§12 ビオトープは利用してナンボ
ビオトープは、その地域本来の生態系を残す場所、だと説明しました。
つまり、そこに住む生物たちの営みが、自然のままの状態で回っていれば、それがもっとも本来の意味のビオトープに近い状態だと言えます。
でも、ここでよく勘違いをされる方がおられます。
『自然のままの状態=人の手が加わらない』
だと思われるようで、人が手を加えないのがビオトープだと考え、「ビオトープは荒れ果てた印象があるからダメ」だと言われるわけです。
実は、これはまったく違うのです。
順にお話ししていきましょう。
池を作っても、泥上げ作業をしないで放っておけば、そのうち埋まって陸になってしまう、というお話しは前項でいたしました。
しかし、変化するのはじつは池だけではありません。草むらを完全に放っておけば、場所にもよりますが二十年も経てば林になります。
ウソではありません。
最初の数年で枯れ草が肥料となってどんどん草丈が増し、その間から日当たりの好きな樹木が芽生え、それらが日陰を作ると、今度は草が減り、日陰でも生えられる樹木が目立ち始めます。
それでも何もしなければ、そのうち樹木が密生して林になっていきます。完全な森に変わるには、更に数十年の歳月が必要ですが、ある程度、林らしいものになるには、二十年程度あれば充分です。
もともと林であった場所も、放っておけば次第に林床の植物相が変わり、構成樹種も変化します。
完全に放置状態でも変化しないのは、極相林と呼ばれる、シイ・カシ・タブなどで構成された常緑樹林か、上流にダムがなく毎年洪水で攪乱される河川敷や、過酷な環境で植物が侵出しにくい砂丘や海岸線くらいのものです。
こうして生態系の様相が変化していく事を、『遷移』といい、その場所の最終的な遷移状態が前出の『極相』と呼ばれるわけです。
じゃあ、ビオトープってのは、池が湿地に、そして陸に変わり、草むらが茂みに、そして林に変わっていくのを放置すればいいのか? っていえば、まあ、それもアリではあるんでしょうが、やはり一定の状態で維持しておく方が周囲のコンセンサスは得られます。
何より、『極相』の状態より、遷移の途中の方が一般的に生物多様性は高いです。
何故なら、変わっていく途中の方が外から新しい種が侵入しやすく、そして一気に増えた植物などの資源を利用しやすいからです。
前項で書いたように、池が泥で埋まり始めると、生息できる生物が減っていくのと同じ事が、陸上でも起きるわけです。
つまり、池は池の状態に、草むらは草むらの状態に保つために、泥上げや草刈り、伐採をしていくわけで、そうすることでビオトープを創出時の状態に保ち、常に生物が活発に行き来する状態を作り出す事が出来ます。
でも、べつに毎年木を切り倒さなくても良いですし、草が全く生えないようにしょっちゅう草むしりしていたら、これもおかしいです。
ビオトープの遷移状態に合わせて、また、池や草むらの遷移状態に合わせて、泥上げの回数や、草の刈り方、木を残すか切り倒すか、考えていくのがビオトープの維持管理の眼目です。
これを『順応的管理』といい、毎年同じ時期に、まったく同じ事をやるわけではない、という風に考えてもらえばいいでしょう。もちろん、毎年同じ時期にする作業もありますが。
里山・里地の生物多様性の豊かさは、昔ながらの農作業や薪採りなどの生活活動が、そのまま『順応的管理』のリズムとなり、毎年一定のリセットが繰り返される事で維持されてきた生態系といえます。
もちろん、茅葺き用のススキ採取や、野焼き、ホダ木用のクヌギ伐採など、数年から十数年に一回繰り返される作業も中にはあり、それも順応的管理の一つである事は言うまでもありません。
さて、具体的に順応的管理を書きたいところですが、こればかりはどんな地域のどんな場所に、どんなタイプのビオトープを作ったか、そしてどんなビオトープとして維持していきたいか、によって変わります。
ですから、こうなったらこう、こうすればこうなる、的なマニュアルは書けないのです。
しかし、すべてに共通する大事なことがあります。
それは、ビオトープ管理のために作業する、というだけでは、なかなか継続は難しい、ということです。
ハッキリ言って、ビオトープを大事だと思うかどうかは、携わる人の価値観だけです。
ビオトープ作りに携わった人々が、自分の時間を削ってでもやろうとする間は良いですが、一年経ち、二年経ち、少しずつ熱が冷め、一人減り、二人減って、十年後に誰もいなくなってしまえば、それまでです。
ビオトープがあればいいな、程度の人は、重労働の泥上げなんてやりませんし、草刈りですらしないかも知れません。
では、どうすべきか。
泥上げや、草刈りそのものが、楽しみになればいいのです。
泥上げの際に、池干しを同時にやりますから、同時に観察会を開き、子供達に採れた生き物を観察してもらいます。また、スッポンやナマズ、フナ、あるいはマコモダケやヒシの実、ジュンサイなどを試食するのも楽しみになります。
そのへんの『雑草』と呼ばれる植物の中にも、山菜として食べる事の出来る植物も多々ありますから、草取りのついでに、それらを食べるイベントを開いても良いでしょう。
泥んこ相撲や泥んこ運動会を開き、周囲で獲れる農作物などと一緒に、収穫祭的なイベントにして恒例化すれば、更に楽しみも増えます。
もちろん、上げた泥や水草を肥料として持ち帰ってもらうのも手です。
刈草を積み上げておき、そこに発生したカブトムシの幼虫を、子供達に配るイベントを開いても良いでしょう。草取りを手伝った人に配る事にして、配った後に、また来年のために刈った草を積むわけです。
これらを地元新聞社などに取り上げてもらって、記事になる事で張り合いを感じる人もいるでしょう。
今挙げたこれらがすべて、というわけではありません。
大切なのは、ビオトープ活動そのものだけではなく、地元の人間活動と連動したものにしていくことです。そうしないと、マンネリ化して気持ちが冷めたり、ビオトープよりも重要な事件が発生したり、携わっていた人がいなくなったりした場合、極めて簡単にビオトープは放置されます。
そうなったビオトープを私はたくさん知っていますし、それはそれで仕方のない事だとも思います。
あるビオトープなどは、中心人物が交通事故で亡くなってしまい、その後、誰も地元をまとめなくなってしまったため、完全に放置状態です。
山際にあったため、イノシシが池を泥浴び場にし、ザリガニが殖えていたのでそれを食い、水管理がされていないので何度か干上がってメダカは全滅。草むらだった陸場は林になり、鬱蒼として誰も踏み込めない空間へと変貌してしまいました。
もちろん、イノシシが来ようともビオトープに変わりはないわけです。たとえ放置されていても、そこがビオトープとして存在し続ければいいのですが、ひどい例では、埋め立てられて芝生にされたり、都合で完全に撤去されたりもします。
そうならないためには、やはり立ち上げの時に騒ぐだけではなく、継続的な管理を目標として『ビオトープを利用する』という方向を失わないようにしていただきたい、と思います。