良かった。しばらくすると熱を受け、愛海の掌は冷たさを失う。僕は掌に愛想尽かし、まだ冷たい細い指へと手を絡ました。すると愛海は僕と指を絡ませたまま自分の頬へと持っていった。冷たくて、柔らかくて、気持ちいい。僕はそのまま彼女の顔に手を這いずらした。指で唇を触り、鼻を触り、耳を摘まむ。くすぐったそうにする彼女に僕は人には言えない後ろめたい気持ちなった。

 愛海が寄りかかってきた。雪が解けて濡れた服が擦れる。床が軋んだ。

 「私怖いよ……」

 愛海が震えていた。人を平然と殺して、何事もなかったように振る舞っていたあの愛海が。背中に腕を回し、引き寄せる。こうやってまともに抱き合うのもいつ以来だろう。

 「僕も怖いよ、とてつもなく怖い」

 「誠、震えてる」

 「愛海だって震えてるじゃないか」

 思い返せば、こんなに尽くしてくれる愛海に僕は正面から向かい合ったことがあっただろうか。いつも僕は自分の気持ちばかり優先して押し付けてきた気がする。

 「愛海、ごめんね。いつもありがとう」

 僕がそう言うと「何、急に」と含み笑いをした。

 「こんな僕に付いて来てくれて、こんな僕と一緒にいてくれて……」

 「それはこっちの台詞だよ」

 愛海が頬を寄せてくる。湿った頬と濡れた頬が触れ合った。

 「愛海泣いてるの?」

 「それは誠でしょ」

 「これは雪が解けたからだよ」

 僕と愛海は全てを失って、互いの存在だけが唯一の拠り所になった。僕にとって彼女が、彼女にとって僕が自分のいるべき場所だ。今なら分かる。僕は彼女のためになら何だって出来る気がする。この顔を醜く変えることも、虫を食べることも、全身の骨を折る事も、人を殺すことも、愛海のためであるなら、自分の死だって厭わない。この強い気持ちが彼女を人殺しにさせた動機なのだろう。懐かしいこの強い気持ち。二年前の繰り返した日々を思い出す。

 「ねぇ、愛海? もしも願いが三つだけ叶うとしたら何を願う?」

 「また急に、どうしたの」

 「僕、何でも願いが三つまで叶う魔人の書ってのを持ってるんだ。それ使ってさ、二人で幸せになろ」

 これ以上のどん底があるというなら僕はそれを興味本位で見てみたいと思う。魔人の書を使ってこれ以上の不幸が僕に訪れるとは思えない。

 「ほんと? だったら……家族がほしいかな」

 きっと彼女はそんな都合の良いものを信じていないだろう。

 「そんなの僕がいるだろ」

 「そうだった。じゃあ私、誠がいれば何でもいいや」

 愛海は『誠くんと一緒ならどんなことにも耐えていけるし、どんな場所でも幸せでいられるから』と言ってくれた。それは僕だって同じだ。これ以上どんな不幸が訪れようとも、どんな災厄が訪れようとも、僕はここに愛海がいる限り幸せでいられる。

 「……じゃあさ庭付きの家に住むのはどう。ペットに犬を飼ってさ」

 「犬を飼うなら、子供も欲しいな。兄妹で仲の良い二人」

 「夏は庭でバーベキューをするんだ」

 「冬には暖炉に集まって皆で居眠りしたいな……」

 愛海が体を震わし、本格的に泣き始めた。その辛そうな声に僕も釣られ泣き出してしまう。僕を抱き締める愛海の力強くなる。

 「私達……間違えすぎちゃったね……」

 僕達は過ちを犯し過ぎた。この罪を僕達のちっぽけな一生では償い切れないだろう。それでも僕はその重荷を彼女と背負って、一緒に生きていきたい。

 僕達は、生きているのだから。

 「……愛してる」

 「私も、愛してる」

 あの普遍と惰性ばかりであくびが出る生活が今では輝いて見える。空っぽになった弁当箱、賑わう学生、つまらない光景を神秘的に染める夕日、またねという言葉。どれも、どれも、どれも、どれも、僕は何も感じず見過ごしてきた。ありきたりの日常が愛おしく思えるのは、それだけ僕はあの日々が気に入っていた証拠なのだろう。

 

 

 

 昨夜は疲れていたようで深い眠りについてしまった。小屋の周りの騒がしい気配に僕は目を覚ました。起床と同時に僕は自分の置かれている状況に困惑した。手がロープで柱に結ばれ、口にはガムテープが張られているようだった。

 何で僕は拘束されているんだ。

 「あ、誠おはよう」

 愛海は拘束されておらず、僕に向かって平然と挨拶をする。

 どういうことだこれは。愛海が僕を拘束したのか!? 何で!?

 小屋の外では雪を踏む音がいくつもする。警察に居場所がバレたのか。

 喋ろうにも喋れない。動こうにも動けない。

 「誠、ごめんね。でも私、誠のためなら何でも出来るの」

 愛海が鞄から包丁を取り出す。

 次の瞬間、小屋の扉が勢いよく開かれた。朝日が薄暗い小屋を照らす。宙に浮遊する埃が踊るのが見て取れた。狭い小屋にチョッキを着た警官が何人もなだれ込んできた。怒声の中、愛海は警官の波に呑まれていく。細い体が今にも折れそうだった。その内数人の警官は僕の所までやってくる。

 「怪我ないか? もう大丈夫だぞ」

 僕に掛けられた言葉は優しいものだった。

 僕に掛けられていたのは容疑じゃないのか!?

