旦那様が他人に「ありがとう」と言う姿を見て、家出をする私の話
書き殴ったので誤字多かったらすみません、、
旦那様とは政略結婚だった。愛はないと覚悟していたし、身分差もすごくあって、私がたくさんのことを諦めて我慢しなければいけないのはわかってた。
わかってはいた。
「あのっ、落としましたよ」
「……ああ、ありがとう」
でも、私には決して言わない感謝の言葉を、他家の使用人に微笑みながら言っているのを見て、私の心はポッキリと折れた。
「旦那様、私、帰ります。すみません。旦那様は引き続きお楽しみください」
「えっちょ、アテナ!」
旦那様の戸惑う声がしたけど、振り返らずに走って馬車に飛び乗った。
屋敷に戻ってお風呂に入って着替えた。使用人が用意してくれた夜着に着替えて、部屋で一人になった後に旅装に着替える。
「一応、手紙は置いていこう」
ーー数日家を空けます。必ず帰るのでご心配なく。
行き先は決めてないので書かない。まあ旦那様は私が数日不在にしても困ることはないだろう。
窓を開け、柵に足をかけ飛び降りた。問題なく着地できる高さなのは確認済み。普段から「もし仮にこの家から誰にもバレずに出ていくならどうするか」という妄想をしておいてよかった。
単なる趣味でついどこへ行ってもそういうことを考えていたけれど実際に役に立つ時が来るとは。
「ララ、久しぶりに思い切り走ろう」
家族の反対を押し切って嫁入りとともに連れてきた愛馬に声をかける。彼女は嬉しいと言わんばかりに首を振り、私を背中に乗せてくれた。
「いこう!行き先は任せる。好きに走って」
合図すれば彼女は柵を飛び越え森の方へと駆け出した。
***
私と旦那様が結婚したのはおそらく政略結婚によるものだ。
旦那様は侯爵家の嫡男で、王都では有名人だったらしい。王都の学園を主席で卒業しているし、見た目も美しく気品がある。今は王宮で陛下の側近をしながら侯爵家の仕事もこなしている。超人みたいな人だ。
求婚されるまでお互いに面識はなかった。
だって私は地方の小さな子爵家だ。
兄は作物の育ちにくい領地で育つ植物を見つけるために常に畑仕事をしていたし、私も家の家計を支えるために冒険者をしていた。
妹は社交が上手だから近所の小さなお茶会に参加しては、領地の特産品の販路を広げてくれたりする。
まあ要するに貴族にしては貧乏な子爵家だ。
毎日をやりくりして小さく暮らしていたところ、ある日突然侯爵家から求婚状が届いたのだ。
間違いかと思って確認したけれど間違いではなかった。家族全員が信じられずに右往左往しているところに旦那様本人がやってきて、正式に求婚された。
その時、彼は私に求婚の理由を言わなかった。
でも初対面だし、貧乏な子爵家の、しかも冒険者をしているような娘だし、パーティなんて参加したことがない。見初められる理由がない。
だから侯爵家のなにがしかの事情による政略結婚だろうと結論づけた。
実際、結婚後は侯爵家から子爵家へ多少の支援をしてもらっている。多額のお金、とかではなく兄の研究費の支援と特産品を侯爵家の持つ店舗から売り出してもらっている。
おかげで子爵家は私がいた頃より随分安定したらしい。感謝しかない。
旦那様のことは尊敬しているし、政略結婚である以上愛なんて求めるつもりはない。侯爵家に嫁ぎ、侯爵家の方針に従う。そのつもりだった。
それなのに私がこうして家を飛び出してしまったのは、ひとえに侯爵家に嫁ぐと言うことがどういうことなのかわかっていなかったことと、覚悟がたりなかったことが理由だと思う。
***
「ララ、もう随分走ったでしょ。家から十分に離れたからゆっくりでいいよ」
ぽんぽんと叩いてやれば少し歩みを緩めた。
ララは私が冒険者の時からのパートナーだ。気象の荒い雌馬なのだと紹介されたけど、私たちは一目見た時から気が合った。
「久しぶりに野宿しよう」
