善良な旅人
「あ、先生!町が見えてきましたよ」
そう言うと彼女は、地平線の彼方を指差した。
確かに、遠くの方に沢山の家が見える。
ビュウッ
強い風が吹いて、飛ばされそうになる帽子を片手で押さえながら歩く。風が頬を切り裂きそうなほど冷たい。
「マミくん」
前へ進んでしまった教え子に大きな声で呼び掛けると、彼女は笑顔で振り返った。
「今度こそ思い出せると良いですね!」
一か月前、私は目覚めると、自分が誰なのか分からなかった。
「心理的なショックによる一時的なものですかね…」
と医者は言った。曰く、いつ思い出せるかは分からないとのこと。
私には身寄りがいなかった。だから、自分の名前を告げられたところで、「ああそうですか」程度の感想しか出てこない。日常的に呼ばれるという意識がないのだ。
何なら悪い思い出でもあるのだろうか、名前を呼ばれると少し不快だった。
「先生!」
記憶喪失になった次の日、結城マミと名乗る若い女の子が部屋を訪れた。
「えっと…?」
「本当に、忘れちゃったんですね」
彼女は悲しそうな顔をすると、私に抱きついてこう言った。
「あたし、先生の記憶を取り戻すの手伝います!」
彼女は私の教え子だという。
「先生は大学で心理学の教授をしていたんですよ」
似たようなことを医者からも言われたが、さっぱり思い出せない。
「先生はあたしの恩人です。だから、出来ることは何でもしますよ!」
彼女は良い子だった。あれこれ尋ねる私に、嫌な顔ひとつせずに教えてくれた。
「そうだ、先生は旅行が趣味だったんですよ。今まで旅をしたところを巡れば、何か思い出せるかもしれません!」
…旅。
私が、好きだった?あまりそういった実感はない。記憶が無いと、不思議な感覚に陥る。
「許可、取っておきました!」
彼女はもとよりその気だったようで、私にその話をした後すぐに許可を取りに行った。
「一か月で帰ってくること」が条件なんだとか。まあ、一応怪我人?だからね。そう長く旅をするのも負担が大きい。
「特例ですからね」
と医者は言っていた。
そういうわけで、私は彼女と旅を始めたのだ。
「旅の人かい?珍しいね、こんな町に」
宿屋の女将さんは帳簿を付けながら私たちをちらりと見た。
「一部屋を三泊で」
「…親子かい?」
「いえ、あたし、先生の教え子で。過去にフィールドワークしたところを巡っているんです」
「ふうん。まあ、あまり長居して楽しいような場所でもないけれどね。三泊で良いのかい?」
「ええ」
彼女はそう言うと、無邪気に女将さんに笑いかけた。
「同じ部屋でいいのかい?」
私は尋ねた。
「前の町でもそうだったじゃないですか。それに、変に勘繰られるような関係でもありませんし」
彼女はさも当たり前かのように返す。
「そうだが…親御さんとか、心配しないかい?」
そう言った瞬間、彼女はバッと何とも言えない形相で私を見上げた。
「…いえ。両親とは死別していますし」
「そうなのか」
知らなかった、というか、私の場合、忘れていた、というのが正しいのだろうか。それは悪いことを聞いてしまった。
「…一部屋でいいかい?」
女将さんが痺れを切らしたように尋ねた。
「あ、ええ」
私は慌てて返事をする。
「はい、これが鍵だよ。部屋は一階の突き当たりね」
女将さんは錆びた鍵をジャラリと手渡し、私が受け取った。手のひらにずしりと重さを感じる。
ミシミシと一歩ごとに廊下が軋む。
「さっきはすまなかったね」
私が謝ると、マミくんは扉を開けながらにっこり笑った。
「いえ。もう心の整理はついているんです」
そういうものか。記憶のない私にはいまいち分からない。
「それでも、触れて欲しくないようだったから」
私は心理学者だったというのに、人の気持ちなどというものに疎くなってしまったようだ。申し訳ないと思った。
ギィー
扉が軋みながら開く。
「結構広い部屋ですね!」
とマミくんが言って振り返った。
「ああ」
私も同意する。部屋は存外広かった。
彼女はボストンバックを部屋の机の上にどかっと置いた。
「もうすぐ旅も終わりですね」
彼女がぽつりと言った。
「そうだな…何か、申し訳ない」
これまでの旅で、何も思い出さなかった。一か月も同行してくれたマミくんに申し訳ないと共に、一生こうなのかな、という不安がしばしば過る。
「きっと思い出せますよ」
マミくんはそう言うといつもの笑顔で笑った。
「それでは、おやすみなさい」
ベッドに寝転がり、ふと考える。
そもそも私は、どんな研究をしていたのだろう?それに、今は教授ではないようなのは何故?考えれば考えるほど疑問が湧いてくる。
記憶が無いというのは、あやふやで、自分の存在が不思議になってくるのだ。この状態に不安を感じないと言ったら嘘になる。
…そんなことを考えているうちに、私は眠りに落ちたのだった。
『そうか…君はもう、手遅れなんだね…』
血塗れの手が、こちらに向かって伸びてくる。
『うわぁっ』
違う。違う違うちがうちがうちがう!!