 「連続殺人の容疑者を確保!」「監禁されていたと思われる青年を確保しました!」

 警官の波の中に消えていく愛海の後ろ姿に、僕はようやく理解した。監禁したように見せることで愛海は全ての罪を被るつもりなんだ。何でそんなことをするんだ。一緒にいるんじゃなかったのかよ。

 ガムテープとロープが剥がされる。そして僕は走り出して手を伸ばす。

 「愛海! 待ってぇ!」

 警官に挟まれ大人しく歩いて行く彼女が、肩越しに僕を見る。昨晩の涙で赤く染めたその頬には涙が流れているように見えた。

 「落ち着いて! あぶないから!」

 警官が僕を取り囲む。

 「愛海! 愛海! 愛海ぃ!」

 伸ばした手は届かない。僕と愛海の距離は離れていく。

 嫌だ。こんなの嫌だ。彼女と一緒に居たいだけなのに、どうしてこんな小さな願いも叶わないんだ。

 「愛海!」

 僕が叫んだ瞬間、一発の銃声が鳴り響いた。全員の動きが止まる。

 「足頼さんの仇だぁああああ!」

 「やめろ! 尾方!」

 再び銃声が響いた。すると微かに見えていた愛海の体が大きく揺れた。残響の中、白い雪が赤く染まり、彼女は倒れる。

 僕の悲痛の叫びがこだました。

 

 

 7

 

 行く当てもなく、帰る場所もない。たった一つ残っていたものを失い、僕は途方にくれていた。もう嫌だ。死んでしまいたい。

 僕は歩く。当てもなく歩く。彼女との思い出に浸り、歩く。愛海が横にいる時には思い出せなかったものが浮かんでは消えていく。散歩道だった土手、駅に向かうために渡った踏切、僕の部屋だったマンション。気付くと大学にきてしまっていた。冬休み中なのか、人通りはほとんどない。僕が足を止めたのは噴水の前だった。愛海と初めてすれ違った場所。

 あの頃が懐かしい。

 魔人の書を開く。久しぶりに現れた魔人は僕の状況を知っているようで、普段の調子で挨拶をしてこなかった。

 「久しぶりだな魔人」

 「こんなタイミングで呼び出されるなんて、嫌な予感しかしませんよ」

 「二回も六十三億分の一に選ばれたツケが回ってきたみたいだ」

 「またやり直すんすね……愛海さんが救われるまで」

 「まさか、そんなこともうしないよ」

 「じゃあもしかして……!」

 「早まるなよ。死ぬ気もないさ」

 そう僕は死にたいけど、死ぬ勇気は持ち合わせていない。かと言ってまた愛海が救われるまでやり直す気もない。そもそも今回は初めから魔人の書は一度も使っていないのだ。変えることなんて出来ないんだ。

 『これは必然ってことっすよ』

 魔人の書がもう一度僕の前に現れた時、魔人はそう言った。前回と同じく、魔人は最初から答えを言っていたのだ。

 「じゃあ私に何を願うんすか」

 僕は愛海のためになら何だって出来る。

 「魔人、僕を」

 無から有を作りだすことは出来ない。失くしたものを再び手にすることは出来ないんだ。だったら、失くしたことをなかったことにすればいい。全ての元凶を断てばいいんだ。

 「この世界にいなかったことにしてくれ」

 魔人でさえも驚きを隠せないようだった。

 「そんな……! 何を考えてるんすか!」

 「僕が最初からいなかったことになれば、愛海が僕のために殺人を犯した事実もなくなる。そうすれば死んだ人達は死ななかったことになるだろ」

 「でも、それじゃあ旦那は」

 「いいんだ僕は。僕は罪を犯し過ぎた。償切れない罪を犯し過ぎた。それの報いなんだよこれは」

 愛海は僕のためにやってくれた。だから今度は僕が、君のためにする番。いや、違うな。これは自己満足だ。結局僕は自分のためにしか動けないかもしれない。自己否定をしたのも、少しでも自分に善意があると思うための偽善だったのかもしれない。それでも僕の行動が君のためになるのなら、僕はどんな報いも受けようと思う。

 「……旦那……」

 猿顔の魔人が大粒の涙を流し始める。

 「さぁ魔人、一つ目の願いだ。……僕を、いなかったことにしれくれ」

 魔人がゆっくりと右手を持ち上げると僕から目を逸らし、御得意の指を鳴らした。僕の体が光に還元され始める。粒子となった体が次第に溶けていく。

 「そうだ、もう一つ願いあったんだ。聞いてくれるか?」

 「……はい、なんでしょう……」

 「伝えたい言葉があるんだ」

 目が霞み、色を失い、光が消える。耳が遠く、聞こえなくなり、音が消える。感覚が消え、思考を失う。

 最後の思いが尾を引いて残る。

 君に出会えて、本当に良かった。

 


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