そう語りかければララは野宿しやすい場所まで導いてくれる。本当に賢い子。
侯爵家を飛び出す時、冒険者の頃に使っていた一式を持ってきた。この荷物とララがいれば、私はどこでも生きていける。
魔道具で周囲の気配を確認して、火を起こし、ララに背中を預けて眠った。夜の森の中は案外うるさい。特に今は春だ。
いろんな虫たちが鳴いているし、風が吹くたびに気が揺れる音もする。遠くで獣が動く気配だってする。
侯爵邸の寝室よりずっと騒がしい。でも私はこの音が好きだ。
硬い大地。柔らかい馬の体。森の生き物たちの音。
嫁いでから今までの間、正直言えばずっとこの感触が恋しかった。
「癒される……。おやすみ、ララ」
この家出が終わったら。また多分頑張れるから。少しだけこの旅路を楽しもう。そう決意して眠った。
**
一方侯爵邸では、当主でありアテネの夫であるユークリッド・フェローが荒れに荒れていた。
「アテネの行方は?」
「ある程度まで方角は絞れていますが、その先はまだです。ララは駿馬ですし夫人自身も元手練れの冒険者です、追いつくのは難しいかと」
「行き先の候補は絞れたか」
「現時点ではなんとも。ですがご実家がもっとも確率が高いでしょう」
「手紙を書く。明日の朝一で届けてくれ」
「承知しました」
侯爵家の抱える騎士団団長が部屋を出ていったのを確認するとユークリッドは頭を抱えた。
結婚後にアテネに我慢を強いていたのはわかっていた。
もともと彼女は自由な人だ。貴族らしさを持たない。自然豊かな田舎でのびのびと暮らす姿に心を奪われた。
自分が好いてしまったばかりに、彼女は冒険者を辞めた。遠乗りだって自分が同席できない時には禁じた。
そして彼女は次第に元気を無くしていった。
好きだった飾らない姿を自分の手で無くしてしまった。今彼女は貼り付けたような笑みしか浮かべない。その笑みも不器用に歪んでいる。
その表情が愛おしくもあり、苦しくもある。
だから彼女が出ていくのは時間の問題だった。
でも手放すことはできない。
もう一度地図と彼女の経歴をまとめた書類を手に取り、彼女の行きそうな場所を考えた。
***
初日に野営して、結局遠回りをしながら実家へ帰ることに決めた。元々仕事以外で領地を出ることのなかった私に思い入れのある場所はなかった。
せっかくなのでうんと遠回りをしながら子爵家に帰り、顔を見せたら侯爵家に帰ることにした。
小さな町や村を経由して、時には冒険者をしていた頃のようにギルドの依頼に上がらないような困りごとを解決したりした。
畑に現れる魔物を討伐して欲しいとか、柵が壊れたとか、薬草採取の護衛をしてほしいとか、そういう些細なものだ。
彼らの望みを叶えるとみんな「ありがとう」と感謝をしてくれた。
私も私で、あえて野営をしたり、狩りをしたり、釣りをしたり、景色の綺麗な丘に登ってみたり。冒険者だった頃にやっていたことをしながらのんびり子爵家へ向かった。
ララは久しぶりに私と旅ができて満足そうだ。屋敷で大人しくしている生活は彼女にとって退屈だったと思う。
この家出が終わって侯爵家に戻ったら、なんとかお願いしてもう少しララと出かけられるようにしてもらおう。もしダメだったら今回みたいに定期的にこっそり脱走しようかな。
丘を超えると子爵家が見えた。貴族にしては小さい家だ。丘の上から洗濯物が見える。
そういえば帰ると一言も告げてなかったことを今になって思い出す。驚くとは思うけどまあきっとみんな受け入れてくれるだろう。そういう人たちだ。
「ただいま」
「まあ、アテネおかえり」
「おかえりなさい」
「お姉ちゃん!」
ララから降りて門を潜れば、庭でお茶をしていた母と義姉と妹が私を歓迎してくれた。私を見るなり席を立ち、妹は胸に飛び込んでくる。
やっぱりみんな特に驚かない。そう言えば冒険者だったころも適当に帰ってきて適当に居なくなる生活だったもんなあ。