私はただ、それを拒絶することしか出来なかったんだ──!
「──はっ」
目覚めると、知らない天井だった。
「先生?」
にっこり笑ったマミくんがこちらに近づいて来る。
「うなされていたみたいですけど…悪夢でも見ましたか?」
「ハアッ、ハアッ」
息が荒い。思わず彼女の手を振り払ってしまった。暗い室内で、彼女の目が少し細くなる。
「もしかして何か、思い出したことでも…?」
荒い息を整え、彼女を見上げた。
「い、いや…ただの…悪い夢だよ」
「そうなら良いんですけど」
「起こしてすまなかったね、おやすみなさい」
平常心を自分に言い聞かせて、その日はまた眠りについた。
そうだ、あれはただの悪夢だ…。
次の日起きると、マミくんはもう既に起きており、身支度をしていた。
「今日は、先生の元職場に行きましょう」
珍しく彼女の顔には笑顔がなかった。
「私は、そこをクビになったのかい?」
歩きながら、マミくんに尋ねる。
「ある意味そうとも言えるかもしれませんね」
マミくんはこちらを振り向かずに答えた。
「──事件が、あったんですよ」
マミくんに連れてこられた場所は、ある廃墟だった。中に入ると、電気が通っていないので薄暗く、デスクや椅子、パソコンが放置されていた。
「ここで、ある研究者夫婦と、学生が三人、殺されました」
マミくんが言った。声には怒りと悲しみが滲み出ている。
「それは…」
なんと凄惨な事件だろう。…私の記憶喪失もそのせいなんだろうか。
『先生!』
ふと、ある情景が浮かんだ。若い白衣を来た男性が、こちらを向いている。
「石沼くん」
気が付くとその名が口から出ていた。言ってから、ふと口を押さえる。
「え?」
マミくんが振り返った。
「いや…」
その場を見渡し、暗い室内に残された机たちを見ると、不思議なことに、次々と生徒達の面影を感じられた。
「佐藤くん、三ノ輪くん…」
そして…一歩ずつ進む。
まるでノートのページがパラパラとめくれるように、記憶が、蘇ってきた。
「迫田…」
マミくんがバッと振り返った。
「確かに、ここは私たちの研究室だった…」
私が呟くと、マミくんが言った。
「思い出して下さい」
思い出す…何を?