「ふふ、お姉ちゃんだ! お帰りなさい」
「ただいま、ミレイユ」
可愛い妹の頭を撫でて抱きしめてやると、うふふと言いながら胸に顔を埋める。可愛い。
「こらミレイユ、独り占めしないの」
母がミレイユを優しく引き剥がして、私と抱き合う。すぐに離れて次は義姉とも抱き合う。これは我が家の挨拶だ。ただいまとおかえりは必ずお互いを抱きしめる。たとえひどい喧嘩をしていても、この挨拶だけは必ず行う決まり。
私はこの挨拶が好きだ。
「おかえりアテネ。ララ、厩に戻ってなさい。アテネお昼は食べた?」
「隣町で食べてきた」
「そう。じゃあ夕飯は一緒に食べましょう。それまでミレイユと遊んであげて。この子はあなたに会いたくて家を飛び出す勢いだったんだから」
「ママ、バラさないで! 子ども扱いしないで!」
「アテネに比べたらあなたは赤ちゃんみたいなものでしょう」
「リリーはこのあとブランと合流するのよね。あの子にアテネが帰ってきたことを伝えてくれる?」
「はい、伝えておきます」
「母さん、これお土産」
道中で狩ってきたうさぎ数匹を渡す。
「お土産に狩ってきた肉を渡すのはお前くらいですよ」
「褒めてる?」
「変わらないようでなにより。ほら、行くわよ」
妹に手を引かれ、義姉に背中を押されながら屋敷に入っていく。この賑やかな感じは久しぶりだなあ。
家の中に入り、旅の汚れを落とすために風呂に入れられた。義姉が最近作ったらしい、いい香りの石鹸で全身を洗った。
屋敷に戻ってお風呂に入ると、冒険者から貴族の娘に戻る気がする。昔からそうだ。切り替えスイッチのようなものなんだと思う。
お風呂から上がると妹が待ち構えていて、頭の乾かないうちから妹の部屋に連れて行かれて私が嫁いだ後の子爵家についてたくさん話してくれた。
義姉が石鹸を作って、それをお茶会に持ち込んだら大人気で今売り出す準備中だとか、兄が昔からやっていた作物の品種改良の結果が少しずつ出てきて、今年の冬は心配しなくて良さそうだとか、私が居なくなったから森に鹿が増えてしまったから一度ギルドに依頼して鹿狩りをしてもらったとか、父が一度腰を痛めて一週間寝たきりになったとか、母が最近ついに刺繍を完成させたとか、そういう日常の話を聞いた。
話を聞いた後は庭を少し散歩して、兄の畑と母の刺繍を見せてもらった。母は今まで刺繍をしたことがなかった。三人の子育てとぎりぎりの家計をやりくりするのに精一杯でそんな暇がなかったのだ。
刺繍をしてみたいとは以前から呟いていた。最近家に余裕が出てきてやっと刺繍ができるようになったらしい。初めての刺繍は庭に咲いている薔薇だった。
「お姉ちゃん、夕飯の支度ができたって。行こ!」
「うん」
ぐいぐいと手を引かれてダイニングルームに行けば兄と父が帰ってきていた。二人とも今日は領地に出かけていたらしい。二人とも抱き合う。
「アテネ、元気に過ごしていたか?」
「うん、元気」
「ならよろしい」
そういえばなぜ帰ってきたのか誰にも聞かれていない気がする。そろそろ私の限界がきて帰ってくるだろうってみんなわかってたのかな。私がじっと座っていられるタイプじゃないのもわかっているから。
私が帰ってきても誰も驚かなかったし。
「アテネ、実は俺の客人が一階の奥の部屋に泊まっているからあそこには入らないようにしてくれ」
「うん。……うん? お客さんいるのに帰ってきて大丈夫だった?」
「いや、大丈夫。むしろいてくれ」
「わかった」
「アテネの部屋はちゃんと残してあるから、そこを使ってちょうだい」
「うん」
どうやら珍しく我が家には客人がいるらしい。
帰ってきてから客人の気配がなかったので気づかなかった。
というか、客人がいるのにそっちのけで家族団欒して大丈夫だろうか。普通はこう、客人をもてなすような食事になるもんじゃないの?
大丈夫かな、もてなす側として。
でも家族みんな気にしている様子がないから大丈夫なんだろう。それくらい気を遣わなくて良い相手ってことは誰かの友人とかなのかな。
食事が終わったら順番にお風呂に入った。私ももう一度入ってダイニングに戻ると母が一人でワインを飲んでいた。
昔からの日課だ。母はワインが好きでちょっといいことがあった日にはワインを飲んでいる。私が帰ってきたから飲んでるんだろう。そう思うと嬉しい。
「アテネもいらっしゃい」
「うん」
手招きされるがままに隣に座った。
「侯爵家での生活は辛くない?」
二人きりになってようやく侯爵家での暮らしについて触れられた。
「うーん、辛くはないと思う」
「侯爵様はどんな人?」
「いい人だよ」
「じゃあどうして帰ってきたの? きっと飛び出してきたんでしょう?」
「え、わかる?」
「当たり前でしょう。どうみても準備して帰省してきた見た目じゃなかったじゃない」
「それもそっか」
確かに侯爵家から帰省するのに冒険者の格好では帰ってこないか。
「なんか嫌なことでもあったの?」
「うーん、自分でもちょっと言葉にするのが難しくて、最初から話していい? 長くなるんだけど」
「もちろん」
母からワインの入ったグラスを差し出され、一口だけ飲むと出ていくまでの経緯を話した。
***
これと言って何か、決定的に嫌なことがあったわけではないと思う。
私の旦那様は最初から今に至るまでずっと優しい。私の方が身分もずっと低いのに対等に、奥様として扱ってくれた。忙しい人だからあまりしっかり時間をとって過ごすことはできないけど、毎日同じベッドで眠るだとか、できる限り食事は一緒にとるだとか、できる限りのことはしてくれる。
子爵家では嫁ぐまで冒険者として活動をしていて、自分のことは自分でやっていたし、どちらかといえば忙しい生活だったから、侯爵家での生活はすごく暇だった。
だから嫁いですぐに侯爵様にお願いして家庭教師にきてもらうことにした。自分に淑女としての教育が足りていないのはわかっていたから。
それを恥じたことはないけど、侯爵家の奥様となる以上は必要なことだから。
家庭教師としてきてくれたのは、ラニ伯爵夫人だった。
古い家門の貴族で、佇まいから気品にあふれたご夫人だ。この人に毎日貴族として必要な教養とマナーを教わった。
あまり人前で感情を顔に出すものではありません。
嗜みとして刺繍を覚えましょう。
馬の世話などしてはいけません。
剣を握るなど言語道断です。
お茶の種類を覚えましょう。美しい字を書けるようになりましょう。
無闇に異性に触れてはいけません。
夫人は淑女になるなら当然のことを言っている。それはわかっている。
それにに悪意があって言ってるわけでもない。伝え方も優しいと思うし、本当に善意で言ってくれている。
周りの貴族令嬢たちをみてもわかる。普通は私のような人はいない。
「自分で家庭教師をお願いしたし、そうあるべきなのは分かってるから頑張ったんだけど、なんか自分に嘘ついている気がしちゃってさ。淑女は剣を握らないのはわかるけど、じゃあ今までの自分ってなんなんだろとか柄にもなく思ったりしたんだよねえ」
そういうマイナス感情が出てくるのは良くない傾向だから、せめてララとどこかへ気晴らしに出かけようかと思ったら、侯爵様から自分と一緒でなければダメだと言われてしまった。
私はその時、今すぐどこかへ行きたかった。
わがまま言っている自覚もあったし、確かに自分一人で遠乗りに行ったら護衛の手配とか色々大変なのはわかるし。本当は護衛なんていらないけどそんなこと言えるわけもないし。
「せめて誰か気楽に話せる人がいたら良かったんだけど、まだ仲のいい使用人もいないんだよね。旦那様は優しい人だけど、あまり話す機会がないし、腹を割って話したことはまだないし、今の所結構事務的だし、仕方ないけどさ」
そんな状態だったから、ある夜会で旦那様がハンカチを拾ってくれた使用人に「ありがとう」って言ったのをみたら、なんかぷつんと切れてしまった。
「寂しかったのかな?ほら、この家っていつもみんな一緒にいて、日常の些細なことも全部曝け出して、気軽に抱き合うし、キスもするじゃん?