ふと、あることに気が付いた。
結城マミなんて生徒は、いなかった。
「君は…誰なんだい」
マミくんは答えなかった。
「そうだ、迫田には娘が居たな…」
マミくんはじっと私を見つめていた。
マミくんを見ると、迫田たちの面影を思い出す。確かに、マミくんは迫田の娘…
『先生!』
小さな女の子が私に呼び掛けていた。
『なんだい』
「待て、私は…その事件を、よく知っている」
「思い出すまで…この部屋からは出られないわ」
マミくんは部屋の鍵をカチャリと閉めた。
「あぁ…」
私は目を閉じて上に顔を向けた。
「拝金主義の研究者夫婦が殺された事件だな…小娘」
全て──思い出した。
「…ふ、ははは」
私の口から、乾いた笑いが漏れた。 ゆっくりと目を開け、正面に佇むマミくん──いや、迫田の娘を見据える。
視界が、驚くほどクリアだった。脳にかかっていたあの忌々しい霞のようなものは完全に消え去り、自分の内側に、冷徹で、強固な【私自身】が戻ってくるのを感じる。
「思い出したの…?」
小娘が私を怯えた目で見る。
「思い出した、というよりかはお前が思い出させたんだ、違うか?」
私は椅子にどかりと座った。
「講義を始めよう」
顎で座るよう小娘に指図する。
「っ…」
「昔はよくこうやって講義をしたものだ」
私は足を組んでその上に手を乗せた。
「お前が知りたいのは、『なぜ私が迫田教授夫妻を殺したのか』、つまり事件の動機だな」
コンコン、と机を叩きながら話し始める。
「単純な話だ。私は学びを愛し、彼らは金の方が好きだった──それだけだ」
「どういうこと?お父さんたちは立派な研究者だった!」
「横領があったのさ。彼らは私に罪を押し付けるだけでなく、罪を被るように懇願してきた」
『お願いだ。まだ娘も幼い。金は渡す。だから…』
『実にありきたりだな』
私はふん、と鼻を鳴らして彼らを見つめた。
『もう少し魅力的な言い分ならば、協力してやらんこともなかった。だが…お前らは私を疎んでいただろう?あまりにも都合が良く、つまらない』
『…お前ならそう言うと思ったさ』
すると彼は包丁を持ち出し、その刃先を私に向けたのだ。
『おや、短絡的だな』
『いつまで余裕ぶっていられるかな』
彼は単調に包丁を振り回した。
だから私は、その包丁を奪って彼を返り討ちにしたのだ。
『うっ…』
『きゃああー!』
『おや、やるならやられるという想定もしないと。そうか、また良いデータが取れた』
私はふと、このまま妻の方も刺してしまうのも悪くはない、と思った。
『教授…?』
そこに学生が三人、入ってきた。
『何をしているんですか?』
『おや、そういえば君たちも横領の一部を懐に入れていたね…?君たちも私を排除する計画に動いていたのかな?』
すると、穏やかだった学生たちの顔がキッと険しくなった。
『だったら何だよ?』
『そうだ、金が必要だったんだ』
『邪魔な教授も排除できて、一石二鳥だろ?』
そして私はそれらを聴くと──ある決意をしたのだ。
『また良いデータが取れるな…』
「──と、いうことさ」
私は小娘の方を見た。
「知りたがっていたことはわかったかい?」
「ええ…存分に」
小娘は小さな声で答えた。
「それなら良かったよ」
私は微笑んだ。小娘は憎悪のこもった顔をして、私を睨みつけている。
「では、帰ろうか」
そして、私が後ろを向いたその時──何か不思議な感触がした。
「何を…」
後ろを振り返る。背中には包丁が突き刺さっていた。
「許せなかった…あんただけが全てを忘れるなんて。全て思い出させてから、復讐する機会を待ってたのよ!」
小娘は涙を流しながら包丁を握りしめていた。
「それで…感想は?」
私は尋ねた。
小娘は驚いたように目を丸くして、再び顔を歪ませた。
「この…人殺し」
それを聞いて、私は思わず笑った。
「何よ…っ」
小娘が睨む。
「やはり人間は面白い…」
意識が遠のいていくのを感じながら、私はそう呟いた。
…残念だ。
人生をもっと違うことに見出せなかったものか…
※※※
「──いやはや、そうして愚かにもまんまと騙された訳だ」
そう言って高笑いする男に、医者は恐れを抱いた。
「記憶喪失というのは、何とも奇妙な体験だ。何せ、自分でも知らない自身を見ることができるんだからね…まあ、記憶が戻ると同時に入れ替わるかのように一か月の記憶も失くなってしまった訳だけれど」
男は足を組み、ペラリと紙の束をめくった。
「迫田の娘も、大人しく暮らしていた方が幸せだっただろうに」
そして薄ら笑いを浮かべる。
「それにしても、『善良な人間』、ね」
報告書の文字をなぞる。
「臆病さは、同時に善良さにも繋がる…なるほど、我ながら良いデータが取れた」
そして男は部屋を出ていった。
パサリと机の上に投げ出された報告書の一番上には、こう書かれてあった。
【記憶喪失の時、つまり旅の間、受刑者Aは『善良な人間』そのものだった】
読んでいただきありがとうございました!
いかがでしたでしょうか?
感想、ブクマなど、お待ちしています!