別に旦那様から好きだとか愛しているだとか、そういう情熱的な言葉が欲しいわけじゃないんだけど、そういえば「ありがとう」とか、そういう言葉さえもしばらく言われてないなって思ったら、今までのちょっとしたものが全部雪崩れ込んできて気づいたら家を飛び出してたわ」
だからここに帰ってくるまで我慢していたことを全部やった。ララと思い切り走って、剣を振って、自然を感じた。
「まあ要は子爵家と侯爵家の育ちの差?にびっくりしちゃったみたい。でも大丈夫、ここ数日でだいぶスッキリしたから、帰ったらまた頑張れると思う」
「アテネ」
「うん?」
母は立ち上がると私を思い切り抱きしめた。
「あなたはいつも自分で人生を決めて、決めた通りにやり抜く子だけど、たまには人を頼りなさい」
「人を頼るって?」
「侯爵様にちゃんと自分の心情を説明しなさい。じゃないとあなたまたそのうちパンクして家出するわよ」
「話聞く暇あるかな」
「そんなもの作らせればいいのよ」
「でも政略結婚の妻にそこまでさせるのも」
「……え?」
「え、なに」
「なにってあんた、政略結婚だと思ってたの?」
「違うの?」
母はそれはもう深く長いため息をついた。
「確かに、誰もあなたに言ってなかったわね。あのね、侯爵様はアテネのことが好きだから求婚してきたの」
「え?」
「昔会ったことあるんですって」
「身に覚えがない」
「これはいよいよ本当にあなたたちは会話が必要だわ……」
はあともう一度ため息を吐かれた。手のかかる娘で申し訳ない。
「あなたの心情は分かった。辛かったと思う。でも私じゃそれを解決してあげられない。だから一度侯爵様とお話ししてみなさい。……で、それでも解決しなければ何度だって帰ってきて良いわ。私たちは何度でもあなたを歓迎するから」
「……ほんと?」
「嘘なわけないでしょう。あなた本当に弱ってるのね。今日はミレイユと寝なさい。そんで思い切り甘やかしてもらいなさい。あの子甘えるのも上手だけど甘やかすのも上手いから」
「そうだね」
「どんなことがあっても私たちはアテネの味方だし、何があってもここはあなたの帰ってくる場所よ。そう思えば少しは楽にならない?」
「……なるかも」
「そうでしょう。もし万が一アテネが離婚して出戻りしてもだれもあなたを邪魔だとは思わないから安心しなさい。まあ、たくさん鹿狩りはしてもらうけれど」
「ふふ、任せて」
ふふ、と笑うと母は少し安心したように微笑んだ。
その後も少しだけ二人で晩酌をして、それぞれの寝室へ別れた。
私は母の勧め通り、ミレイユの寝室へ行き、すでに眠ってる妹の横へ潜り込んだ。少しだけ目を覚まして微笑むと、可愛い妹は私を優しく抱きしめてくれた。
***
次の日、朝食を食べて侯爵家へ帰ろうと思っていたところ母に呼び止められる。
「アテネ、あなたに渡したいものがあるから部屋で待っててくれる?」
「え、何?」
「流石に里帰りしたのに手ぶらで返すわけには行かないでしょう。リリーの石鹸とか色々持たせるからちょっと待ってなさい」
「わかった。でもララが運べる分だけだから大した量は持っていけないよ」
「はいはい」
いそいそと庭へ向かう母を見送り、私は自分の部屋に向かう。私と母以外のみんなは早々に仕事にとりかかってるみたいだ。屋敷の中に人の気配がなかった。
昨日はなんだかんだほとんどミレイユの部屋で過ごしたから、自分の部屋で本でも読むかとドアを開ける。
「え? 旦那様、うわぁ!」
自室の部屋を開けるとなぜかそこには旦那様がいた。
なんでいるの?と訳がわからず立ち尽くしていると、ずんずんとこっちに向かってきて思い切り抱きしめられた。
ぎゅうと音がしそうなくらい強い力で抱きしめられる。
「すまなかった」
「いや、えと、ええ? なぜここに?」
「君が家を出た次の日からここに滞在している」
「え!? なぜ、誰もそんなこと一言も……」
「私が頼んだんだ。君がここで生活する姿を見たかったから」
なぜそんな姿を。
もしかして昨日言っていた客人というのは旦那様のことだったんだろうか。というか侯爵家の人がこんなアットホームな子爵家に数日滞在して大丈夫だっただろうか。
私が家を出てから子爵家に辿り着くまで、結構な日付が経っている。思い切り遠回りをしてしまったから。仕事は大丈夫かしら。
急に現れた伴侶に困惑するばかりである。
ええと、あの、その、と声が出るが、旦那様は抱きしめたまま直立している。
「……とりあえず、座りませんか」
「……そうだな」
名残惜しそうにゆっくりと体を離して手を引かれる。ソファに座ろうかとしていたら急に手を引かれて旦那様の膝の上に乗り上げた。
慌てて降りようとしたところ、腕を回されがっつりとホールドされる。
「あの、合っていますかこの体制」
「合っている」
合ってるんだ…。
「アテネ」
「はい」
「……私は君を愛している」
「え」
「好きだ。愛している。……それから、侯爵家に嫁いできてくれてありがとう」
「えっと……?」
「それから、君が悩んでいることに気づかなくてすまなかった」
「……もしかして母から何か聞きましたか?」
「実は、昨晩の会話を隣の部屋で聞いていた」
それは……。ちょっと予想外かも。
思わず天井を見上げる。家を飛び出した経緯を母に話した。それを全部聞かれていたのかと思うと気まずくて仕方がない。
覚悟を決めて嫁いだのに、とんだわがままを言ったと思われていないだろうか。それとも元冒険者なのに耐え性がないと思われてないかな。
「それは、すみません」
逡巡した結果、謝罪の言葉しか出てこなかった。
それをどう捉えたのか、再びぎゅうと抱きしめられる。
「アテネに淑女になって欲しいわけじゃないんだ。無理して淑女のように笑わなくていい。刺繍もしなくていいし、剣を振るってもいい。遠乗りは、……私が時間を作る」
「でも、侯爵家に相応しくないのでは」
「そんなことはない。社交の時にそれっぽくできれば、それだけでいいんだ。それも嫌なら別に社交の場に出なくてもいい。私にとって最優先は君が我が家で笑顔でいることだ。……どうすれば笑ってくれる?何をすれば幸せを感じる?」
聞いたことがないくらい悲しい声を出されると、私まで悲しくなってしまいそうだ。そんなに笑ってなかっただろうか。
「私の幸せは、」
だから求められるままにわがままを言ってみる。
「家に帰宅したら抱き合い、食事の時はその日の出来事をいい合って、休みが合えばどこかへ出かけたり、釣りをしたり、狩りをしたり、冗談を言い合ったり、お金も権力も関係なく、お互いを信頼することです」
「うん」
「侯爵家という家柄上、全てを叶えるのは難しいこともわかっています。……だから、手始めに旦那様をユークと呼びます」
「……うん」
「それから、今後はユークがダメだと言っても遠乗りに行きます。どうしてもというなら予定を合わせてください。じゃないと私はまたララと家出します」
「うん」
「わがままですか?」
「いや、全く。もっと言って欲しい」
「本当はもっと気さくに話したいです」
「話そう。敬語も使わなくていい」
「剣を使う私は野蛮?」
「いや全く。家庭教師を変えよう。もっと、君と合うような人を探そう」
「ラニ夫人は間違っていません」
「うん。間違ってはない。でも君とは合わない。変えても彼女は怒らないから大丈夫だ」
ラニ夫人を思い出す。真面目な人だから教育係を外されても気に病まないといいなと思う。勉強になることは多いから、できればたまには会いたい。
「私が帰宅したら君は両手を広げて迎えてくれるか」
「許されるなら。本当は食事もユークが帰ってくるまで待ちたい。空腹より孤独の方が辛い」
「なら、そうしよう」
「ユーク、私を愛しているというのは本当ですか?」
「……本当だよ」
「私たち、以前会ったことがあるというのも?」
「会ったことがある、というより私が君を一方的に見てた、が正しい。数年前にこの近くにしばらく滞在してたことがあったんだ。そこで君に惚れた」
「……惚れる要素ありますかね」
「惚れる要素しかないと思うが」
この近く、ということは私がここで暮らしていた姿を見て惚れたことになる。自慢じゃないけど、惚れられるような暮らしはしていない。
冒険者の仕事をしていない時は、大抵夕飯のおかずを取りに山へ狩りにいくか釣りをしに行っていたはずだ。
「私は生まれた時から根っからの貴族だから、周りは家族を含め取り繕った人間が多かったんだ。だからこの家の人を見て驚いたよ。そして羨ましかった。だから君と家族になってみたかったんだ。
でもうちに来てから君は貴族になろうと努力していただろう? ありのままでいて欲しい気持ちと、君の努力を無碍にしたくない気持ちで何も言えなかった。結果家を飛び出すまで追い詰めてしまったみたいだ。本当にすまない」
「いえ、追い詰められた、というのは大袈裟です」
本当にそこまで深刻なことではない。
「私、ずっと体を動かしていたから、家でじっとしていられないんです。それにこう言う環境で育ったから、事務的な関係性だけだと結構寂しいみたい。剣を振ったり、ララと出かけたり、森へ散歩に行ったり、ユークともっと他愛もない話をしたり、そういうことさえ許してもらえれば家を飛び出したりしません。
本当は私も夫人の言うことを全て受け入れるんじゃなくて、そういう自分の性質とうまく折り合いをつけて、ユークに相談するべきだったんですよね。だから私もごめんなさい」
貴族らしくあろうとして、自分の限界を超えて勝手に出ていってしまったから。
「おあいこにして、これからはもっと会話をしましょう。行ってきますとおかえりなさいには抱きしめ合いましょう、そこから始めましょう」
「ああ、ありがとう」
これはだから、その最初の一歩です。
そう言って目の前の旦那様に抱きつけば、きつく抱きしめ返してくれた。
***
「じゃあ、帰るね。またそのうちちゃんとした手土産を持って帰ってくるから」
「はいはい。次は美味しいお菓子でも持ってきてちょうだい」
「わかった」
「あと手紙はもう少しこまめに書きなさい」
「うん」
「侯爵家のみなさんに迷惑もかけないように」
「母さん、わかった、わかったから」
つい小言が多くなる母をいなして馬車に乗り込んだ。いつの間にか侯爵家から迎えがきていた。
ララは護衛に任せてついてきてもらっている。流石に旦那様を馬車に一人で乗せて私がララに乗るわけにはいかないから。
一応、侯爵様と二人で乗れるか試したけど、ララは旦那様を載せることをよしとしなかった。
「いつかララに認められるだろうか」
「あー、ララはもともと男性を乗せるのが嫌いなんです。だから認めてないわけではありません。触らせている時点で認めていると思います」
「そうか」
「兄さんはいまだに近づくだけで蹴られます」
「……ならいいんだ。君の愛馬だからな、できれば仲良くしていたい」
馬車に乗って侯爵家に帰る二日間。私たちは今までで一番話した。お互いの好きな食べ物を話したり幼い頃の話を聞いたり、旦那様が今どんな仕事をしているのか、何が忙しいのか、私に何をして欲しいのか。
そんなことを毎日夜更かしして話しながら眠った。
少しだけお互いの気持ちを打ち明けて会話が増えただけのはずなのに、帰ってきた侯爵家は以前よりも明るく見えた。
やっぱり自分は少し落ち込んでいたんだな、と反省もした。今後はこんなに落ち込む前にユークに相談しよう。これは自分の新たな一面だなと思った。
帰宅早々、ユークは私と気の合いそうな護衛を一人私につけてくれた。元々騎士として働いていた女性だ。年が近いことや出身地が近いこともあり、すぐに仲良くなれた。
ラニ伯爵夫人は私の家庭教師から相談役へと変更になった。これから屋敷に訪れて私に教育することはないけれど、私が困った時は相談に乗ってくれることになった。なんだか伯爵夫人を便利に使ってはいないだろうかと思ったけれど、夫人もやや今詰めすぎたことを反省しているらしく、今は良好な関係だ。
「おかえりなさい」
「ただいま」
帰りの遅くなった旦那様を両手を広げて迎える。たとえ寒く冷え切った体であっても、抱きしめると心がすごく暖かい気持ちになる。
私が家出することはもうないだろう。




